197 クラリス、自分の勘違いに気が付いてホッとする
翌日、朝目を覚ますとクラリスさんがいなくなっていた。
部屋の中に残っていたのはベッドの上で依然すやすやと可愛らしい寝息を立てているクドと、朝まで飲み明かしていたであろう大吟醸の瓶を抱き枕のようにしておっさんのようないびきをかいて眠っている先生の姿だけだった。
昨晩、クドの隣まで運んで眠らせていたはずのクラリスさんの姿が忽然と消えてしまっていた。
けど、
「ま。仕方ないか」
きっと目が覚めて家に帰ってしまったんだろう。深く考える必要もない。昨日は結構怒っていたし、起きたら謝ろうと早めに起きたつもりだったんだけど、ちょっと遅かったな。
でも……まあ、別に二度と逢えなくなったわけでもないし、そう落胆することもないか。どうしても逢いたくなったら彼女の通っている学校の天津女学園に行けばいいだけだし、そもそも同じ月城町に住んでいるんだ。いつかすれ違うぐらいはしそうだ。
……まあ、早めに起きたとは言ってもすでに時計は一〇時を回っているが。
普段なら完全に遅刻の時間だけど今日は学校は休みだから、もうちょっと眠っていてもよかったかもしれないな。もうひと眠りしようにも部屋中が酒臭い。さすがにこの部屋でまた眠るのは厳しそうだ。
……起きて顔でも洗おう。
換気のために窓を開けて、と。
窓を開けた後、部屋を出て扉を閉めた。
「そういえば……もう一〇時ってことは下の店は営業中か」
顔を洗った後に顔でも出してみようか。
ほとんど気まぐれで考えたことを行動に移すべく、顔を洗面所で軽く洗った後、下の喫茶店に向かう階下、
「あ、かなたくん。おはよう~」
相変わらず呑気でのほほんとした母さんと出くわした。……あれ? 母さん、こんなところで何をやっているのだろう。
母さんは店の制服を着ているので店の営業中であることは変わらないと思うのだけど。
と、僕が軽く疑問に思っていると、
「かなたくんにお客さんだよ」
「え? わ、ちょっとっ……!」
母さんに手を握られてぐいぐいと引っ張られていく。
寝起きと健康的に店で働いている母さんとでは馬力がまるで違うらしく、抵抗出来る訳もなくそのまま引っ張られて店の中にまで連れ去られて行き、
「――――――遅い」
店の席で不機嫌そうにモーニングセットを食べているクラリスさんと出逢う。……え? ……え?
「か、帰ったんじゃ……?」
「……何よ」
驚いている僕を尻目にクラリスさんは構わず食事を続けている。その後ろで、
「おほほほ……。それじゃ、ごゆっくり~」
と、この状況が分かっているのか分かっていないのか分からないぐらいののほほんとしたトーンでバイバイをして去っていく母さん。
こ、この状況で帰らないで~。
店の中には他のお客さんもいることにはいるのだが、どうしてだかは分からないが何となく二人っきりにされたような気分。
「え、えっと……お、おはよう……クラリスさん」
「……おはよう」
クラリスさんはそっぽを向きながらも挨拶を返してくれた。……なんかちょっと嬉しい。
でも嬉しがるよりも先に聞いておかなくちゃいけないことがあるよな。
「あの……えっと」
「……座ったら?」
「え? いいの?」
「……別にここは私だけの席って訳じゃないでしょ。好きにしたらいいじゃない」
「あ……じゃあ、遠慮なく」
促されるようにクラリスさんが座っているテーブルの席に座るとタイミングを見計らったように母さんがコーヒーを出してくれた。すぐに店の中が忙しいからと去って行ってしまったけど。
とりあえず気分を落ち着かせるために一口だけコーヒーを飲む。
「……ふう」
熱いコーヒーが身に染みる。
「……いいお店ね」
「え?」
「……ふん、聞いてろ。ばか」
一瞬、呆気に取られてしまったが別にクラリスさんの言葉が聞こえなかったからではなく、無礼にもクラリスさんがそんなことを言うだなんて想像もしていなかったので驚いてしまっただけなのだ。
「……帰らなかったんだね」
「アンタ、言ったじゃない」
「え?」
「……店に来いって」
ああ、そういうことか。忘れていた。彼女はとても負けず嫌いだったっていうことを。
昨日の出来事を僕はてっきり忘れてしまったのだとばかり想像していたが彼女は覚えていて、負けたからにはちゃんと罰ゲームを受けなければならないと律儀にも考えたのだろう。
真面目だなあ……この子。ほんとに。
ちょっと呆れるぐらいにはそう思った。
「……ここ、私は……嫌い」
「……どうして?」
クラリスさんはカップの中のコーヒーに視線を落としながら、
「たぶん、居心地がいいから」
そう言う。
「この店の中には笑顔が溢れている。笑顔ってことは幸せってことでしょ。笑顔が笑顔を繋げて笑顔を作ってる。……私には明るすぎる。眩しいくらい。だから……嫌い」
クラリスさんがコーヒーをの中を覗き込みながらぼそりと漏らす。
「――私にはきっと似合わない、場所、だから……」
と。
「――そんなことないっ!!」
気が付けば僕は叫んでいた。
我慢の限界を超えてしまったらしい。
もちろんここが店の中だということは分かっている。
静かな。落ち着いた雰囲気と。美味しいコーヒーと安らぎを提供するための店の中で。たまらず叫んでしまっていた。
後できっと母さんと父さんに大目玉を喰らうだろう。……でも、そんなことがなんだ!
黙っていられるものか。
こんな寂しいことをいう彼女のことを。
自分のことを何も分かっていない彼女のことを。
――無理だ無理。そんなこと――あり得ない!
「……な、なによっ。急にそんな大声出して……っ」
「……言わないで欲しい」
「……え?」
「そんな寂しいこと……言わないで欲しいんだ。僕とクラリスさんとでは立場も違うし、僕がキミに何かを言えるような大層な人間じゃないことだって分かってる。友達でも何でもないキミに、こんな偉そうなことを言うなんておこがましいって、そんなこと言われなくても分かっている。……でも、でもっ! これだけは言わせてくれよ。この場所が、キミに似合わないだなんてこと……あり得ないんだ」
我ながら唐突過ぎて要領を得ない言葉だということは分かっている。だけど僕は構わず続ける。クラリスさんが少しだじろいで、周りのお客さんがこっちを訝しそうに眺めていても。そんなこと関係なく。
彼女の肩をがしっと掴んで、その手にぐっと力を込め、
「……もっと。自分を許してやって欲しい! ちょっとぐらい笑ったって……誰もキミのことを笑わない。もし……キミが笑うことを許さないヤツが……本当にもし、いるのなら……僕はそいつを絶対に許さない! キミが笑うことを笑うヤツがいるのなら……僕は、僕は……そいつをぶっ飛ばしてやる!」
それはきっと僕らしからぬ言葉だったと思う。誰かをぶっ飛ばす、なんて。
でも、許せなかった。
考えただけで。想像しただけで。
許せなかった。
彼女は笑えるのに。自分自身で笑うことが似合わないと考えてしまうような認識を植え付けてしまったヤツのことを。どうしても……許すことが出来ないと考えてしまった。
「……で、出来もしないことを……」
驚きつつ、戸惑いつつ、彼女が反論を述べた。
僕はその言葉を、
「してみせる」
一蹴するかのように真っ向から否定。
彼女の目を真っ直ぐ見て、
「キミのために」
言う。
「……なっ」
今度は明らかに狼狽する。うろたえて、そして。
「ば」
「ば?」
「ばかああああああああああああああ!」
僕の体を押して店を走り去って行ってしまった。
追いかけるべきだったのかもしれないが、クラリスさんに思い切り押されてしまい僕は尻餅をついてしまったので追いかけることが出来なかった。
走り去って、店の出口の入り口で一度彼女は止まって、
「………………………………また、来るから…………」
再び走って、今度は本当にその姿を消してしまった。
後に残されたのは店の中で尻餅をついてしまっている僕と喧噪が奪われてしまった店内の静けさだけ。
後は、
「か~な~た~く~ん~?」
珍しくトーンの下がった母さんの後ろから聞こえてくる静かで、低い声。
あ~あ……振り返りたくないな……。
「ちょっと……お話しようね~」
「…………はい」
母さんに引きずられるように店内の奥に運ばれている最中、
(ん? ……これは?)
クラリスさんに押された場所に何かの紙切れが付いていて、
(この数字の羅列……ひょっとして……電話番号?)
確かめようと思いはしたものの、
「うっふっふっふふふふ~。か~な~た~く~ん、よそ見をしている暇があるのかな~♪ 随分と余裕があるじゃない♪ うふ。うふふ。うふふふふふふ…………」
母さんの優しい顔で言う脅し文句のせいで確かめることも出来なかった。
この後、めちゃくちゃ説教された。