183 久遠クドちゃんの大変で楽しい学園生活
昨日、初めて『がっこう』なるものに行った。――いや、こういう場合『とうこう』したとか言うらしい。改めて。昨日、初めて学校に登校した。
何だろう。
むず痒い。
心の底がぞわぞわってして。でも、どこか心地よい。
初めて、彼と同じ空気と場所を共有した。不可視状態ではなく、見て、触れて、すぐ隣で感じられる場所で。
嬉しかった。
一言で言い表せないほど、嬉しい。
いつも隣にいる。
でも、彼が日常生活をしている時、――彼が他の誰かと話をしている時、クドラクは不可視の誰にも見えない、誰にも触れられない、誰にも認知されない、そんな状態で隣にいることしか出来なかった。
でも……今日、クドラクは人の優しさに触れた。
直に。肌と肌が触れ合ってしまうほどの距離感で。
教室は賑やかだった。
知っていた。
いつも少年の隣でその光景を眺めていたから。
でも。
知らなかった。
知識と経験。
その相違に戸惑ってしまった。
でも。
……悪くなかった。
いや、寧ろ。
(ううん……そうじゃない)
――楽しかった。……楽しかった!
みんなの前で自分の名前を名乗った時、心臓が張り裂けそうなほど緊張して、死んじゃうかと思った。
(久遠……クド……)
自分に名前が出来た。
久遠クド。
ただのクドラクなのに、名前が出来た。彼と同じ、久遠。
「~~~~~!」
は、はずかしい!
何でだか分からないけど、ものすごく恥ずかしい!
クドラクは訳も分からず、その場でドンドンと跳ね回る。ここ最近で一つ学んだことがある。自分は恥ずかしさを誤魔化したり耐えられなくなってしまうと無意識の内に体を動かしてしまうらしい。
(久遠クド……久遠クド……久遠クド……)
「……うふふっ♪」
恥ずかしいけどこの名前が少女のお気に入りらしく、何度も心の中で呟いてみては頬を緩ませて笑うようになった。笑っている間、クドラクは幸せに浸れるから、ものすごく楽しかった。
ぷちん、ぷちん。
ブラウスのボタンを付けようとして、なぜか外れる。
……?
クドラクは悩んだ。
扉を見る。
「…………」
見て、
「……」
ハッとして躊躇う。
そう言えば言われていた。
“いいかい? 絶対に、ぜ~ったいに着替えが自分で出来るようになるまでは僕を呼んだりしてはダメだからね!”
と。
そう、クドラクは今久遠家の彼の部屋の中でお着替えの真っ最中であった。
クドラクの中で着替えなど誰かにやってもらえばよいという認識が強くあった。実質、クドラクは自分一人の力で服を着たことはあまりなかった。服どころか下着さえも彼の母親である久遠夕実に手伝ってもらっている。最近になってようやく慣れてきた気もするが、やはり服を自分で着るのが苦手。
でも、着なくちゃいけないらしい。自分で。一人で。誰の助けを借りることもなく。
『がっこう』には『たいいく』とかいうものがあって、その時にはその『じゅぎょう』を受けるための専用の服装があって、その服に着替える機会もいずれ訪れる可能性があるとして、彼がクドラクに一人で制服に着替えさせていたのだ。
しかし不思議なことが起こる。
クドラクは真剣だ。真剣そのもの。
なのに、服を着ようとすればするほど、服が脱げていく。
まず、ボタンが付けられない。――というか、意味が分からない。どういう原理でボタンが付くのか、見当すらつかない。
次に、スカートが勝手に落ちる。スカートにもボタンが付いていて、それをちゃんと付けないとスカートが固定されないので、結果的にスカートがずり落ちてしまう。
「ふ~む」
腕を組んで考える。
首を傾げてみたり。
また扉を見る。
(いや……ダメだ。呼んではいけないと言われたばかりだし……それにこれ以上ワガママを言うわけには)
首をふるふると振ってからボタンと格闘。
ボタンとブラウスをくしゃくしゃと丸めて、何とか形になる。スカートも同様。ただし、何とか形になっているだけ。
――だが、
「できた」
クドラクは完成したと思い込んでいる。
「よし」
ちょっとしてやった感の顔をして頷く。制服を着こんで、部屋の中にあったスタンドミラーを見た。そこには制服姿に身を包んだ自分が映っていた。
制服姿の“久遠クド”。
ぱたぱたぱた。
また地団駄。
とっても、恥ずかしい!
ベッドの上に飛び移って、ごろごろと転がる。
やっぱり、恥ずかしい!
ごろごろ転がっていると、
「あ……」
ふと。
あの言葉を思い出す。
昨日の宿敵である栗栖梨紅から囁かれた言葉を。
“好きなんでしょう? 彼のことが。だから彼の傍にもっといたいと思った。違う?”
「~~~~~!」
顔が勝手に熱くなる。ぽっぽっと顔が熱を帯びていく。
“前に言いそびれたこと、言います。あなたは……“恋”をしていますよ。私と同じく……ね”
(恋……恋って……)
自分に最も無縁だったであろう人間の言葉。
言われた時は顔が熱くなったし、そもそも今も顔が熱い。でも、と。クドラクは思う。
(――恋って、……どう、すれば……いいのだろう?)
恋の正体が分かったところで、その問題だけは解決出来そうもないクドラクである。
と、その時。
「クド~? そろそろ着替え終わったかい?」
そう言いながら、扉を開けて彼が入ってきた。
扉が開いて。
二人、固まる。
クドがベッドの上で転げ回ったせいで、服が色々とはだけ放題であった。ブラウスのシャツも全開だし、スカートも中途半端に脱げて純白の下着も丸見え。
「いっ!?」
初めに声を出したのは彼だ。
これは別段変わったことでもない。何度も見た光景。下手をしたら親の顔よりも見た光景かもしれない。
でも。
今回は少しだけその後が違った。
ぷるぷると震え、
「み、み、み、み……」
少女が枕を持って、
「見ちゃ……ダメ~~~!!」
少年に向かって思いっきり投げた。
「わ、わ、わわっ! ご、ごめんよ~!」
顔に思い切り枕が直撃した彼は慌てて扉を閉めて部屋から出て行ってしまった。
「はあ……はあ……」
肩で息をして、乱れた服装を直すクドラク。
彼女は不思議に思っていた。
彼にはもう裸を見られたことが何度かある。下着ぐらい見られたって何とも思わないと思ったこともある。一緒に温泉に入ったことだって。
今さら、こんな格好ぐらい。
そう思う自分がいるのと同時に。
――なぜかこの乱れた格好を彼に見られるのが嫌な自分がいたことに、クドラクは困惑するのであった。