182 久遠クドちゃんの大変で楽しい学園生活
今から数時間前の出来事。月城高校の養護教諭である八神環奈はとある電話で目を覚ました。枕元に置いたスマホがアラームが鳴るよりも先に鳴ったのだ。
夜遅くまで酒をあおっていた環奈は目をしばしばとさせながらもスマホを手に取り、
「……はい?」
『おはよう~』
朝から嘘みたいに陽気な声。
「……だれ? ってか、今何時?」
二日酔いでもしたのか頭の奥がガンガンと痛み、すこぶる不機嫌だった。それは環奈の声のトーンで分かるものなのだが、電話の相手にはその不機嫌さが伝わっているのか伝わっていないのか判断が難しいほど、
『夕実ちゃんです。今はね~四時くらい?』
恐ろしいほど能天気な声だった。
「姉さん……? ってか、四時だあ。まだ、ほとんど寝てねえよ」
前日、三時ぐらいまで吞んでいた環奈は事実上一時間も睡眠を取っていなかったため、えらく不機嫌。寝起きは最悪。
『あ、もしかして……寝てた?』
「当たり前だろうが! 四時だぞ、四時!」
『あはは。ごめんごめん~。こっちはカフェの仕込みとかあるからもう起きてたから、環奈ちゃんも起きてるかな~って』
「んなわけあるかぁっ!」
『あはは』
「あははじゃねーよ、まったく」
実際、教師の朝も早いは早いのだが、さすがに四時はない。――ない!
少なくとも、――環奈先生には。
「で。何だよ、こんな朝っぱらから姉さんの能天気な声を聞かされている身にもなってくれよ。オレはもっと寝てたいんだ」
『えへへ~』
「…………」
ダメだ……。
どう転んでも姉さんのペースになってしまう。こうなってしまうと一気に毒気が抜け、眠ったままの体勢で話すよりもちゃんと座って話して、とっとと話を終わらせた方が早い。そう考えた環奈は布団の上で胡坐をかき、腰を据えて話を聞くことに。
電気の点っていない暗闇の部屋の中、環奈は手探りでタバコを探す。
タバコを見つけた環奈はタバコに火を付け、口元へと持っていき、
「で。結局何の用なわけ? そっちだって仕込みの途中なんだろ。お義兄さんに余計な負担を与えんなよ嫁さん」
『うん。まあ……それは分かってはいるんだけれどね~、ちょっと環奈ちゃんにお願いがあるの』
「お願い? こんな朝っぱらから?」
環奈は電話の向こうの夕実の声のトーンが少しだけ落ちたことに気が付く。この声の時はどっちかというと“久遠夕実”というより、若かりし頃の“八神夕実”を彷彿とさせる。
環奈は久しぶりにその声を聞いた。
何か真剣な話でもあるのか、と。
少し前のめりになって。
『あのね、クドちゃんをかなたくんと同じ学校に行かせたいの。しかも、同じクラス。環奈ちゃん、お願い♪』
ずるっとこけた。
「うわちっ!」
タバコを太ももの上に落として、軽い火傷まで負った。一回のボケに対するコケにしては代償がデカすぎる。
(……てか。今、何を言ったこの人)
聞き間違いでなければあの子を学校に通わせたいと夕実は仰った。
(オレが言うのもなんだが、そりゃ無茶ってなもんだぜ? お姉ちゃんよ)
夕実も知っているはずだ。学校に通うには手続きがいる。色んな書類に目を通し、それらをクリアして、ようやく子供は学校に通えるもんだ。
なので、
「……難しいんじゃねーのか?」
と、ここは先生の顔で常識を電話の向こうの能天気お姉さんに伝えてやる。
『え? どうして?』
「いや、学校って言うのは慈善事業でやってるわけじゃないからさ。あの子を学校に通わすには色々と無理があるんじゃねーのって話。姉さんが何を考えてそう言うのかは分からないけどさ、う~ん……って感じよ。無理。諦めてくれよ」
『いやいや、そうじゃなくて』
「は?」
『環奈ちゃんの口から建前が出るなんて、おかしいよね。だってそうでしょ?』
夕実は八神夕実の声で、
『久遠かなたと栗栖梨紅、二人が再会したのって環奈ちゃんの差し金でしょ?』
「…………」
たらっと冷や汗を掻く灰色のスウェット姿の環奈。
『あ。もしかして……隠しているつもりだった? だったら、ごめんね。私ね、とある日にあの子と再会したの。これは……うん、偶然。ほんと。家にやって来たの、梨紅ちゃんがね。私、驚いたな……だって、あの梨紅ちゃんだよ? とっくに“八神”に処理されているものとばかり。……確か、担当は環奈ちゃんだったよね』
夕実は電話越しで続けざまに、
『負い目でも感じてた?』
「…………」
環奈は固まっていた。
タバコを灰皿に押し付け、テーブルの上に残っていた酒をあおる。
「別に。感じちゃいねーけどよ、不憫過ぎんだろ」
“八神”に罪が無いかと言われれば無いかもしれない。だが幼少の頃の栗栖梨紅にしてしまったことは八神環奈にとって、それは“罪”以外の何物でもなかった。
家族離散。
その原因の一端となったことに、負い目がないわけもなかった。
……だから、教師になった。教師になって、あの二人を再会させてやるために。それだけの理由で、八神環奈は“八神”に身を置くことにし、それでいて教師になることを志したのだ。
固まっている環奈の様子をまるで窺がい見るかのように静かにな口調で、
『……環奈ちゃんが負い目を感じる必要なんてないんだよ?』
と、夕実がいつもの優し気な“久遠夕実”の声でそう言う。
『環奈ちゃんは命令に従っただけ。……それに、私は同情しない。娘に愛情を持たない親なんてね、私……同情しないよ。どんな娘だって娘だもの。可愛がるのが普通なの。……それが出来なかった男に、私……同情なんてしないよ』
それは夕実の静かなる怒りの籠った声だった。
静かで、青白く燃え上がる炎のような。
そんな怒り。
よそ様の家庭の事情にそこまで共感して怒りを覚えることの出来る夕実を果たして野次馬根性と呼ぶべきなのだろうか。それとも。
環奈は黙って酒をあおり、
「……なあ。一つ聞かせてくれ」
訊く。
『な~に?』
柔和な声。
「何であの子に肩入れする? どうしてそこまでする?」
電話越しで、
『ふふ』
夕実が微笑んだ。
『――娘、だから』
たったの一言で答えた。その言葉にはそれ以外の感情なんてものは込めていなかった。もう、それだけなのだ。その一言に全てが集約され、何重にも重ねられた本物の愛情がそこにはあった。
酒を啜り、残っていた酒の全部を呑み干す。
「……分かった。オレの方で何とかしてみるよ」
『……私の能力貸す?』
「いや」
環奈はふるふると首を横に振った。
「姉さんはもう一般人なんだ。そんなむやみやたらと力を使うもんじゃない。……それに、校長は理解のある人だ。恩も与えてる。オレがあの学校で教師をやっていられるのも、校長の恩義に甘えているところがあるし、今回もそういう感じで何とかなるさ」
『そっか~。ありがとね~環奈ちゃん』
電話を切る寸前、
「あ。そうだ。一つだけ聞かせてくれ」
と、聞いた。
「ここ最近で姉さんの能力、何に使ったんだ?」
夕実は、
『最近はあまり能力を使わないようにしているけど、……梨紅ちゃんに逢った時に一回だけ。苦しそうなあの子の顔を見ていたら何となくほっとけなくて。ちょっと……ね」
柔らかく。
『喧嘩をさせてあげた』
そう言って、電話を切った。