177 クド、キミは一体何を望むの?
「じゃあ、別に嫌なわけじゃないんだよね。かなたくんと指切りをしたのが泣くほど嫌だった……っていうのは」
「ありえないっ!」
「はは……そっか」
はっきりと断じて否定したクドに対し、夕実は喜びさえ覚えた。自分の息子のことをこんなにも慕ってくれているのだと思うと誇らしくさえある。
「でも……じゃあどうして泣いていたの?」
ことっと。クドはホットミルクのカップを静かに置き、
「…………それが、分からないんだ」
と、言う。
「分からない」
こくりと頷いてから、
「カナタは……優しい。わたしに色んなことを教えてくれたりする。……わたしはカナタに何もしてあげられないのに……」
ホットミルクの一点を見つめる。その瞳にわずかばかりの影が差し込む。
「そんなことないと思うけどな~?」
のほほんと言ってみせる夕実の言葉に他意は恐らくない。本気でそう思っている。だけど、クド自身はその言葉に慰めの言葉が含んでいると思っているのか、
「……ううん。いいんだ。ユミ、ありがとう。こんなわたしのためにそんなことを言ってくれて」
ほとんど涙声でそう返す。
「う~ん」
ぽりぽりと夕実は頬を軽く掻き、
(ほ~んと。似てるなーこの二人。本人たちは気づいているのかな?)
などと心の中で軽く疑問に思う。
「それで? クドちゃんが泣いていた理由とかなたくんが優しいってのはどう繋がるのかな? 話を聞いていると全然泣くような理由が見当たらないんだけどな~?」
「…………」
クドは一度言葉を渋った。
恐らく理由を口にすることを憚れ、逡巡しているのだろう。――だが、ついに少女の口から思いのたけが吐き出た。
「……優し、すぎる……」
「え?」
「かなたは……優しすぎるんだ。わたしに……。いつも、優しすぎる」
「えっと……?」
「優しいから一緒にいるのが楽しくなる。もっと一緒にいたいって……思いたくなる」
「……それっていけないこと?」
「え……?」
今度聞き返したのはクドの方だ。夕実はのんびりとした声で、
「クドちゃんを見ているとね、何だかそれがいけないことみたいな顔してるから。私は嬉しいけどな~。クドちゃんみたいな可愛い子に一緒にいたいって」
「か、可愛いって……!」
「うふふ~。照れた顔も可愛いわね~、もうぎゅ~ってしたい!」
「し、してる! 今、してる! ぎゅーって……! く、苦しいよ!」
我慢が出来なかったのか、夕実は言いながらクドのことを正面から抱きしめていた。――正面から思い切り抱き付いてしまっているので、夕実の胸がクドの顔を埋め、
「うぷぷ」
「はわ~……クドちゃんの温もり……たまんないわ~」
大変悦に浸っておられる。
正直、息苦しい。
柔らかな感触でクドは死にそうになっている。
だけど。
「…………」
何だか安心出来るような妙な温かさにクドはだんだんと抵抗することをやめていく。
「ふふ。……クドちゃん」
大人しくなっていくクドの頭を軽く撫でながら聖母のような声で、静かに言う。
「いいんだよ~……クドちゃん。クドちゃんはもっとワガママになっても」
「…………えっ?」
「クドちゃん……どこか遠慮しちゃってる。私ね、クドちゃんのことを本当の家族みたいに思ってる。それは……かなたくんも楽斗くんも一緒だと思うよ~?」
「……か、ぞく……? わたし……が……?」
「うん」
「…………でも」
「…………えい」
「はわっ」
有無を言わさぬような抱きしめ攻撃にクドは陥落寸前である。
今日は初めての経験ばっかりだ。彼の指切りにせよ、夕実の抱き付きにせよ。とにかく……初めての経験ばっかり。
クドは初めて、この二人の親子は本当に似た者同士だなと思った。
他人に……優しすぎる。
ぎゅっと。
クドは夕実の胸元を掴んでいた拳を握る。
優しいから。
だから……。
……甘えたくなる。
目を瞑り、親子の抱擁に身と心を沈めていく。
「……どうしてわたしに優しくするの……? いくらユミたちがわたしのことを本当の家族みたいに思ってくれていても本当じゃないでしょ? だったら……」
掻き消えそうなほど小さな少女の声。
その少女の声に夕実は全てを包み込むような抱擁で応える。優しく抱きしめ、優しい声で、
「本当じゃない……か。うん、そうだね。私たちがいくらクドちゃんのことを大好きだって思っていて、私たちがクドちゃんのことを本当の家族みたいに思っていたって……本当の家族ではないのかもしれないよ。でも……本当じゃなくったって、私は……ううん、私たちはクドちゃんのことを本物の家族だって思っているから。だから……クドちゃん、もうね……そんな寂しいこと言わないで欲しいな。……もう。クドちゃんは独りじゃないんだよ……。私たち……本物の家族がいるんだって、ちゃ~んと覚えていて、ね?」
そう諭す。
「…………ユミ……っ…………ゆ……み……っ……」
また。
涙が零れた。
またもや不思議な涙だ。
哀しくなんてない。
辛くなんかない。
苦しくなんが――ない。
でも、クドは心の底から湧き上がってくる感情の波に逆らうことが出来なくなっていた。
「うふふ……泣き虫さんだね、クドちゃんは」
「う……うっ……」
「でも……嬉しいな。クドちゃんが私の胸で泣いてくれて。何だかクドちゃんとの距離が縮まったような感じがするよ~。いっぱい泣いていいよ。いっぱい――甘えていいよ。クドちゃんは私たちの可愛い娘なんだから」
胸の中で震えながら泣きじゃくるクドの背中と頭をぽんぽんと撫でながら夕実は嬉しそうな顔でそう言う。
それから続けるように、
「涙ってね、クドちゃんの言う通り、哀しい時、辛い時、苦しい時に流すものなんだけどね。勝手に涙が流れる時っていうのもあるんだよ?」
「え……?」
「嬉しい時とか、――寂しい時とか……たまらず流れてしまう涙っていうのもあるの。……心当たりはないかな?」
「嬉しい……、うん……そうだ。今、わたし……嬉しい。そうか、嬉しいのか……わたし……」
「うふふ」
顔を上げて、夕実の顔を見ると夕実が微笑みを返してくれて、クドの顔が真っ赤に染まる。あまりの恥ずかしさにクドはまた胸の中に顔を隠した。
「あらあら」
「う、うう~!」
顔を紅潮させ、胸の中で慌てふためくクドは、ふと。
「…………寂しい?」
と、そんなことを思った。
先ほどの夕実の言葉の中に寂しいというワードが混じっていたことにクドは気づいたのだ。
クドは初めて嬉し涙というものを流した。実体験に勝る証拠は他にないだろう。だから、クドは嬉し涙というものは、ちゃんとあるんだろうな……と、思うことが出来た。だけど。
顔を上げ、
「人って嬉しいと泣いちゃうんでしょ? でも……さっきのは……たぶん、違う。あの涙は……嬉しいから……流したんじゃ……ない……」
「ひょっとして……寂しかったの?」
「寂しい……? わたしが……?」
言葉にしてみて、クドは首を傾げた。
再び、今まで感じたことのないような感情の正体。
以前の彼女であれば、感じることさえなかったような、不確定な事象。
「……クドちゃん、さっき言ってたよね。かなたくんと一緒にいるのが楽しくなっちゃうって、もっと一緒にいたくなるって思っちゃうって。……でも、それって言い換えると一緒にいられなくなるのを想像しちゃうと、たまらなく怖い気持ちになるでしょ。ずっと。このままずっと一緒にいられたらいいのに……。でも……それが叶わないんじゃないかって思ってしまうと、ものすごく心が切なくなるような、そんな気持ち。――それが、寂しいって気持ち。……ねえ? クドちゃん。もしかして……そんな気持ち、かな?」
まるで心を見透かされたかのような夕実の言葉。
その全てがクドの心の中を絨毯爆撃のように言葉と言う刃で突き刺していく。
「…………」
言葉にすることが出来なかった。だから、クドは小さく頷いて、また、ぎゅっと拳を握る。
「そっか」
ぽんぽんと、夕実はクドの頭を撫でて、ぎゅ~っと、強く抱きしめた。
「…………」
クドは何も言わず、胸の中で静かに唇を噛む。
少女の小さな体は震えていた。
クドは初めて、“寂しい”という言葉の意味を知ったのだ。ずっと、独りだった小さな吸血鬼は、初めて“寂しさ”という感情に打ち震えていた。それは彼女の体を抱きしめていた夕実の体にも伝わっていて。
「ねえ」
静かに問う。
「クドちゃんは……どうしたい? 私に、教えて? クドちゃんは“寂しい”という気持ちを知って。それから。クドちゃん自身はこれから……一体どうしていきたいのか」
耳元で。
「クドちゃんの……望みは、何?」
そう囁く。
「…………わたし」
こくんっとクドの喉が鳴り、すうっと息を吸う音。
そして、やがて。
「望み……なんて、大それたものじゃなくていい。……でも、でも。……知りたい。もっと、もっと……カナタのことが知りたい。彼のことが……もっと知りたくて。共感したい。彼と一緒に。彼の傍で。――カナタのことが、もっと……知りたい」
それは小さな少女の小さな望み。
ただ、彼のことが知りたい。
たったのそれだけ。
他人からすれば「そんなこと?」で片づけられそうなほど小さな願い。
だけど、その願いは少女の心の底から滲み出てくるような、本当に叶えたい少女の小さくて大きな望みだった。
「……!」
と、言ったその矢先。
「きゃっ」
「ご、ごめん!」
クドが夕実の体を突き飛ばした。
言葉にした気恥ずかしさに加え、つい先ほどまで感じていなかった尿意がクドの体内に戻って来たらしく、
「お、おしっこ……! も、もれる……っ」
と。
「あ、あ~……そ、そうなの?」
いきなり突き飛ばされたのでちょっと驚いていた夕実だったが、別に自分が拒絶されたわけではないことを知るとほっと一安心するように小さく息を漏らして、
「じゃあ……行ってらっしゃい」
手を振ってクドのことを見送る。
クドは慌てて、リビングから飛び出て、その背後から。
「クドちゃん……大丈夫だからね。クドちゃんのワガママ、私が叶えちゃうからね。夕実ちゃんにお任せあれ♪」
と、夕実の声がしていたが、もうすでに夕実の声は届かないほどクドは緊急事態だった。
「も、もれる~っ!?」
◇
「ふう……」
トイレにギリギリ間に合ったクドは便座に座りながら顔を上げ、
(そういえば……ユミ、外が騒がしいって起きてきたんだよな)
ふと、そんなことを考え、
(でも……あの時のわたしって誰にも見えないし、音も聞こえない状態だったような気がするんだけどな……どうしてそんなことを言ったんだろ?)
頭の上に疑問符を浮かべながら、事を済ませた。