176 クド、キミは一体何を望むの?
「はい。ホットミルク。あったまるよ~」
「………………うん」
クドは言われるがまま、夕実の淹れたホットミルクを一口飲む。
あったまる。
二人は現在、音もしない丑三つ時の家のリビングにいた。クドは夕実に「夜は冷えるからね~」と、半ば強引に渡されたねずみ色のブランケットを肩に羽織って、また一口、ホットミルクを口に運ぶ。ちょっと甘みを感じるのは夕実の隠し味のハチミツ。ミルクを温める際にハチミツも一緒に溶かして淹れたらしい。
クドは料理の一切を知らないが、これは素直に美味しいと言える味だった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
しばらくクドがミルクを飲んで。
それを夕実が黙って見守って。
そんなやり取りとも言えないようなやり取りが、何度か続いて。
先に音を上げたのは、小さな少女の方だった。
「…………ユミ?」
「ん~?」
「……えっと……」
「なになに?」
「う~……」
クドは少し困る。
聞きたいことは山ほどあるのに、何から聞けばよいのか分からずに戸惑う。そして、その様子を夕実はにこやかに笑って黙って聞いている。
催促はしない。
焦らそうともせず。
黙って、聞き手に回る。
夕実はそれを一貫して通す。
何かしらの意図があるのは間違いないのだが、今のクドにしてみれば少し気恥ずかしい。何せ、自分が泣いている姿を目撃してしまっているのだから。
いや、だからこそ、普通なら夕実の方が聞けばよいのではないかとクドは思う。
何で泣いていたの?
って。
聞けば。
答えるのに。答えられるのに。
だけど、決して夕実は話し手側には回らない。
待っている。
クドがちゃんと言うのを。
「ふう」
クドは。
観念するように、一度、小さくため息を漏らす。
「…………わたしにも、分からない」
と、クドは俯きながら呟いた。
両手で持っていたホットミルクのカップを覗き込むと、顔に湯気が当たって、ちょっと。暖かい。
「分からない?」
と、夕実が聞き返してきたので、
「うん」
「……分からないって何が分からないの?」
「さっき……。見たんだろう。その、わたしが泣いていた姿を」
「えへへ……。ごめんね。なんだか覗き見するような感じになっちゃったね。本当に、びっくりしちゃったんだよ。夜、ふと目を覚ましてみたら……外が何だか騒がしくってね。ほんとう……ごめんね」
「…………そうなんだ」
クドは言いながら少しだけ何かが引っかかった。
だけど……。
何が引っかかったのかを理解するのにはまだ時間が足りなかったらしく、
「……ごめんなさい。うるさくして」
と、頭を深々と下げて夕実に対して謝罪する。
「いいんだよ~」
柔らかな笑みで夕実はそれを軽く流した。厭味でも何でもなく、本当に気にしていない様子。
「じゃ、話戻そっか。えーと、あ、そうそう。クドちゃんがどうして泣いているのか分からないってことだったね」
「“泣く”って哀しいから……“泣く”んでしょ? それは……分かるんだ。わたしでも……。哀しかったり辛かったり苦しかったりするから、人間は“泣く”んだ。……“泣いて”それを少しでも誤魔化すために。“泣ける”ように神様が“泣ける”体を作ってくれたんだ」
「ふふ……そっか。クドちゃんはロマンチックなんだね」
「わたし……たぶん、たぶん……なんだけど……初めて、今日、初めて……“泣いた”」
クドが少しだけ顔を上げ、目を瞑る。
「……自覚、出来た。わたし、“泣ける”んだ……って」
弱々しくうっすらと目を開いて。
「……わたし、でも」
「……………………えいっ」
「え? …………ふわっ!?」
薄目だったクドの目が思い切り開かれることになった。――何せ、クドのおでこを夕実がいきなりでこぴんをしてきたのだから。
これには、少し。
驚く。
「は、はわ……な、なに……?」
「こーら。何を泣くことに戸惑っているのかな? 泣いて当然でしょ。クドちゃんは普通の女の子なんだから。そりゃあ……たまには泣くよ。全然おかしくなんてないよ?」
「…………普通、の?」
何やら呆けるようにクドはおでこを軽く押さえながら固まった。
その言葉は自分に向けられるべき言葉では――ない。だから聞き違えたのかとさえ思う。だけど、夕実はにこにこと笑いながら「えい、えい」と、まだ固まったまま動けないクドに対してからかうように、おでこにでこぴんをしたり、ほっぺたをむにむにとしてクドのことを弄んでいる。
ちょっとやめてほしい。
えっと……。
「べ、別に……泣いていたことに驚いていたわけでは、ない……よ?」
「じゃあ? 何で?」
「…………泣く理由がないんだ」
「え?」
「人は哀しいから泣く。人は辛いから泣く。人は苦しいから泣く。……でも、別にどれでもない。わたし……哀しくも辛くも苦しくもないのに、あの時……涙が勝手に流れたんだ。だから……自分が自分で分からなくなっている。もしかして……おかしくなったんじゃないかって……思って」
「ふむう……?」
神妙な面持ちで呟いたクドに対し、夕実はのほほんとした雰囲気のまま、とある疑問を口にする。
「クドちゃん。……泣いちゃったような原因って何かあるのかな? もし、本当に何の前触れもなく泣いちゃったんなら、今度一緒に病院に行こ。……眼科、かな? ひょっとしたら病気かもしれないし。でも……それを判断する前にクドちゃんから話をもっと聞きたいな。何か……ある?」
「何か……って………………………………………………!」
何かと尋ねられて。
クドは思い出したように顔を紅潮させた。
思い出す。
自分がなぜ廊下で騒がしくなってしまったのか。
慌てて指を後ろ手に隠した。――が、かえってそれが夕実の目に不自然に止まり、
「ゆび?」
「へっ!?」
思い切り変な声が出た。
「指がどうかしたの? どこか怪我でもした?」
「い、いや……」
変に隠してしまったせいで夕実に余計な心配をかけてしまったようで、しきりにクドの隠した指を見ようとする。でも、それはただの杞憂……というか、勘違いだ。クドはどこも怪我をしていないし、指は健康そのもの。あえて指の異常を指すならばちょっと爪が伸び始めてきていることぐらい。
指を隠しながら平静を装いつつ、
「…………カナタ……と」
「へっ?」
「ゆび……きり……した」
「指……切り? 指切り……って……あの?」
「うん。初めてだった。誰かと……そんなの、したの」
「そっか」
夕実は優しく頷きながらも少しだけ首を傾げる。
(指切りしたぐらいで……そんなに赤くならなくてもいいのにな~? ま~それが、かわいいんだけど♪)
クドは隠しているつもりだったが、顔は見れば明らかなレベルで真っ赤に染まっている。本人が隠しているつもりなのがバレバレだったので、夕実はあえて顔の温度については触れないで話を進めることにした。
「それで? 指切りをしたクドちゃんはどうして泣いちゃってたりしたの? ……もしかして嫌だったとか?」
「そ、そんなわけないっ!」
バンッと、机にホットミルクの入ったカップを叩きつけ、クドは慌てて否定した。
認めるわけにはいかなかった。
その言葉だけは。絶対に。
「嫌なわけ! そんなわけ……! だ、だって……嬉しかったもん。あんなことされたことなかったから、初めての経験で、……少し驚いた。でも、絶対に嫌なんかじゃない!」
鬼気迫る迫力に少し気押しされる夕実。
夕実にとって、恐らく初めての経験だった。クドが感情を露わにして“怒る”だなんて。
ちょっと……夕実は嬉しくなって、口角がわずかに上がる。
「ごめんなさいね。クドちゃんに嫌な思いをさせたみたいで」
「あ……」
自分と夕実の温度差を肌で感じたクドがしゅんとなり、
「こっちこそ……ごめんなさい」
と、言って。
また、ホットミルクを一口飲んだ。