174 クド、キミは一体何を望むの?
「…………カナタ」
「うん?」
腕から離れるとクドがこちらを見据えながら、
「うれしかった」
と、言う。
白檀のやつがいなくなってしまったので不可視を解いている。
そんな状況で、
「え?」
「うれしかった」
と、クドが言った。
何のことだろう……?
と、一瞬だけ頭を過ぎったが、何のこともない。
さっきの問いの答えについて。
「わたしを選んでくれて。助けてくれようとしてくれて。そこはかとなくうれしかったぞ。本当に。ほんとに……」
クドは言葉で僕に感謝を述べてくる。
なのに。
(ど、どうしたんだ……?)
「…………でも」
(何で……そんなに哀しそうな顔をしているんだ……キミは……)
「でも……それと同じくらい、うれしかったのと同じぐらい……。とても、とても……哀しかった」
「哀しい……? ど、どうして?」
クドの表情が今まで見たことのないような憂いを帯びたようなモノになる。……少しだけ。大人びて見えた。
「さっきの男が言っていただろう。誰かが必ず犠牲にならなくてはならない――って」
クドがじっとこちらを見る。
その目は真剣そのものだ。
冗談の「じ」の字の混じりけもない曇りのない眼。
「そういう時、カナタなら自分を犠牲にする道を選ぶんじゃないかって思ったよ。でも……でも……」
クドが拳を握る。
きゅっと一度だけ目を瞑って、もう一度開く。
そして、
「わたしは哀しい。カナタが犠牲にならなくちゃならないなんて……そんなの。……哀しい」
「クド……」
僕は。
猛省する。
あれはただの例え話だ。
よくある、ありきたりで、馬鹿馬鹿しい――例え話。
だけど、クドはそれを自分たちのことに完全に置き換えて考えてしまっている。
それはもちろん、僕もそうだった。
登場人物が僕と梨紅ちゃん以外、全員が匿名の空想キャラ。白檀がとっさに思いついたような命も何も吹き込まれていないお人形。
でも、妙な親近感は確かにあった。
僕が僕で。
栗栖さんが梨紅ちゃんで。
年端もいかぬ少女がクドで。
異国の外国人の女の子がクラリスさん。
ただの偶然にしては妙な親近感があることはまた事実。
「ごめん……軽率だったかも……しれないね。それは……うん、それは……謝るよ。ごめんなさい。……ねえ、一つ聞いていいかな?」
僕はその事実を受け止める。
その事実を僕はチャンスだと思うことにする。
こういう機会でもなければ、たぶん……一生聞けないような気がするから。
「僕は……もし、もしも、だよ。白檀……さっきの男の人のことね。白檀が話しているような状況になったら……たぶん、同じ選択をするかもしれない。誰かが犠牲にならなくちゃいけないような選択を迫られたら、たぶん……僕が。僕が犠牲になるような選択肢を再び選んでしまうのかもしれない」
「…………っ」
「でも……じゃあ……クドだったら、どうしてた? クド、キミは一体何を望むの? ああいった状況に陥ってしまった場合、キミは……キミの望みは……キミの選ぶ道は……一体?」
「……わたしは」
僕はクドの次の言葉をじっと待った。
クドが考えている間、まるで時が止まったかのような感覚にさえ陥る。
時間にして一分か、はたまた数秒程度の間だけだったのか。
しかし、少なくとも僕の感じた時間はそれ以上であったことに間違いはない。
そして。やがて、
「わたし、は」
クドが口を開く。
「……きっと、きっと……カナタと同じことをする。……ほかのみんなを助ける。……犠牲に……なることを……望む」
と。
(……!)
胸が。
お腹が。
心が。
――痛い。
痛んだ。
クドが自分で選んだ道は僕と同じ。
みんなのための犠牲。
言葉だけ聞けば、本当に美しいと思う。かっこいいと思う。
だけど、
「…………っ」
僕は思い知らされた。
犠牲になるという言葉の本当の意味を。
犠牲になるということは美徳ではない。相手に罪悪感を押し付けるということに等しい。
何と。
愚かしいことか。
僕は、まるで知らなかった。
「…………いや、だよ」
「……カナタ?」
「そか。……こんな気持ちだったんだね。クドも」
自分を助けてくれることはもちろん嬉しい。
だけど。
自分のせいで犠牲になられると。
すごく、すごく……悔しい。
僕の場合は哀しいという感情よりも先に悔しいという思いの方が強く押し出た。
僕は改めてクドに向き直して、
「僕は……嫌だ。クドが犠牲になることを望まない。……クドは……僕が犠牲になることを望まない。これじゃあ……話はずっと平行線だ。解決できない」
とんっとクドの肩に手を置く。
「だから……こうしよう。僕とクド、二人は二人が犠牲にならないよう、努力しよう。僕はクドが犠牲にならないように努力する。で、クドは僕が犠牲にならないように努力するように心がけよう。……もちろん、僕たち以外の誰かが犠牲にならなくちゃいけないなんて状況もノーだ」
「努力……」
「そう、努力だ。二人が二人を気に掛ける。もし、相手が自分が犠牲になればみんなが助かると思い込んで行動に走ったら、全力で止めるんだ。最悪、力尽くだっていい。……探すんだよ。誰もが犠牲にならないような道を。諦めず。妥協せず。……二人がダメでも、今の僕たちには仲間がいる。みんなと協力すれば、解決出来るさ」
「……出来る、……かな」
不安そうな顔で僕を見上げたクドの顔に負けないぐらいの強い気持ちを僕は表情に出した。にかっと笑って、
「出来るさ!」
バカみたいな大声。
クドの体が少しびくーっとした。
それでも僕は大きな声を出して、
「出来て当然なんだ。さっきのことだって、そう。みんなが溺れてしまったのは仮定の話! 溺れてしまったらみんなが助からないというのならば、――みんなが溺れないように努力しよう! 溺れたら助かるのは三人だけ。だったら、そもそも溺れなかったらみんなが助かるんだ。ボートだって三人用しかないなら、漂着物でも探せばいい。浮の代わりのものとか木の板とかを探せば、あと一人ぐらい乗せられるようになる。……なんとかなるさ。大丈夫! そうさ、きっと大丈夫さ。みんなと一緒に、僕たちが一緒に努力すれば、きっと大丈夫だよ」
「…………」
一瞬、呆れたような表情だったクドが。
「…………」
口元に手を宛がい、
「くす……はは、はははっ!」
大きな声で。
「あははっ!」
笑った。
笑って、
「はは……不思議だ。不思議なんだ!」
目尻に浮かんだ涙を軽く拭い、
「カナタの大丈夫はまるで魔法だな。本当に……すごい言葉だ。カナタが“大丈夫だ”って言ったら、その言葉を口にしただけで、わたしの中から不安を取り去ってくれたぞ。はは……だいじょうぶ、か。……はは、そうだな。だいじょうぶ。……うん、だいじょうぶだ……」
また。
笑う。
そんなクドに僕は右手の小指をぴんと立てて見せる。
「……?」
クドは不思議そうに小首を傾げた。どうやら意味が通じていないようだ。
だから僕はクドに簡単に説明してやることにした。
「指切りをしよう」
「指……切り……」
僕の言葉にクドはぽくぽくと考えて、
「………………痛いよ?」
と、素直に言う。
「いや、ほんとに指を切るわけじゃないからねっ!?」
そ、そんなエンコを詰めるみたいな物騒な意味じゃないよ!
そうか。クドは知らないんだ。
指切りの意味を。
「指切りっていうのはお互いに約束しようねっていう意味を持つ行為なんだよ。……だから、僕と約束しよう。互いが互いを犠牲にしないために、互いが互いを追い詰めないように。……頑張るって」
クドはたどたどしく、しかし……こくりと頷いてから小指を僕の指に絡ませた。
(……本当に、ほんとに……小さな指だ。……僕はこの指に、この小さくてとても柔らかな指に誓おう。……絶対に、絶対、無茶をさせないよう……頑張るって……)
「さあ、僕と一緒に。同じことを言うんだ」
こくっとクドが頷いてから、
「ゆーびきりげんまん」
「ゆーびきりげんまん」
「うそついたら」
「うそついたら」
「はりせんぼん」
「はりせんぼん」
「のーますっ」
「のーますっ」
「ゆびきった!」
「ゆびきった!」
空き教室の中にちょっと懐かしく、ノスタルジーな唄声が響き渡った。