166 少女は狐を追いかけ、少年はシスターの服を脱がそうとする
肩が。
彼女の肩が。
がくーっと落ちた。
ああ……。分かる。僕でも栗栖さんが『それだけ……?』と、思っているのだろうなあ……と考えているんだろうなと、手に取るように分かってしまった。
「ご、ごめん……。で、でもね。僕の言い分も聞いてよ。今まで栗栖さんのことはずっと苗字で呼んできたわけじゃない? それをいきなり名前で呼ぶって……け、結構勇気がいることなんだよ。分かって……。」
情けなさ過ぎて涙が出そうになる。
「そういうものですか……?」
「そういうものです……」
未だかつてないほどの情けないやり取りを経て、しばし見つめ逢う。
そしてやがて、
「ははは」
「ははは」
二人が同時に笑いあった。
どちらからとも言わず。
自然かつ。
懐古の記憶でも辿るみたいに。
――笑い合えた。
どうやら僕の考えは完全に杞憂だったらしい。
自分の考えすぎ。
そのことに、本当に……安堵。
「あ、じゃあ……呼んでもいい、かな?」
「聞くまでもないですよ、まったく……」
「は、はは」
栗栖さんはちょっと呆れるようにして、僕の方を見た。
「では。どうぞ。私のことは“りっちゃん”とお呼びください」
「いっ!?」
「え?」
心臓が飛び出るかと思った。
僕の驚きに対し、栗栖さんは『どうしたんだろう?』と本気できょとんとしている。
(しまった……僕と彼女の間には巨大かつ多大なる勘違いが巻き起こっている……!)
僕が栗栖さんのことを名前で呼びたいと思ったのは、正直……このことを回避する目的もあった。
僕は……。
僕は、……その。
彼女を。栗栖さんのことを“りっちゃん”と呼ぶのは。
その……。
恥ずかしい!
苗字呼びから幼少の頃に呼び合っていたとされるあだ名呼びはさすがに飛び越し過ぎだ! 三段跳びがいきなり一段跳びになったみたいになっているレベル。
ちょ~恥ずかしい!
あれ……こんなモノローグ前にもやったような気がするよ!
ぐ……。
だけど……前に進まなければ……。
僕の背中を押してくれた二人に申し訳が立たない……。
「は、ハードルが高すぎるよ……。せ、せめて……り、“梨紅さん”で……お、お願いします……」
思いっきり頭を下げた。
もう何度目になるかも分からない、女の子相手の平身低頭っぷり。
……どうも女の子相手になると……すぐに頭を下げたがるよなあ……僕。
ひょっとして……M?
「梨紅さん……ですかあ?」
「は、はい……り、りっちゃんは……ちょっと……」
「むう」
「面目次第もありません」
「でも……梨紅さんは……その」
「その?」
「イヤです」
「え? い、嫌?」
「はい、イヤです」
「嫌ですか……」
「はい」
「……」
「……」
どうしよう……。
拒絶されてしまったぞ。
さっきは呼んでもいいと言ってくれたのに。な、何で……?
「梨紅さんはちょっとダメです」
「ど、どうして?」
「ちょっと、ほら。他人行儀な気がしません。さん付けって。それは……知り合ったばかりの人とかに使う言葉鳴きがするんです。私、かーくんとは知り合ったばかりじゃないですから。梨紅さんは……何となく、受け入れるのは、その……無理です。ダメです。イヤです。なので……さん付けは却下します」
「きゃ、却下っすか……」
「はい、却下です♪」
明るい笑顔で却下されてしまって、そこで会話が止まる。――が、すぐに栗栖さんが何かを考え込むように口元に指を宛がって、それから僕に語りかけた。
「呼び捨て」
「え?」
「なら、呼び捨てかちゃん付け。そのどちからにしてください」
「ハードル少し下がったけどやっぱり高いっ!?」
「全然高くないですっ! ひくひくですよ、こんなの!」
「いやいや!? プロアスリートの使うハードルくらいはあるよ! 素人からするとたかたかだよっ!」
「かーくんの方から言ってきたんですよ、名前で呼びたいって」
「う!」
その言葉で返されると何も言えない。
――が。
もはや、そんなことを言っている場合ではない。
梨紅か。梨紅ちゃんか。
「…………う、う~む」
もう……ここまで来ると度胸の問題であった。
正直なところ。ここまで緊張するかね、と本気で思う。たかが名前呼び。されど名前呼び。こういうのは一度呼び方を定着させ、一度呼び方をしくじってしまうと、中々名前呼びのタイミングを逸してしまって呼ぶに呼べない。
だから。
あえて。
これをチャンスと思おう。
僕に、彼女の方から、チャンスをくれた。
「えっと……えっと……じゃ、じゃあ……じゃあ……ねえ……よ、呼ぶ……呼ぶよ……」
しどろもどろになりながらも言葉を紡ぐ。
そして。
そっと、
「り、梨紅……ちゃん」
と、呟く。
「!」
僕の言葉に彼女が暫し固まる。ギギギ――と、油を差し忘れた人形のようにぎこちなく、首を動かして、頬を朱に染めながら俯き、
「…………お、思っていたよりも……その……て、…………照れて……照れてしまいます……ね」
「そ、そう……だね……」
「あの……もう一度……その……呼んでくれませんか?」
「梨紅ちゃん……」
「!!」
僕に名前を呼ばれて“栗栖さん”改め“梨紅ちゃん”がぼんっと頭から煙を出しながら頬を朱色に染める。それに釣られるようにして僕の顔も真っ赤に染まっていく。
それからやがて、
「こ、……これ……から……よ、……よろしく……お、……お願い…………し、……します………………ね…………」
「あ、う、うん! よ、よろしくね。えと……梨紅ちゃん」
最後の方は本当に声が小さくて聞き取りずらかったけど、言いたいことがちゃんと伝わってきた。
梨紅ちゃんに受け入れられて、ぐっと。心の中で握り拳を握る。
自分の記憶の曖昧さで距離をずっと感じていた僕だったけど、これを機に変われるかもしれない。――ぐっと、心の距離を縮められるかもしれない。
本当に。
あの二人には感謝だ。
◇
「えっ……い、いいんですか?」
「いいも何もこっちからお願いしているんだから」
ついで――いや、全然ついででも何でもないはずなのだが、思わず――ついでにという言葉が出てきた。
「連絡先の交換、しない?」
相当浮ついていたのだと思う。
梨紅ちゃんの連絡先を知らなかった僕は彼女に連絡先の交換を申し出ることにした。
名前で呼べるようになって気が大きくなっていると言う気持ちも多少はあったのだろう。自惚れが過ぎると誰かに言われるかもしれないが、断られるような気はしなかった。……だからこそ、申し出ることが出来たのか。
……どこまでも、へたれだな。僕は。
案の定――と、言うべきなのか。それとも幸運が重なったと思うべきなのか。
「……はい」
彼女は満更でもなさそうに、照れ笑いを浮かべていた。