165 少女は狐を追いかけ、少年はシスターの服を脱がそうとする
そういう訳で、僕は覚悟を決めることにした。
セラさんの助言。
クドのくれたほんの少しの勇気。
(もし……嫌がられたら全力で謝ろう)
そうすれば傷がつくのは僕だけだ。
そうなってしまったのは僕のせいなのだから、栗栖さんは悪くない。
そう……考えよう。
考えながら僕は次々にビルの屋上を跳んでは跳ね、跳んでは跳ねを繰り返していった。
「どこまで行ったんだろう……あの二人」
それがいくらばかりか続いて。
「あ……」
やがてとあるビルの屋上で立ち尽くしている栗栖さんの姿を発見した。
「栗栖さん」
「あ……」
栗栖さんが驚いたようにこちらを振り返る。
「……あれ、どうしたの?」
僕がそんなことを言って顔を覗き込むと栗栖さんが慌てたように自分の体を見渡した。
「えっ……えっ……」
「あ……いや、ごめんごめん。別に服が汚れているとかどこかがほつれているとかそういうのじゃないよ。ただ……何だか元気が無さそうに見えたから……ちょっと心配になっちゃって」
「……し、心配してくれているんですか……?」
「あ、当たり前じゃないか……。そ、その……僕たち友達だろう?」
「え、あ、あー……友達……ですかー……。あ、そう……ですか……」
あれ? どうしたんだろう。栗栖さんの顔が……何だか微妙な感じに……。
や、やっぱり……いきなり、そんなことを言われて引いちゃったのかな! あ、謝るか? ど、土下座! 土下座の準備をっ!!
「あ、あははっ……ご、ごめんなさい。心配されて嬉しかっただけですから、お気になさらずにっ!」
「ほんと?」
「はいっ」
僕は栗栖さんの声に少し安堵。
心の中でほっと一息をついた。
「でも……友達かあ……。そうかあ……。はあ……。でも……かーくんが私のこと友達だって言ってくれたのって、高校に入ってからだと……これがはじめてなような気がするな。ふふっ、なら……いい、のかな……」
「え? 何?」
栗栖さんが何かを呟いたらしいのだが、声が小さくてよく聞き取れなかったので聞き返した。
「えへへっ♪ なんでもないですっ♪」
「そ、そう……?」
な、何でもないにしては機嫌がよさそうに見えるのは気のせいなのかな?
でも本人が何でもないって言っているんだから僕も気にしないでおこう。
「あ」
僕が少々気押しされている中、栗栖さんの左手の薬指にはめられている指輪の存在に気が付いた。
「そうか。結局指輪は栗栖さんが手に入れたんだね」
「はい……あー、まー、その……。一悶着はありましたけど、二人が納得する形にはなったと思いますので、そこのところは心配しなくても大丈夫ですよ」
「そうなんだ。栗栖さん、指輪似合ってるね。すごく可愛いと思う」
「そ、……そうですかっ! あ、ありがとうございます……っ」
栗栖さんが照れて顔を真っ赤にしている。
その様子を見てちょっと、よかったと安心出来た。
僕個人としてはたかが指輪と思っていたのだけれど、やっぱり女の子としては指輪を手に入れることが出来たのって相当嬉しかったのだろうな。
そう思うと一安心。
「こ、こほん。……そ、そういえば……かーくんはどうしてここに?」
「え、あ、あー……」
ちょっと答えにくい質問であった。
ここにやって来た理由はもちろん栗栖さんたちのことが気になってということなのだが、そのことを素直に言ってしまうのは少々憚られる。
そのまま言えば、きっと栗栖さんは何の疑問もなく頷いて会話は終わる。
でも。
……だけど、そうじゃない。
僕が本当に話したいことはそうじゃないはずだ。
勇気だ。
クドが僕にくれた勇気を……。
勇気を出すんだ……!
「どう……言えばいいのか……正直、分からないんだ。……でも、僕は言わなくちゃいけない……。いつまでもキミに甘えているわけにはいかないんだ」
「えっ?」
栗栖さんは困惑したような表情を浮かべる。
そりゃそうだ。
いきなりこんなことを言われて、訳が分からないだろう。
でも。
――いや、だからこそ。
言わなきゃ。
先に進めない。
踏み込むんだ。
勇気を出すんだ……。久遠かなた!
「ごめんなさいっ! 僕っ……キミのこと……栗栖さんのこと……全然覚えていないんだっ! 昔のこと……僕が初めてキミと出逢ったこと、キミと過ごした日のこと、キミと約束したこと……まるでっ……まったく……覚えていないんだ!」
言った。
言ってしまった……。
ずきずきと胸が痛む。
罪悪感が僕の心臓を貫いてくる。
「だ、だから……えっと……えっと……」
上手く言葉が出てこない。
次に言うべき言葉が頭の中に浮かばない。
何と言えばよいのか。
何と謝ればよいのか。
上手く出来ない。
そんな僕の言動を察してか知らずか、どちらとも呼べないようなタイミングで、
「ふふっ……」
と、栗栖さんが微笑んだ。
「あははっ……」
口元に手を宛がって、
「あはははははははっ……♪」
笑った。
正直、何が起こったのかを一瞬理解出来なかった。
ただ、笑っている。
笑顔。
目尻に涙を浮かべて。
終始、笑顔。
「……お、おかしいっ……あ、あはは……あははははっ♪」
「く、るす……さん?」
「もしかして……このビルにやってきた時、深刻そうな顔をしていたのって……」
栗栖さんが目尻の涙を指で拭った。
「そのことを謝るためですか?」
「あ……うん。そう……だよ」
「な~んだ……よかった」
「え?」
そこで僕が首を傾げると、
「とうとう……嫌われちゃったんじゃないかって心配してたんです」
などと、栗栖さんが言ったので、僕はたまらず、
「そ、そんなわけないよっ! 僕が栗栖さんを嫌うなんて……そんなことあるわけないよっ!!」
猛抗議した。
ありえない!
そんなこと……あるわけないっ!
「むしろ僕の方が心配してることだよそのことは! 僕……栗栖さんのことずっと騙していたわけだし! 栗栖さんが僕のことを嫌いになる理由は有象無象あったとしても……ぼ、僕が栗栖さんを嫌いになる理由なんて……っ!」
と、ここでようやく。
(な、何言っちゃってるんだ~っ! 僕は~っ!)
自分が相当恥ずかしいことを口走っていることに気が付いて顔の表面温度が一気に急上昇した。
「くすくす」
(あ、また……笑った)
もう……我慢の限界――というより、疑問が疑問を呼んでいるという状態になり。
恐る恐る、
「お、……怒って……ない……の……?」
と、聞いた。
「何で……怒らないといけないんですか?」
にこ。
「え……いや……だって、忘れているんだよ? 僕。キミのこと。その……一言で言って失礼じゃない?」
「まー……確かにそうですねえ……。入学式の時……言われちゃいましたね……“初対面だよね”って」
「あーはい。ごめんなさい」
「ちょっと……。いえ、かなり。ものすごく。とても。心底。限りなく、寂しかったです。でも……その後、ちょっとだけ思い出してくれました。私のこと……」
「え?」
「ほら、覚えていませんか。初めて……私がクルースニクだって知ったあの日のことですよ。その時……ちゃんと私のことりっちゃんだって呼んでくれたじゃないですか。それって……ちゃんと覚えているってことなんじゃありませんか?」
「でも……それは、本当にちょっとだけなんだ。栗栖さんが覚えていることと僕が覚えていることには大差がある。一と一〇〇みたいなもんだ。それって……覚えてないってことと変わりないだろ」
「ううん。一が二になって。私は……嬉しかったですよ?」
「嬉……しい……?」
彼女はまた。
「はいっ♪」
笑った。
彼女を騙して。
嘘をついてきた僕に対して。
「前進しているんだなあ……って。ちゃんと前に進めているんだなあ……って。嬉しかったです」
屈託のない笑顔を僕にくれた。
「だから、怒るだなんて……ありえないですっ♪」
(本当に……いい子だな。この子は……)
僕は軽く感動を覚えながら、
「そっか」
と、だけ。
そして、
「……ありがとう。えっと……ね?」
僕の中にある勇気を絞り出す。
「く、栗栖さん」
ちょっと声が上擦る。
「はい?」
栗栖さんもその声を奇妙に思ったのか、小首を傾げて僕を見た。
「ぼ、僕……!」
「は、はい……!」
僕の緊張が伝わったのか、栗栖さんの声もわずかばかりだが震えた。
それでも。
僕は。
「栗栖さんともっと仲良くなりたいです!」
と、言った。
「キミのこと……すっかり忘れていて……キミよりもずっと弱い僕だけど……栗栖さんと仲良くなりたいんです!」
「そ、それって……っ」
栗栖さんが。
僕の手をぎゅっと掴んで、
「愛の告白ですかーっ!!」
と、叫ぶ。
「はい! かーくんの愛の告白……私、お受けしますっ! あ、でも……まだ学生じゃ結婚できませんね。じゃ、じゃあ……婚約! 婚約を正式に致しましょう。婚約なら学生でも出来ます。式は卒業式の後日に……!」
瞳を宝石のようにキラキラと輝かせている。まるで目の前にずっと望んでいた宝物を見つけたトレジャーハンターのように。
栗栖さんの大いなる誤解に顔を真っ赤にして両手を前に出して、慌てて訂正する。
「ち、ちちちち、違うよっ! い、いや……別に栗栖さんのこと好きじゃないとかそういうアレでもなくて! だ、だから……そのっ……えっと……えっとね!」
「は、はい」
「な、名前!」
「名前?」
「う、うん……。栗栖さんのこと……名前で呼んでも……いい、かな……?」
勇気を振り絞って。
とうとう。
――とうとう、言った。