160 少女は狐を追いかけ、少年はシスターの服を脱がそうとする
瞬間、
「!」
郵便ポストに目掛けて炎がごおっと走った。
撃ったのは梨紅じゃない。
だけど、梨紅の腕から炎の柱が出現していた。
「か、勝手に!」
“ただの威嚇だ”
「だ、だからって!」
威嚇にしては威力がでかい。
郵便ポストがどろっと溶け出し、中に入っていた郵便物は全て灰になっていた。
(あれ……)
そこに篝の姿はなかった。
「ふう。危ないな~」
飄々とした声。
声は電柱の天辺から聞こえてきた。
服はやっぱり着ていなかった。梨紅の“神狼”化と同じような原理なのだろう。服までは自分の体ではないから、変化することは叶わない。
ただし、篝の裸体には大きな尻尾がからみついていた。臀部から生えた尻尾は計六本。“九尾”と言うからには九本の尻尾が生えているものだと思っていたので、少し意外。
「ま、聞きたいことは大体想像出来るけどね。一応……聞くよ?」
“指輪をどこで手に入れた?”
「んー……」
“答えろ!”
「スラブ地方のちっちゃな町。もう……滅んでたけどね」
“お前が……お前が奪ったのか。滅ぼして、奪ったのか!”
篝の口元がにいっと半円を描く。
「早とちりするなよ。滅ぼしたのは……クドラクだよ。随分前に、だけど」
“あの町か……。だが、そんな場所に……?”
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!」
勝手に会話を続ける二人にたまらず大きな声を出した。
出さざるを得なかった。
今、この二人の会話の内容はまるで事実かのように進められている。
しかも、受け入れがたい現実。
――滅ぼした。
――一つの町を。
――自分の知っている少女が。
そんなもの受け入れられるわけがない。
「クドラクって誰のことを、一体誰のことを指しているんです。まさか……あの子だなんていうわけありませんよね。あの子が……外国の町を滅ぼしたって?」
信じられない。
だって。だって……そんなの。
イメージが不一致すぎる。
そんなこと、あり得ないって。
そう思いたい。
だけど、返って来た言葉は、
「そうだよ」
肯定。
「なんだ。“悪疫”のこと、なんにも知らないんだな。説明していなかったのか? 先代」
“必要ないと判断した。それだけだ”
「無責任だね。彼女は部外者じゃないってことぐらいは分かっているだろうに」
“当事者だ。だが、当事者だからと言って全てを知らなければならないという理由はない。“悪疫”はどんな生まれだろうと、どんな経緯があろうと、どんな想いを背負っていようとも、我々が滅ぼさなければならない宿敵であることに変わりはない。ならば余計な説明などせずに、ただ滅ぼせばよい”
「そんな簡単に!!」
だんっと。地面を踏んだ。
力一杯。
コンクリートの地面が抉れるほど。
それは否定したい気持ちの表れだった。思いが強ければ強いほど、力が強くなった。
「あの子の命をないがしろにしないでください!」
「……」
“……”
一度漏れた激情は堰を止めることが出来ずに、激流となって洪水を引き起こす。
「私、知らなかった! 知ろうともしなかった! ずっと聞かされてた! クドラクは悪だって、“悪疫”は人類の害にしかなり得ないって。だから滅ぼさなきゃいけないって。生まれた時から、今日までずっと! ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとッ!! だけど、今日、初めてあの子の素顔を見た。……普通だった。聞いてた話と全然違う。全然普通。普通の女の子だった」
「じゃあ……信じられない?」
「少なくともあの子が……あなたたちのいう行いを、暴挙とも思える行いを実行したとはとても思えません。……思いたくない」
もう。
間違いない。
あの子の顔が浮かぶ。
笑って。
哀しんで。
怒って。
ころころと表情を変える。誰かの行動に、誰かの言葉に右往左往されて。
それは、もう。
人間と同じだ。
だから。
もう。
間違いない。
否定出来ない。
この心の底から湧き出る、こみ上げてくる感情の正体。
それは。
情。
宿敵に宿敵が情を芽生えさせた。
ああ、そうか……。
ようやく分かった。
だから、こんなにも。
「あの子は悪い子なんかじゃないっ!」
否定したくなる。
勝手なことばかりを言う人たちの暴言を。
だから。
「勝手なことばかり言わないでくださいっ!」
もう。
気持ちを抑えることが出来なくなってしまっていた。
あの子と戦いたくない――、なんて。
曖昧な気持ちじゃない。
あの子の周りは敵だらけだ。
あの子は吸血鬼。
あの子は“悪疫”。
そんな敵だらけで、あの子のことを敵視する人たちから。
――守りたい。守ってあげたい。
これが。
私の答え――。
これが。
自分の宿命に対する、自分なりの回答。
正しいと思った。
「人間って悲しい生き物だなあ」
篝が呟いた。
「え?」
梨紅はすぐに聞き返した。
「すぐに現実から目を逸らそうとする」
「何が言いたいんですか……」
「現実って……変わらないから」
「……」
「変わらないから辛いんだ。辛いから目を背ける。でもね、現実は受け止めなきゃ。あの子がやったことを否定するのは自由だけど、事実は変わんないよ。悪い子かいい子かどうかという話はともかく、あの子が小さな町を滅ぼしたという現実は変わんないよ」
梨紅は。
なぜか哀しくなった。
篝の言葉に。
なぜ、そう思ったのか。
目だ……。
篝の目が、瞳が、哀しさに満ち満ちていた。
何となく……。
そう、何となく……だけど。
自分に似ていると思った。
「……だから、受け入れるんですか」
だから。
ちょっと、ムキになる。
「受け入れられたくない現実を無理に受け止めるんですか」
ちょっと、我が儘になる。
「現実から目を背けることがそんなに悪いことですか?」
ちょっと、開き直る。
「たまにはいいんじゃないんですかね。そういうのも」
「え?」
今度は篝が驚いた。
あの飄々としていた狐が驚いた。
「目を背けるのも辛い、受け入れるのも辛い……。どちらかを受け入れなきゃいけないのも辛い。だったら私はいったん目を背けても私は罰が当たらないと思います」
ふう。
呆れるようなため息。
音源は篝。
「より辛くならない? いくら目を背けたって、視線を戻せば見たくない現実が待ってる。……あは」
篝は喋りながら少し意地の悪い顔になった。
「じゃあ……もういっこキミの知らない現実、教えてあげよっか?」
篝は。
底意地の悪そうな顔で。
ずばり。
「かなたさあ……キミのことをまったく覚えてないと思うよ?」
と、言った。