015 変態シスター現る
調理場。
僕は出かけた母さんを赤く腫れあがった目を誤魔化しながら見送った後、実家の一階にある喫茶店『スタブロス』の調理場まで降りてきた。
「……おはよう」
若干涙声。
「? おう。起きたか」
そんな僕を父さんが出迎えた。
父さんは喫茶店の制服の上に白いエプロンを身に着けながらコーヒーを入れていた。芳醇な豆のいい香りが調理場に漂う。
「珍しいな。お前がこっちに来るなんて。夕実ちゃんはどうした?」
「母さん、少し出かけるって。だから手伝いに来たよ」
「助かる」
「……うん」
「……助かる、んだけど……どうしたお前」
「え」
「……なんか暗いぞ」
「ほっといたげて」
「そか」
説明のしようがないし。
父さんは客商売で培った性格なのか、あまり深く事情を聞こうとしない。聞かれたら答えるし、だけど深くまでは来ない。そんな感じの性格。冷たいような感じだが空気を恐ろしく読めるというだけで、父さんはほとんど無自覚だ。だから今の僕の状態を見て『ああ……何かあったんだろうな』と思うことはあっても、決して『何があった』と深くは聞かない。そういう空気を読んで、あえて何も言わないのだ。
……今はその父さんの性格にひたすら感謝。
パンパン、と。
僕は頬を両掌で叩くと、気持ちを切り替える。
自分がいくら落ち込んでいても客商売をする上でこの顔はマズイ。
にっかり。
調理場に置いてあった鏡を前に笑顔の練習。
よし。気持ち切り替えた!
「で? 父さん、何からやる? ウエイター?」
「お。ちょうどいいや。これ三番テーブルに持っててくれ」
そう言って父さんは僕にお盆とコーヒーを手渡す。
「三番だね! オッケー!」
と、軽く笑ってから調理場を出ようとすると、
「お、そうだ。お前ラッキーだぞ」
と、背後で父さん。
「え? 何が」
「今日、あの人が来てるんだよ」
「あの人?」
「そ。お前も拝んどけ。あんな美人、そうそういないから」
にやにやとしながらそう言った。
苦笑する。
(たはは……)
まったく父さんってば。
よかったね~ここに母さんがいなくて。
あんな父さんの顔見たら母さんがなんて言うか……。
歳相応の、出来る店長の顔、ではなく。
歳相応の、ただの父親の顔を見て。
ただただ苦笑することしか出来なかった。
「美人ね~」
僕も男だし、美人に興味がないと聞かれれば。
…………興味がない訳がなかった。
ホールに出た後、僕は辺りを見回す。
今日は日曜日なので客の数もいつもより多い。しかもここはカフェ飯も出しているのでお昼頃であれば、当然客足が途絶えない。
(ほとんどの席が埋まってる……。ひゅう~、すごいや)
そのほとんどの客層が若い女性ばかりなのは、自分の父の影響だろうな、と思う。父は息子の僕から見ても結構な男前だし、ファンが出来るのも不思議ではない。
と。
これだけ人がごった返しているのなら、呑気に考え事をしている場合ではない。
これからもっと忙しくなる。
さっさとこのコーヒーを三番テーブルへと届けないと。
今の僕は考え事をしているより、体を動かしている方がきっと心にいいはずだ。
そう思って僕は頭を切り替える。
「お待たせしました。ご注文のコーヒーです。ミルクもどうぞ」
三番テーブルまで着くと、僕はコーヒーと一緒に銀のポットに入れたミルクを添え、テーブルの上に置く。
置きながら僕はちらりと三番テーブルに座っている人を見た。
(わぁ~……)
確かに父さんの言う通り、その人はとても美人な人だった。
その人は修道服を着ていた。おそらく近くの教会の人。シスターだろうか?
豊満な胸元に目が行くのも致し方がないほどに、その人はとても大きかった。修道服のスカートにはチャイナ服のようなスリットが入っており、そこから生白い見事な曲線を描く生足が見える。
(う……)
思わず生唾を呑む。
父さんが思わず美人だ、拝んどけだのと言った理由が分かった気がする。この人はそこら辺にいる美人なんかよりもずっと艶やかで美しかった。
「あら……ありが」
僕はその美人の女性と目と目が逢った。
「ご、ごめんなさいっ! そ、その見惚れちゃって……あはは」
顔を真っ赤にしながら慌てて顔を引っ込める。
や、やっちゃった~っ!
慌てて弁明しようとしたら、
「ぶ!」
美人の女性が顔を手で押さえながらぷいっとそっぽを向いた。
勢いをあえて擬音にするなら『グインッ!!』ってな感じで。
え?
どうしたんだろう……?
もしかして……怒らせちゃったかなー?
狼狽しながら、どう声をかけていいか分からずにいると、
ぽた。
(?)
何かの液体が零れ落ちる音が聞こえてきた。
雨漏り?
そう思って僕は天井を見た。
この店は改築したばかりなので、雨漏りがするはずがない。当然、天井には何の変化も見られない。
「う」
「う?」
ぽたぽた。
僕が天井を見た瞬間、美女が呻く。
「ふひゃ」
「え? だ、大丈夫ですか?」
僕は何かあったのかと思った。明らかにこの人の様子が変わった。それだけ美女は“何か”に打ち震えている。顔を抑えながら、わなわなと。
僕は心配になり、その肩に手を置く。
「だ、だいじょうぶ……です……わ……」
「そうですか?」
「ふひゃ!?」
バーン! と美女は何の迷いもなくテーブルに顔を打った。
突然の異音に、辺りの人間が一斉に驚いて視線を集中させる。
美女が顔を上げて、顔面を両手で覆う。
「はあ……はあ……お……お名前……お名前……なん…………です…………の…………?」
ぽたぽたと鼻血を流しながら。音の正体は美女の鼻から零れ落ちた鼻血だった。
「あ、あの……鼻血……」
「いいから!」
美女が吠えた。たまらず、
「か、…………かなた……です……。久遠かなた…………」
そう後ずさりながら答えた。
「そう……店長の…………彼の…………息子…………という……訳…………ですの…………ね…………はあ……はあ……」
「あ、はい」
美女がきゅっと爪を立てる。
「はあはあ……」
きゅっきゅっとさらに力を込める。過呼吸気味に美女の呼吸が荒くなり始めた。
「いい……」
だら~っと美女の口から長い舌が零れる。
「いい」
ゆらり。
美女が一歩。また一歩を僕に近づく。
それに合わせて僕も後ずさり。周りの客もどよめく。
だが、そんなことに構わず。
美女は一歩。また一歩。歩みを進める。
ゆらり、ゆらり。
そして。
背後には壁。もっと詳しく言えば店先のガラス製の扉。
美女は蛇みたいに自分の長い舌を揺らす。
それから、
「いいですわ!」
思いっきり僕の肩を掴んだ。
「あどけない顔」
つーっと指を僕の胸元を這わせ、
「程よく引き締まった体」
その後に指先をぺろりと舐める。
「そして……その優しい心」
ぺろり。
「たまらない……逸材……見つけましたわ……」
恍惚に。色っぽく。心を奪われそうなほど。艶やかに。
「い、逸材……?」
なぜかは分からないけどゾッと身が凍る。
まるで昨夜の生屍人を初めて見た時みたいな、殺気にも似た、凄まじい寒気。
「久遠くん……でしたかしら?」
「は、はい……」
美女は懐からあるモノを取り出した。
それは。
どこからどう見ても首輪。
しかもチョーカーと呼べるような代物ではなくて。
あえて表現するならば。
犬の。
家で飼うペットが身に着けるような。
皮の。
犬の首輪。
「わたくし……これが……あなたにとてもよく似合うと思いますの」
くすくす、と。美女が妖しく笑う。
「うふっふぅ。大丈夫……最初は簡単なことでいいから。そう。ただ……公園で裸のあなたを引き回すぐらいしかいたしませんから。うふふ……ぐふふ……ふひゃひゃひゃひゃ」
もう。
もう……何か、色々。そう色々と。
限界だった。
「変態だああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
思いっきり叫んで駆けた。
生屍人から逃げていた時みたいに。
くるりと背を向け、ダッシュで喫茶店を飛び出した。
それから、
「久遠くんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんん!!」
美女がその後を追いかけた。
悪役みたいに舌なめずりをして、姿勢を低くしてからダッシュ。
前に立ち塞がっていたガラス窓を両手をクロスして体当たりで突破し、
「あなたは最高の逸材よおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
ハリウッド映画に出てくるような人造人間みたいにガラスの破片まみれになりながら、喫茶店を飛び出す。アイスホッケーのキーパーフェイスを被った殺人鬼のような鋭い眼光で、辺りを見回し、大きく跳躍。稲妻のような動きで住宅街の壁を次々に蹴り、真っ直ぐに走るよりも早く、距離を稼ぐ。怪物のような身のこなしで住宅の屋根に立つと、
「うりいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
悪鬼のような雄叫びを上げる。
店内にいた客たちはそれを唖然と見送り、音に気が付いて楽斗がホールに出てきたのはそれからしばらくしてからだった。




