137 三者三犬
クドラクは屋上の縁で足をぷらぷらさせながら、
「こんな気持ちはじめてだ……」
そう話す。
梨紅はクドラクの言葉をじっと黙って聞いていた。
「カナタが隣にいないとものすごく胸が痛いんだ」
「うん」
「カナタが頭を撫でてくれても胸が痛くなるし……これは“びょうき”なのかなって」
「うん」
「そのことを一度ユミに尋ねたことがあったんだ」
「夕実……かーくんのお母さん……」
梨紅は思わず呟く。ほとんど無自覚だった。
まるで息を吸い込んで吐くように自然に、そして当たり前のように言葉が漏れた。
「どうかしたのか?」
と、クドラク。
会話のリズムが崩れたことに不審がり、梨紅の顔をじっと見上げた。
梨紅はそんな彼女の様子に対し、
「な、なんでもない。なんでもないから!」
と、言葉を濁して顔の前で片手を振ってから、
「いいから続けて」
そう促した。
クドラクは何のことか分からずに軽く小首を傾げてから、特に梨紅の行動に疑問を浮かべずに再び顔を前に向けてから喋り始める。
その隣で、
「ふぅ……よかった」
と、梨紅が小さく安堵の息を漏らしていることにさえ気が付かずに。
「あなたには……母が。いえ。母代わりのような存在がいるんですね。ちょっと……羨ましいです……」
そう小さく、嘆く声も届かずに。
会話は進んでいく。
「それでユミはカナタみたいに優しく頭を撫でてこう言ったんだ。“クドちゃん。よかったね”って」
と、クドラクが。
そこで会話をやめ。
梨紅が見ると、
「あ……」
クドラクは顔を真っ赤にして、胸を手で抑え込んでいた。
その様子を梨紅はじっと眺めていた。
(この子……もしかして……)
梨紅はその瞬間、ちくっと胸の奥が痛むのを感じていた。しかし、それと同時。
一方の胸の痛みとはまた違う胸の中からこみ上げてくる高揚感のようなものを感じ取っていた。
「……なにがよいんだろう……。わたしには、分からない……」
沈黙。
その表情。
クドラクの表情には憂いや悲しみに隠れて、照れたようなモノが混じっていた。
それを見て梨紅はほとんど確信する。
間違いない。
この子。
“悪疫”と呼ばれ、世の中のヴァンパイアハンターから畏怖される彼女は。
何のことでもない。
ただ一つの感情に戸惑っているのだ。
それは。
恋。
間違いなくクドラクと呼ばれる吸血鬼は“恋”に悩んでいた。
不覚にも。
それは“悪疫”を滅ぼす運命を宿命付けられた“十字架を背負うもの”として生きてきた栗栖梨紅と同じ悩みを持ち始めていたのだ。
決して相いれない存在だと思ってきた存在が。
まったく同じ悩み。
確かめなければ、そう思った梨紅はクドラクに問いかける。
「……もしかして寂しいですか?」
「さみしい……?」
「ええ。彼がいないと。……その、かーくんが傍にいないと」
「……」
クドラクは考え込むように顔を俯かせた。
やがて、
「……」
少女は肯定するかのようにこくっと頷いてみせた。
梨紅は虚を突かれたように、しばし沈黙を生み、やがて意を決するようにして開口。
「私……正直に言ってしまえばあなたのことを憎んでいました。……だってそうでしょう。あなたがいるから。“悪疫”なんてものがいるから。クルースニクも存在しなければならなくなってしまった。そのことを子供のころは呪ったものです」
梨紅は一度、そこで一拍。
一呼吸を置く。
「でも……」
クドラクが顔を上げる。
すると、
「あ……」
それはクドラクも見惚れてしまうほどの清々しく柔らかな表情が梨紅の顔に浮かんでいた。
「おかげでかーくんと出逢えました」
にっこりとした笑顔。
それは決して敵であるクドラクに見せてはいけない顔だった。
「かーくんのことを好きになれました」
「すき……」
と、クドラクが目を細めて改めて梨紅を見やる。
「前にも言ってたな。……それってそんなに大切なことなのかな?」
疑問に、
「大切です!」
梨紅が間髪入れずに答えた。
「あなたの疑問の全ての答えですよ。“好き”って」
「え?」
クドラクは梨紅の言葉にシンプルに驚いた。
目を見開いて、少し屋上から体が落ちそうになる。
「ととっ」
慌てて体勢を戻してから、
「な、なんで……?」
クドラクが聞き返すと、
「それは……」
歯切れが悪そうに梨紅は少し考え込んだ。
正直なところ話すべきかどうかを迷っている。
クドラクの胸の痛みは十中八九、恋のせいなのだ。それは自分と同じ悩みを持っている答えなのだから分かり切っている。
でも。
梨紅は自分のことを卑怯な女だと思った。
それでも……。
その答えを提示するのが怖かった。
クドラクの疑問に全て答え、それが解決した時。
――果たして彼女はどういった行動に出るのか。
それを考えると、お腹の辺りが妙に痛んだ。
なので、
「……言いたくありません……」
「どうして?」
「言いたくないものは言いたくないんです!」
「???」
梨紅は言葉を濁すように、そこで言葉を遮ってこの会話を無理矢理終わらせることにした。
何て卑怯で最低なんだろう……。
複雑な乙女心。
その便利な日本語で全てをうやむやにしてしまおう。
そう考えて、梨紅は再び視線をクドラクから目の前の空に向けた。
茜色の空は綺麗だったのに、心はすごく痛んでいた。