134 三者三犬
かなたたちが角を曲がってから一分後くらい。
その背後の二〇メートル先の電柱の影で、一人の少女が安堵の息を漏らした。
「ふぅ……」
彼女は本当に安心しきったように胸元を抑え込み、乱れそうになっていた呼吸を整える。
“なぜ……私がこのようなことを……”
少女の声とは違う男の声が少女の脳内に響く。
電柱の影で鳴りを潜めていた少女の正体は栗栖梨紅であった。
「……」
“さっさと声をかければよいのだ。何をそんなに萎縮している?”
「……」
梨紅は答えない。
“ん?”
梨紅は。
柄にもなく。
「…………」
緊張しているのだ。
それはデリカシーのない男にも伝わってきたようで、
“おい。貴様、それでもクルースニクか”
「……だって」
“だって、何だ?”
梨紅はもじもじと体をくねらせる。声はそんな彼女の姿をこれまで見たことがなかったので、とても気持ちが悪いと思った。
声の主には理解のしようもないが、これが恋する乙女という生き物だ。
「……よし」
梨紅が何か、覚悟めいたモノを決めるように胸元でぎゅっと拳を握る。
覚悟が決まる。
“???”
梨紅の中の声は不思議がった。
不可解とも思えた。
つい先ほどまでは緊張し、声をかけることさえ躊躇していたのに。
“…………”
一転。
覚悟を決めると顔つきもすっかり変わっている。
その顔つきの変貌ぶりはまるで戦に赴く時のような気高さを想像させるが、これから戦いに行く訳でもあるまいに。どうしてそこまで真剣な面持ちになれるのだろうか。
分からない。
声は自らの気配を梨紅の体内へと潜めていく。
興味がない。
という話でもあるが。
正直なところ。
分からないのだ。
恋だの。
愛だの。
そんなものにかまけている場合ではない。
クルースニクの宿命を果たすことこそがもっとも大事であり、もっとも為すべき天命である。
この少女にはその“意識”が足りなすぎる。
“力”は歴代のクルースニクの中でもっとも強いのだが、どうにも“意識”が低い。
声は少しだけ困ったように、
“はー”
と、小さく息を吐く。
梨紅に気が付いた様子はない。
が、
「えっ」
梨紅が何かに驚いた。
何事かと思い、声は潜めかけていた意識を再び外界へと向ける。
すると、
“や、ヤツは……!”
梨紅が見ていたものは。
宙を飛んでいるクドラクであった。
「く、クドラク……?」
梨紅はあまりに驚いてしまったので電柱に隠れることも忘れて飛んでいるクドラクを眺めていた。
「そういえば……今日はかーくんと一緒にいませんでしたね」
いつもかなたと一緒にいるはずのクドラクがどうしてこんなところを飛んでいるのだろう?
(それに……)
梨紅は気になった。
いや。
気になってしまった。
飛んでいるクドラクの表情が見えてしまったのだ。
初めて見た。
自分がいつもクドラクと相対する時はいつも戦いの時だけだった。
だから。
そう。だからこそ、初めて見た表情だったのだ。
それはクドラクの素の表情なのか、それとも戦いの時に見せる顔こそが素なのか。それを判断するにはあまりにも判断材料が足りなすぎる。
だけど。
一つだけ確かなことがあった。
飛んでいるクドラクの顔は、
(……どうして)
とても、寂しそうだった。
苦しそうで。
辛そうで。
その表情に梨紅は覚えがある。
それは、自分がかなたに出逢う前までと同じ。
寂しさに苛まれ、愚かにも死のうとさえした時の。
あの。
梨紅の知る限り、世界で一番暗い顔。
胸の辺りが痛くなった。
きゅ~っと心臓を誰かに握り潰されそうになっているような感覚。
久しぶりの感覚だった。
“しめたぞ! 梨紅! 追え! ヤツは今一人だ! 今なら誰の邪魔も入らない!”
声が叫ぶ。
“殺せる!”
さらに声が大きくなる。
“この機を逃すな!”
クルースニクの宿命を果たせと声は言う。
“クドラクを殺せ!”
梨紅は次第に大きくなっていく声に耳を塞ぐように頭に手を当てた。
だが、
“殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!”
声が何度も頭の中でリフレインする。
頭の中で声が反響し、頭の身ならず全身にまで声の振動が呪言のように言葉の暴力が蝕んでいく。
「わ、……たし……は……っ」
体がふらついて、電柱に慌てて手を置いて体を支えた。
“貴様はクルースニクなのだ! ヤツを殺すためだけに生まれ、ヤツを滅ぼすためだけに生きることを運命づけられた! 誇りある“十字架を背負うもの”なのだよ! だから“悪疫”を殺さねばならない! そうだろう、今世のクルースニク”
「やめて!」
梨紅は叫んだ。
“全てを焼き滅ぼせ!”
頭を抱えて、理性で“力”を抑え込もうとする。
しかし。
梨紅の想像しえない“力”の脈動が梨紅の中から湧きたってくる。
それを。
梨紅は、
「やめてって言っているんですっ!!」
初めて。
体内から逆流してくる“力”の脈動を理性で抑え込んだ。
“なっ!?”
声が絶望したような声を漏らした。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が乱れ、心臓の辺りが早く脈打つ。
で……きた……。
と、梨紅は喜びに打ち震えながら思った。
“力”の制御が上手く出来た。
やった!
それは初めて梨紅が梨紅の中の声に打ち勝った瞬間であった。
そしてそれは同時に声が梨紅に敗北した瞬間でもあった。
「今から……私はクドラクを追います。あなたの言う通り。追いますよ。けれど、それは戦いに行くためじゃない。話を聞きたいから。だから追うんです。どうしてそんな顔をしているのか。私とあの子は話が出来る。だから、追うんです。……もう、あなたや宿命に支配されるためじゃない。分かりましたか……前世のクルースニクさん!!」
声は、
“…………”
静かだった。