123 狐の恋心
夢。
きっとこれは夢の中。
鬱蒼とした森林。
月すら陰り、群雲に隠れ、光が届かない薄闇の森。
その森の奥。
雷が落ちて木が裂かれ、炎が立ち上っていた。
焦げ臭い。
熱い。
もう……ダメだ。
その木の下敷きになっている狐は全てを諦めかけた。
動けない。
動きたくても動けない。
だから諦めるしかない。
狐は。
達観していた。
もういいと思っていた。
十分生きた。
否。
――生き過ぎた。
だから。
もう、いい。
目を閉じて。何もかも投げ打つ。
この森には誰も近づかない。助けを乞うこと自体が無駄なのだ。
人間は度々言い聞かせている。
“あの森には“千年狐”が住まっているから近づいてはいけない。近づけば食い殺される”
と。
それはいつの時代も変わらない。
“千年狐”は人間の肉を何よりも好み、人間の肉を喰らった。だからこそ千年もの間、生きながらえているのだと。
確かにその狐は長い間生き続け、百年が過ぎると尻尾が一本増えた。
今、木の下敷きになっている狐には尻尾が九本生えていた。
簡単に言えば、この狐の本性は“九尾”と呼ばれる妖狐や仙狐の一種なのである。
しかし。
この“九尾”が人間を食べたことはない。
そもそもこの森にはその言い伝えと謂れのせいで人が近づかない。人が来なければ人を食べることなど出来る訳もないのだ。少し考えれば分かる。
しかし。
人間とは何よりも恐れを恐れる。
怖いものには近づかず。
危険なものを遠ざける。
それが真実かどうかは関係ない。
たった一匹になってしまった“九尾”には分かる。
――ここに、人間が来るはずがない。
誰かが自分を助けに来ることなどありえない。
そう、思っていた。
火の粉が舞う。
ばちばち。
そんな音とは別に。
べつの音が聞こえた。
それは。
――足音。
大人のものではない。
子供の小さな足音。
確かに小さな音であったが、その音が聞こえてきた。
「まってて!」
今度は子供の声。
はっきりと聞こえてきた。
茂みを掻き分け、現れる。
「!」
それは人の子であった。
なぜ? と、思う。
どうしてこんな森の奥に人の子が?
「たいへんだ!」
少年は“九尾”を見つけると一目散に“九尾”の元に駆けていく。木と狐の間に指を入れ、その小さな体で倒れた巨木を持ち上げようとする。
「うぬぬ……」
だが、木は一向に動かない。
それもそのはずである。巨木は少年の何倍もある大きさだ。少なくとも大人が数人がかりではないとこの大きさの木はうんともすんとも言わないだろう。それに加えてこの木は今、燃えている。燃え盛っている。
「あつっ!」
少年の手に火傷を負った。
狐は諦めると思っていた。
火傷に圧倒的なまでの重量を持つ巨木を相手にして。
この少年は諦めるものだと。
しかし。
「まっててね! ぜったいにたすけるから!」
この少年は諦めなかった。
「しんじゃダメだ! そんなの! そんなの!」
絶対に。
「いやだ!」
諦めなかった。
その少年のひたむきなまでに狐を救おうとする姿に感化されるように、一度は死を受け入れようと思っていた“九尾”が、
「わ……わふ」
木の下敷きのまま。
吠える。
振り絞った声。
そして。
振り絞った魔力。
その瞬間。
「!」
ぼわっと魔力が爆ぜ、少年の目の前で爆発が起こる。
どごんとした、軽い音。
木が爆発して少年が尻餅をついた。
木片が飛び、少しだけ巨木が軽くなる。
爆発で欠けた木の合間に手を突っ込んで、少年は狐の体を引きずり出そうとする。しかし木の間は爆発と炎のせいで熱くなっているので、普通であれば木に触ることも出来ないはずなのに少年は構うことなく狐を救おうとしていた。
「…………」
「まってて! まってて!!」
「…………く~ん」
ぼうっと少年の手が青白く光る。
そして。
「え、え~い!」
ずぼっと、狐の体が木の間から抜けて、勢いそのまま狐の体を抱きしめたまま少年が倒れ込んだ。
「は、はは……」
「……わ、わふ」
やがて。
「はははっ! やった! やった!」
少年は喜んで大きく笑った。
その笑顔を見て、安心したように“九尾”も口元を少しだけ緩める。
よかった。
この少年を巻き込まずに済んで。
本当に……よかった。
「くふ」
“九尾”が少年の胸の中に倒れ込んだ。
「え……」
少年が狐の異常に気が付いた。狐を抱きしめている状態だったから気づくのに少し遅れた。
抱いた胸の辺りが血で真っ赤に染まっていたのだ。
“九尾”は怪我をしていた。しかも、取り返しのつかないほどの大きな怪我を。
だくだくと血が流れ、徐々に“九尾”の体温が下がっていく。
「かがり?」
少年は狐の名前を呼んで、狐の体を揺さぶる。
「……」
「かがり! かがり!」
狐はもう答える気力も体力も残っていなかった。
ただ安心して。
笑っていた。
最期にこの少年の顔が見れて、……本当に。
諦めて。目を閉じて。
「そうだ」
少年の声が聞こえたかと思ったら、今度は、
「いっ!?」
少年の奇妙な声を聞いた。
ぽたぽた。
狐の顔に何か冷たいものが零れ落ちてくる。
それは。
「さ、さあ……これを」
少年の腕から垂れ落ちてくる血液であった。
少年が自分の腕を傍に落ちていた木片で自ら貫いていたのだ。
「こ、ことちゃんがいってた。ことちゃんのいうことはぜんぶただしいんだから。ぜったい助かるよ。“千年狐”はひとの血をなめると元気になるって」
痛いくせに。
苦しいくせに。
「だから……さあ」
その少年は、
「ぼくの血をなめて。げんきになってよ」
笑っていた。
「…………」
ああ……そうか。
ぼくは……だから。
この少年のことが……。
かなたのことが……。
――――好きなんだ……。
ぺろ。