121 晴れのち再会、ところによって湯気
出立の朝。
非常に困ったことが起こる。
応接室の中には僕とクドとクラリスさんとオーナーの四人がいた。
オーナーに露天風呂の件で叱られた。という話ではない。
基本的に鷹揚なオーナーは、朝、目覚めるとやたらと僕に握手を求めてきた。ぶんぶんと腕を大きく振って、
「いや! さすが! さすがですな!」
と、感謝。
露天風呂の惨状は、
「なーに。問題が一つ解決してくれたのですから。少しボロボロになっていても構いません。また直せばよいのです。おそらく、いえ。やはり吸血鬼の仕業だったのでしょう。あなた方はヴァンパイアハンター。人知れず戦うこともありましょうぞ」
意外とすんなりと受け入れてくれた。修繕費を出す必要がないとまで。
だが、腑に落ちない点が一つだけ。
「どうして知っているんです?」
そう尋ねると、
「いえ。朝、目を覚ましてみると枕元にこんなものがありましてな」
そう言ってポケットから一枚のメモ用紙を取り出した。
そこには、
『数々の非礼。お詫び申し上げます。こちらの宿には大変お世話になりましたよ。これは心ばかりの謝罪の気持ちです。私には必要のないものですから、よろしければどうぞ。 ネーブラ』
と、あった。
「メモ用紙となにやら宝石のようなものがありましてな。謝罪の気持ちがあればよいです。はっはっはっは」
「は、はは……」
一応あの人オーナーに謝ってから立ち去ったのか。
う~ん。さすが自称紳士。
「もはやこの温泉宿も安泰ですな! 変態がなんのその!」
ただ。
やはり一般的な感性の持ち主からするとあの人はただの変態という認識しかないようだ。
「あ、そうそう。八神様にはお礼をしなければなりませんとな」
オーナーが懐から取り出した茶封筒を僕に手渡してきた。
何だろう……? と、何となしに受け取り、無礼ながら中身を覗く。すると、
「げ!」
そこには五万円が入っていた。
慌てて閉めてオーナーに突き返した。
「い、いえいえ! そんな大したことをしたつもりは! それに露天風呂もボロボロにしてしまったし!」
「何を言いますか! これは正当なる仕事の報酬です。あ、もしや少ないのですか。いや……知らぬこととは言え、申し訳ありません。いくら包めばよろしいのでしょうか。聞くところによると、こういう仕事の報酬の相場は五万円からと伺っておりまして」
「あう」
あまりにも真っ直ぐなオーナーの瞳を見て、本当に申し訳なさそうに頭を掻く。
そして、
「あ」
一つ提案。
「お、オーナーさんは結社の方にも仕事の依頼をしましたよね。こちらのお金の方はそっちに渡してください。僕の方は何かお金とは別の何かにしてもらえますか?」
「そうですか?」
オーナーはやや不服そうにしていたが、僕の提案に承諾。
ふう……。
とにかくこんなことでお金を受けとるというのが大変忍びなかった。
結局ネーブラを退治した訳ではないのだから。
オーナーはしばらく腕を組んで考え込んでいた。
そして、
「では。しばらくお待ちいただけますか?」
「あ、はい」
そう言ってオーナーは立ち上がって応接室の外へと出て、どこかに行ってしまう。
と。
ここまで来て。
僕は再び隣を見た。
「むぅ」
やはりクドの機嫌がすこぶる悪かった。頬を膨らませて。僕が、
「く、……クド?」
と、話しかけても。
「つーん」
と、すぐに顔をぷいっと横にやってこちらを見ようとはしなかった。
な、何で……。
どうやら何かクドが怒っているっぽいということは分かるのだが、これまた見当が一向につかない。
朝起きて。
覗き魔のことが解決したと言った途端。
「ふんだ。カナタのばか」
これだ。
もう訳が分からない。
カップケーキでもあれば機嫌を取り戻せそうな気もするのだが、今手元にカップケーキはないのだ。少なくとも家に帰るまではクドの機嫌が直りそうな気配はない。
「はあ……」
そっとため息。
ちらっとクドとは反対側の隣に座っていたクラリスさんの顔を見た。
「なに?」
「いえ……」
すぐに顔を戻した。
こちらもこちらでやたらと機嫌の悪そうな顔をしていた。まるで低血圧の鬼みたいな形相で、
「…………」
こちらをものすごい勢いで睨んできていた。
(な、何をしちゃったんだ! 僕!)
覚えがまったくないので、本当に困っていた。
クドはクドで怒っているし。
クラリスさんはクラリスさんでかなり不機嫌そうだし。
な、何で……どうしてこうなった……。
応接室の中に嫌な空気が充満する。息が苦しい。
天を仰ぎ見て、心の中で大絶叫。
早く戻って来て! オーナーさん!
◇
クドはもやもやとしていた。
朝起きたらかなたが部屋にいて。そのことがすごく嬉しかったのに。
かなたの。
“問題は解決したよ。クラリスさんと一緒にね”
という言葉を聞いて。
自然と頬が膨らんで、かなたの顔を見るだけですごく嫌な気分になった。
特に。
かなたの言った、一緒にという部分が非常に嫌だった。
理由は分からなかった。
だけど。
すごく。
いやだ。
そう思っていた。
◇
クラリスは頬杖を突きながら、ずっと考え事をしていた。決して機嫌が悪いという訳ではない。ただ、真剣にどうしようかを悩んでいたのだ。
やっぱり言うべき?
お礼しないとダメ?
でも……アイツが勝手に渡してきただけだし、私が欲しいとか言った訳じゃないし。言わなくてもいいんじゃないの?
あー! でもでも! 言わないと人としてダメな気がする!
でも、アイツにお礼とか!
昨日……助けてもらったことに対してのお礼も言いそびれちゃったし……。今さら……。
うぅ……。
言いたくない!
恥ずかしい! 何だろ! お礼って言いそびれるとすごく言いにくいよ!
ってか! コイツもコイツで私の心情を察することぐらい出来ないのかしらね!
ほんと、使えない!
クラリスは最初こそは申し訳ないという気持ちで心の中はいっぱいだったが、時が進むにつれ、かなたに対する怒り――ほとんど逆恨みのようなものだが、そういった感情が芽生え始めていた。
正直言って、仕事の話なんか聞こえちゃいない。
とにかくムカムカしていた。
なので。
ものすごく目付きが鋭くなっていって。
気弱な人間が見ると、軽く怯えてしまうほどまでに。
怖かった。
◇
体感的にはもう小一時間ぐらい経過しているかのような錯覚に陥っていたが、実際のところは五分ほどしか経っていなかった。
不機嫌そうに顔を背けている少女と。
まるでこれから人殺しでもするかのような目でこちらをギンと睨み付けてくる少女に挟まれて、僕は。僕は……。
(うぅ……)
本気で泣きそうになっていた。
と、そこへ。
「いや~お待たせしました」
がちゃりと扉を開けてオーナーが戻ってきた。
「オーナーさん!」
本気で抱きついてありがとうと叫びそうになった。
ホモになりそう……。
という衝動は理性で押さえる。
「ど、どうしました?」
「ありがとう! 戻って来てくれて本当にありがとうございます!」
「???」
オーナーはきょとんとして。僕は涙を流していた。
「では。お礼の方はこちらでいかがでしょうかな?」
と、言って。
オーナーが差し出してきたのは。
「指輪?」
剥き出しの銀の指輪だった。箱に入っている訳でもなく、かといって安物のオモチャの指輪という訳でもない。ちゃんとした銀の指輪。
「はい。以前、蔵出しの際に見つけたものでして。値打ちがありそうでしたので手元に置いておいたのです」
「え、だったら持っていてください」
僕がそれを聞いて返そうとすると、
「いえ。どうせ蔵にあったものですから。もう私には必要ありませんよ。いらないものを押し付けるような形になってしまい申し訳ありませんがお金を受け取れないというのであればこれで手打ちにしていただきたく」
ほとんど強引に僕に指輪を握らせるとオーナーはにこにことえびす顔になる。
もう断れるような雰囲気ではない。
小さくため息。
しぶしぶ指輪を受け取って、
「ありがとうございます」
お礼をして。
宿を立つ。