119 晴れのち再会、ところによって湯気
「……違うから」
「え?」
脱衣所で着替えを終え、廊下を進んでいる中、突然クラリスさんがそんなことを言った。
正直、何の話をしているんだろうと首を捻る。意味が分からなかったのだ。
でも、
「いい! 全っ然違うんだから、アンタ! 変な勘違いとかしないでよ!」
「はあ……」
何やら怒っているっぽいので聞き返すことが出来なかった。
何を怒っているのかとかは分からない。
ただ。
「あの変態の言葉は忘れなさい!」
とか。
「だいたいね、あの変態が勝手に言ってるだけなんだからね。ツンデレとか! 私は全然ツンデレじゃないし! そもそも私にはツンがあったとしてもデレがないでしょう!」
とかなんとか。
何やらクラリスさんが怒っているということは理解出来ていた。
触れない方がいい。
きっと。その方が絶対にいい。触れれば、確実に。
怒られる!
「聞いてんの!」
「はいーっ! 聞いてますーっ!!」
急に怒鳴り声をあげたのですごくびっくりして、話をちゃんと聞いているのに聞いていないみたいな反応になってしまう。
「ったく」
幸いなことにクラリスさんはその反応を訝しむことはなく、横を向いた。
なぜか顔が赤いままである。
「(……アイツのせいで、言いたいことが言えなかったじゃないの)」
最後の方に彼女は何かをぼそぼそと呟いていたが、
(ふう……。何とか怒られずに済む……)
声がかなり小さく聞き取りずらいだけには飽きたらず、とにかく僕は彼女に怒られずに済んだという心境で頭の中がいっぱいだったので、彼女の言葉が耳に届くことはなかった。
胸を撫で下ろして一安心。
ほっと一息をつき、二人は自分たちが宿泊する部屋の前まで到着。
僕が『桜の間』で。
クラリスさんが『富士の間』である。
とりあえずオーナーに報告するのは明日の朝にでもするということになり、今日はもう夜が遅いので二人は眠ることにしたのだ。
とはいえ。
もう夜の四時。
ではなく。
朝の四時だと言った方が的確な気もしている。
僕は軽くあくびをしつつ、戸に手をかける。
「じゃあ、僕はこっちだから。少しだけでも眠った方がいいよ」
あくびにあくびで返すほど彼女自身も眠気に瀕死状態であった。
「そーね。ま、気休めにはなるか」
と、彼女が戸に手をかけたその時。
ぐ~。
と、決して可愛らしくない音が聞こえてきた。
「えっと……」
「~~~~!」
音の正体。
それは確かめる必要もないほどはっきりと。
彼女のお腹から聞こえてきた。
つまり。
ぽりぽりと頭を掻いて、
「お腹……空いてるの?」
「き、聞くなバカっ!」
顔を真っ赤にしてクラリスさんがお腹を抑えた。
先ほどの戦闘でお腹が空いてしまったのだろう。
ただの生理現象なのにここまで恥ずかしがってくれる彼女を見て。
僕は、
「は、ははっ」
と、笑ってしまった。
「笑うな! 仕方ないでしょ。減っちゃったモノは減っちゃったんだから! だ、だから笑うなっ!!」
顔を真っ赤にして怒る姿は、やはり年頃の女の子なんだなあ~。と、呑気に思っていた。
「あ、そうだ。待ってて」
僕はひとしきり笑い終えると『桜の間』の中へ。数秒後、彼女の前に自分のリュックサックを持って出てきた。
がさごそと中を探って、
「まだ……大丈夫だとは思うんだけど。これ、食べる?」
「なに、これ?」
「カップケーキ」
「……カップケーキ」
「美味しいよ?」
「いや……」
クラリスさんは僕とカップケーキを交互に見比べていた。
「あ。やっぱり気になっちゃう? 変な臭いとかまだしなかったけど」
くんくん。
クラリスさんはカップケーキの匂いを嗅いで、
「いや……別に変な臭いとかは特に……」
「そう。よかった~」
「……」
「どうしたの?」
「なんか……手作りっぽい感じなんだけど……」
「…………」
あ。
なるほど。
そういうこと。
どうにもクラリスさんの様子がおかしいとは思ったが、もしかして。
「安心して。これ、僕が作ったわけじゃないから」
「でも……」
確かに梱包されていないので不安になってしまうのも頷ける。
「ウチね、喫茶店を経営しているんだ。そのカップケーキはそこの商品。僕の父さんが作ったんだよ。だから味も品質も大丈夫。少なくともお客さんに出せるレベルのモノだから」
「父親……」
カップケーキに視線を落として、ぼそりと呟く。
その表情は、
「クラリスさん?」
と、声をかけてしまうほど寂し気で、とても辛そうだった。
しかし、次の瞬間には、
「ふん」
いつもの勝ち気で少し怒りっぽい女の子の顔がそこにはあった。
「アンタは……幸せなのね」
「え?」
聞き返した時、彼女は戸に手を置いてがらりと戸を開け放っていた。
開けながら、背を向けたまま、
「ねえ……聞きたいことがあるの」
「何?」
僕はそれに答えなければいけない。
なぜかは分からないけど、そう思った。
ここで答えるのが義務、だと。
「どうしてアンタはあいつを見逃したの? 別に殺せなかった訳じゃないでしょう。"霧の変態”を。どうして殺さなかったの?」
恐ろしいほど低い声で。
「吸血鬼を。どうして、見逃したの?」
尋ねてきた。
僕は。
たった一言。
「殺す必要がないからだよ。理由なんてそれだけしかない」
それだけを告げる。
クラリスさんの肩がぴくりと動いて。
背中を向けたまま、
「じゃあ……さ。アンタは必要があれば……殺せるの? 吸血鬼を」
僕の答えは。
「分からない」
あまりにも曖昧な答え。
「情けないけど……。僕はその時になってみないと分からないと思う。でも……」
「でも?」
目を閉じて、ぎゅっと拳を握り、
「出来ることであれば」
笑う。
「殺したくはないんだろうね」
「ふっ」
最後にクラリスさんが戸を閉めかけて、
「……やっぱりアンタは幸せもんだ」
ぴしゃっと戸が閉じた。