116 晴れのち再会、ところによって湯気
あまりにも咄嗟の行動過ぎて僕は頭を打って、
「つつつ」
と、頭を抑えながら起き上がる。それからはっと周囲を見渡した。クラリスさんの姿が見えなかった。
一体どこに……?
「…………」
何だか嫌な予感を感じ取って、さーっと顔が青ざめていく。
何だか。本当に何故だか。
僕の体の下が妙に柔らかいのだ。畳でももう少し固いはずなのに。何だか。そう。何だか柔らかくて。
絶妙に暖かい。
いつまでも現実逃避をしたいという衝動を、
「…………アンタ、さあ」
という閻魔様のような声に全て吹き飛ばされる。
ふと我に返って、見た。
下を。
自分の体の下。
つまりは僕の体に下敷きになっている、モノの。正体に、目をやる。
「い!?」
直視して。
のけ反って固まる。そこにいたのだ。いないものだと思っていた彼女の姿が。しかも。最悪なことにかなりあられもない姿で。
霧の平手から守るためだったといくら言い訳をしたところで、彼女は快く聞き入れてくれないことぐらい分かっていた。
なぜなら。
彼女の体を覆っていたタオルがほとんど剥がれかけていて。
その白い裸身がほとんど露わになりかけていて。
しかも、僕はその上にタオルを一枚巻いているだけの状態。つまりはほとんど裸の状態で彼女のお腹の辺りに騎乗していたのだ。タオル一枚を隔てた先に彼女の無駄な肉の無い筋肉質とも言い難い絶妙な柔らかな感触がダイレクトに。
ある意味では天国ではある。
が。
すぐ隣には地獄が待っていた。
「わざとやってんのかっ!! 毎度毎度私にセクハラをしないとアンタは気が済まないの! わ、私のお腹に! お腹に何だかよく分からないけど! ものすごく気持ちの悪い感触があってものすごく気持ち悪い! とっととどけ! どいて! そのまま! 死ね!」
彼女は情け容赦なく、
「ま、待って! じ、事故ぶべらっ!!」
渾身のぐーぱんち。指輪がはめられているのでメリケンサックのような一撃。
ずしゃあ! と、そのまま後方に滑っていく。
ゆらりと彼女が立って、耳を疑うような一言を僕に。
「いいわ。今、決めたわ。アイツをぶっ殺す前にアンタを殺す。アンタを殺せば何だか全てを取り繕えるような気がするのよね。私の裸を見られたことも! お腹の、何だかよく分からない気持ちの悪い感触も! ぜんぶ! ぜ~んぶ無かったことに出来そうな気がしてならない! だから! 私のために死んで! お願いだから!!」
もう誰がどう見てもパニック状態に陥っている。
対し僕もまた、
「お、落ち着いて! ご、ごめんっ! 本っ当にごめんなさいっ!! 悪気はないんだ! ほ、ほら! それに今はこんなことをしている場合じゃないよっ! ね、ね!」
命乞い。
こういうのを無駄な足掻きとでも言うのだろうな。
と、呑気に考えていたいという心情を誰でもいいから分かってくれたら非常に嬉しい。
と、二人が言い争っていると、
ぱちぱち。
二人の耳に届く拍手の音。
見るとそこにはネーブラが立っていた。
「よいです。よいですよ。やはり人間という生き物は面白い。見ていて飽きない。だからこそ私は人間を観察することが好きなのです」
愉快そうに笑っている。
「ち」
対しクラリスさんは今まで見たことの無いぐらい不愉快そうにしていた。
「こっちは全然面白くもなんともないわよ。ったく。ちょっとばかり自分が優位に立てているからって調子に乗ってんじゃあないわよ。吸血鬼風情が」
ぞくりとするほど憎悪に満ちた声。攻撃が通らないことに対する苛立ち。それだけではないような気もする。何というか。吸血鬼の存在そのものに対する憎悪が内から滲み出ているのだ。
ぱち。と、そこでネーブラが拍手を止めて片目を閉じた。
「お嬢さんは、お嫌いなのですかな? 私のこと……というよりは我々のことがですがね」
「ええ」
冷淡な声。
「ふむ」
ネーブラは本当に、本当に悲しそうな目をして、
「それは……残念です」
両腕を霧と化し、二本の霧の腕が出現する。大きさが今までの比ではない。明らかに巨大な霧の腕。
「く!」
それは勝ち気な彼女が思わず足を後ろに退いてしまうほどであった。
「ですが、それも道理。好き嫌いは千差万別。無理強いは致しません。私は、紳士ですからな」
「変態が何を!」
分かる。
彼女は怒っている。
しかし、それと同時。
彼女は、何より恐れている。
目の前の男。
ネーブラという吸血鬼のことを。
勝たなければいけない。そういう気持ちが昂り、焦り、恐れ、それをどうにか出来ない自分のことを何よりも怒っている。
そんな彼女に対し、僕の行動は。
至って簡単なモノであった。
「クラリスさん」
ぽんっと肩に手を置いて、
「大丈夫」
彼女の顔を覗き込み、優しく笑う。不機嫌そうな彼女の顔から険しさが引く。
呆れているのか。驚いているのか。
それは彼女自身にしか分からなかった。
だが。
それでも。
僕が笑っていることに変わりなかった。
僕は笑いながらも真剣な面持ちで、
「焦らなくても大丈夫。勝てるさ。キミは十分なほど強い。そんなキミが焦ってどうする。焦る必要なんかない。それほどまで、キミは強いんだ。だから」
と、息を整え、ぎゅっと彼女の肩に乗せた手に力を込めて、
「勝とう」
クラリスさんの顔が一瞬、ほんの一瞬だが紅潮。
動きが止まって。
それから、
「ば、バッカじゃないの!?」
肩に乗せた手を払いのけ、
「当たり前でしょ!」
彼女の瞳に戦意と輝きが蘇る。
「はは」
その間にも霧の拳は巨大になっていた。僕は思いついたことを彼女の耳元で囁く。
彼女は驚いていた。
「そ、そんなことで本当に大丈夫なの?」
「う~ん」
少しだけ悩む。
謂わばこれは賭けなのだ。
「彼は大きな勘違いをしていると思うんだ。僕が最初に投げた桶が当たったことと、彼が呟いた“青”という言葉。そして。キミの攻撃が一切当たらなかったことから鑑みて。そうなんじゃないかって思う」
「確証は?」
問いに、
「ないよ」
これっぽっちもないと断じた。
そして、
「ふふっ」
「はは」
二人とも笑った。
「面白いじゃない。アンタ」
「じゃあ、しちゃう? 共闘」
「いいわ。やってやろうじゃないの。アンタとの共闘。今回だけだからね」
二人が構えた。ネーブラの霧の拳も出来上がる。
クラリスさんが腕を構え、両目を見開いた。
僕も、姿勢を低くして戦闘状態に移行。
「じゃあ……賭けてみようか。彼の大いなる勘違いにさ!!」
そして。
二人が飛び。
霧の拳が降り下ろされた!