114 晴れのち再会、ところによって湯気
「細切れになっちゃえ!」
クラリスさんの指にはめられた指輪の先から至近距離からでないと視認が困難なほど極細の鋼糸がネーブラに向かって伸びた。
ただ真っ直ぐ伸ばしただけではネーブラに当たらないと判断したのか、
「そうら!」
クラリスさんは小刻みに指を動かして、巧みに鋼糸を操る。
鋼糸は彼女の指の動きで自由自在に空中を移動し、四方八方からネーブラに目掛けて飛んでいった。
「ふむ」
ネーブラは少しだけ驚いたような顔をして、
「お嬢さんはヴァンパイアハンターでしたか」
半目ですうっと右手を前に翳した。
「青」
(青……?)
僕はネーブラの呟いた言葉が気になった。
だがクラリスさんの耳にはそんな些細な言葉など聞こえちゃいない。
「死ね!」
叫びながらクラリスさんが腕を振り下ろした。しゅぱっとネーブラの後ろにあった鋼鉄の衝立が切れる。衝立の異変に赤外線センサーが反応し、異音を辺りに巻き散らかす。
この音に気が付けばここに誰かがやってきてしまう。
「クラリスさん!」
僕は叫んでそう続けようとして、
「分かってる! でも、そんなの関係ない! 速攻で終わらせてやるからアンタはそこで見てろ!」
クラリスさんが助走をつけて思いっきり飛び上がった。
「でも……その前に!」
左手を突き出す。しゅるしゅると鋼糸が伸びて、露天風呂の外壁に鋼糸が突き刺さった。そしてそのまま左手を引き戻す。
すると、
「ほう」
彼女の体が空中で軌道を変えた。
「すごい」
鋼糸を使っての立体的な移動方法。
彼女の目的地は露天風呂入り口近くのガラス戸。そこも鋼糸で切り刻んで、脱衣所の中に転がり入る。彼女は大きめのバスタオルを体に巻き付けると、そのまま戻って来た。
さすがに手ぬぐい一枚は恥ずかしかったらしい。
そういうところは女の子らしい。
「これで戦える」
にやっと笑って、
「まあ……もう遅いかもしれないけど?」
指をぴんと目の前に伸ばし。
弾く。
すでにネーブラの周りには彼女が張り巡らせた鋼糸があったのだ。彼女はそれを弾いて、ネーブラの周りの鋼糸を一気に収束。
これは避けられない。
たとえ今から跳躍したところで間に合わない!
「やった!」
クラリスさんが勝ち誇り、叫んだ。
ここまで来て。
ここまで来ても。
なお。
ネーブラは動かなかった。
「ふ」
動く必要がないと笑ったのだ。
鋼糸が彼の体を貫こうとする瞬間。
彼の姿が霧となる。
霧に鋼糸が掠る。霧が霧散し、散る。
だが、
「ふふふ」
鋼糸が貫通したのちに、ネーブラが再び人の形を成して現れた。
「な!」
攻撃が当たっているのに当たっていないという状況に僕とクラリスさんが驚く。あの攻撃は避けられるようなものではなかった。
「私の通り名。“霧の怪人”は」
ネーブラが、
「伊達ではないのですよ!」
叫ぶ。
そして右腕を霧と化し、その霧が巨大な腕の蜃気楼のような状態へと変わっていく。その腕の蜃気楼が二人目掛けて飛んできた。
僕とクラリスさんはほぼ同時に左右に飛び退った。
二人が飛び退った場所に霧の拳が命中し、
「のわ!」
「く!」
いともたやすく硬質な露天風呂の地面を打ち砕いた。細かい岩の残骸が辺りに飛び散って、温泉の中にぽちゃぽちゃと次々に沈んでいった。
「霧を攻撃にも防御にも使うなんて」
「何よアレ! 反則じゃないのさ! 攻撃が当たらないなんて!」
クラリスさんがキッとネーブラを睨む。
僕はクラリスさんとは逆の方に飛んでいたので、ちょうどネーブラを挟み込む形となっていることに気が付いた。
「クラリスさん!」
意図に気が付いたのか、
「ち!」
舌打ちをしつつ、
「挟撃! もたもたしない!」
と、命令。
こくんと頷いて、
「せーの!」
地面を蹴って、助走。
その逆側でクラリスさんがネーブラに向かって走りながら腕を交差させて、鋼糸を操っていた。
(う~ん……ただのパンチよりはやっぱりクラリスさんの鋼糸の方が効く、よね)
たんっと地面を蹴って飛び、僕は右腕に力を込める。青白い光。
それを見て、ネーブラが、
「おや?」
と、眉をひそめ、
「まあ、よいですか」
と、一人で何かを呟いた。
「???」
よく分からなかったが、もはや攻撃を止めることは出来ない。跳びながら右腕を引き絞る。そしてそのままネーブラへと殴りかかり、
「っ!!」
わざとネーブラが右に避けるように殴る地点をずらす。今度は霧になる必要もないほどに避けるのが容易い攻撃。思惑通りネーブラはひょいっとその身をずらして、攻撃をかわした。
そこを、
「なら! これならどう!」
鋼糸に自身の霊力を流し込み、威力を増したクラリスさんの攻撃。避けきれないと思ったのか、今度もまた、
「ふふ」
霧となって攻撃をかわす。
僕とクラリスさんが勢いのまま交差。再び挟撃が出来るような位置取りで立った。
「これも……ダメってこと!?」
霧化は思った以上に厄介だった。攻撃が一向に命中しない。当たらなければどんな攻撃も無力だ。
二人して、顔を上げて、
「え?」
「あれ?」
ほぼ同時に驚愕。
ネーブラの頬につーっと赤い血が流れていたのだ。
擦過傷。
いわゆる切り傷がネーブラの頬に。
だが、その理由が分からなかった。
それはネーブラ自身も理解出来ていなかったのか、
「ふむ?」
僕たち以上に驚いていた。
血を拭い、その血をぺろりと舐める。
その隙に二人は合流を果たし、
「どう思う?」
「う~ん……」
ネーブラの傷の理由を考えた。
しかし、
「分からないよ……」
「私は手ごたえを感じなかった。さっきと一緒」
その理由に見当をつけることさえ出来なかった。二人して首を傾げる。
その時、
『どうかしましたか~?』
ガラス戸の向こうから聞こえてくる従業員の声。
異音と騒音にさすがに気が付いたのかここへとやってきていたのだ。
「ま、マズいよ。こんなところ誰かに見られでもしたら」
「分かってるわよっ! でも、私……結界とか張るの苦手なのよ」
「えーっ!」
「うるさい! そういうアンタはどうなのよ。張れないの!」
「うぅ……やり方さえ分かりません」
「ったく。やるだけやってみるわ」
クラリスさんは両の手のひらを合わせ、
「……く~。やっぱりダメだ。上手く出来ない……」
霊力を集中させてみたが、結局ダメだったらしい。
ひたひた。
そしてガラス戸の向こうで足音が止む。
「うわーっ! もうダメだ! こうなったら」
ほとんどやぶれかぶれで、
「どうやるの! 結界の張り方って!!」
と、問う。
慌てる僕の言葉に、
「……理屈は簡単なのよ。結界って。要は霊力や魔力で壁を作るイメージでいいの。でも……その理屈が分かっていても出来ないから結界ってのは難しいのよ!」
と、クラリスさんが若干キレ気味に叫ぶ。
引き戸に手が置かれたような音がする最中、
「霊力や魔力で壁を作るイメージ……」
僕は手のひらを合わせて、手のひらに魔力を集中させた。
そして、
「こんな……感じ?」
パンっと手のひらを思いっきり叩いて、そのまま地面に両方の手のひらを置く。
「囲え!!」
その瞬間。
ぶわっと手のひらを中心にして、青白い光が辺りに広がっていき、周囲二〇メートル四方を円柱状に囲んでいく。
ふわりふわりと揺れる青白い不可視の光。
ガラス戸の向こうで、
『あっ……そういえば他に仕事があるんだった……』
従業員が意識を外へと向けて、ガラス戸から離れていく。
「で、出来た……」
「これ……」
驚いたのは僕だけではなく、クラリスさんもだった。
クラリスさんは張り巡らされた青白い光のカーテンを眺めながら、
「この……術式。資料で見たことがある……。確か、……“八神”の……、もっとも得意とする結界式。『破邪結界』!」
そう言った。
僕は素直に喜んでいた。よく分からないが、結界を張ることが出来た。それに対しクラリスさんは、
「あ、アンタ……、アンタアンタアンタ!!」
僕の首を絞めながら顔を真っ赤にしながら激昂。
「やっぱりアンタ! 私のことを舐めてるでしょ! 何よこれ! 素人がそう簡単にこんな結界を張れてたまるか! この結界は“八神”の得意とする結界の一つ『破邪結界』じゃないの! アンタ! 絶対! ぜ~ったい“八神”の修行を受けていたんでしょ! そのことを黙って! 私のことバカにしてんのっ!!」
「ぐ……ぐるじい」
「言いなさい! アンタは何者なの! やっぱり“八神”の仲間!?」
「いや……し、知らないってば。た、たまたま。そう、たまたま出来ちゃっただけで……しゅ、修行とかそんなの知らないよ~!」
「嘘つけ!!」
「そ、それに今はそんなことを言っている場合じゃ!」
僕の言葉にクラリスさんが我に返って。
その時には。
「げ」
「あ」
二人の眼前には巨大な霧の拳が……。