112 晴れのち再会、ところによって湯気
しばらくの間、僕と彼女との間に沈黙が生まれた。
何も言わない。
いや。
何も言えない空気が辺りを包み込んだ。
これ以上の会話の必要がない。というよりは、これ以上の会話をしたくない。してしまえば、何かが壊れるような気がして。
二人は気が付けば、しばらくの間。ずっと。何も言わずに露天風呂の中に身を沈めていた。
時間にして一時間弱ぐらいは経過したのだろうか。
いい加減お湯に入り過ぎてのぼせてきた。
体がぽっぽっと熱くなり頭の中がぼんやりとしてくる。
限界だ。
もうそろそろ上がらないと本当にのぼせ上がってしまう。
だが、一つ大きな問題がある。
それは。
お湯から体を上げると無防備な裸体がクラリスさんの目に触れてしまうということ。
う~。
出れない。
出たいのに。ものすごくお湯の外に出たいのに……。
長らく外気に晒されていたせいもあり、湯気も何だか収まって来たような気がする。湯気が薄れて、視界がはっきりとしてくる。
(って……あれ?)
湯気が晴れていく中、奇妙な違和感を覚えた。
岩場の奥。
詳しく言えば衝立の近く。
なぜかそこにはまだ湯気が残っていた。
しばらく時間が経過しているにも関わらず、湯気は依然ゆらゆらと蠢いていた。
それに。
何かが引っかかっている。
この奇妙な違和感。
もはや確かめてみたいと思った。
ゆっくりと温泉の中を移動して、縁に置いてあった桶を手に取る。
勘違いだったら、それはそれ。
「?」
一度、クラリスさんが不思議がってこちらを見た。
人差し指を口元に宛がって、
「しー」
と、言った。
クラリスさんが首を傾げて、僕は手に持っていた桶に力を込める。
すると、
「……」
ぼうっと桶が青白く光った。
「桶を媒介にしている?」
クラリスさんの表情が一変。真剣な表情で呟いた。
「……でも、何で青?」
こちらを見て、
「アンタって……吸」
血鬼。
と、言いかける前に。
僕は衝立の湯気に目掛けて、
「!」
思い切り桶を投げる。
桶はぎゅるぎゅると回転して、信じられない速度を保ちながら一直線で湯気に目掛けて飛んだ。
普通なら湯気に当たるはずのない桶が。
すこーん!
と、軽快な音を立てて命中!
ころんころんと桶が地面に転がった。
すると湯気が大きくぶれた。湯気が拡散して、一つの形を成していく。それは人の形。まずは上半身が形成されていき、頭の上には英国紳士が被っているような大きなシルクハット。真っ黒なモーニングコートもびしっと決まっている。顔が見える。服装と似合い、ダンディな印象の顔立ちであった。ちょび髭なんかが生えていて、少し渋めのおじさん。
次に下半身が形成されていって。
「!」
「!」
二人は同時に目を丸くした。湯気が形を成したことに驚いているのでは断じてない。
少したじろぐ。
クラリスさんがそっと僕の後ろに隠れた。普段の彼女のであれば、きっと僕の後ろに隠れるだなんて屈辱を甘んじて受けることなどありえない。
が。
状況が状況だ。
仕方ない。この場合はノーカウントでいいのではなかろうか。
ごくりと息を呑む。
いい加減声をかけなければいけない。
小さく深呼吸をしたのち、僕は問いかけた。
「あの……あなたは何者ですか?」
問いかけに男は、
「ふっ」
と、これまたダンディに笑ってみせた。
「私ですかな?」
渋い声だ。声優にでもなれそうなほどのよい声。男が羨むような渋くてかっこいい声。
「名を名乗るのは久方ぶりですな。ようやく私を見つけるモノが現れるとは。ふふふ。よいでしょう。私を見つけた褒美に教えて差し上げましょう。私の名は……ネーブラ。“霧の者”です」
「霧……?」
「ええ。私のことを“霧の怪人”と呼ぶものも多いのでそちらでも構いませんよ、少年」
ぺちぺち。
ネーブラと名乗った男がこちらに歩み寄って来る。
クラリスさんが僕の背中にしがみついて来た。
背中の中で、
「きゃ~! きゃ~!」
と、叫んでいる。
もはやネーブラの言葉など聞いちゃいない。羞恥に溺れている。
悲鳴。パニック。混乱。
クラリスさんは訳も分からずに僕の背中を引っかき、叩いて、少しでも冷静さを取り戻そうとしていた。
少し痛いけど、それで気が済むのならばいいと思った。
それに少しだけ、何かに怖がる彼女が可愛いと思った。これが普通の反応だよなと思う。普通の女の子だったらこういう感じになるよな。
と、現実逃避をし初め。
いい加減、聞かなければいけないことを聞く。
あなたは覗き魔ですか?
ではなく。
そんな些細なことではなく!
後ろに下がりながら、
「お風呂に入ってたんですよねっ!」
ほとんど願望だった。
そうであって欲しいと心の底から願った。
男はフォーマルなスーツを着ていた。上半身と下半身で揃えていて、びしっと決まっている。
が。
が!
なぜかスーツのパンツがすっぱりと切れていて。
いわゆる。
男は俗にいうフルチンという姿だった!