111 晴れのち再会、ところによって湯気
「…………」
中央の大きな岩を境に僕とクラリスさんは完全に分かれていた。露天風呂の入り口方面に僕。その逆側にクラリスさん。
耳を澄ますと、水がすくい上げられる音が聞こえた。
どうやら見えはしないが、クラリスさんが手で水をすくい上げて手のひらから肩かどこかに水を流しているらしい。その際、クラリスさんはずっと無言。
何とも言えない居心地の悪さである。
あまりにも重い空気に僕がお湯から出ようとすると、
「んっ」
と、クラリスさんが咳き込んだ。
多分、……あくまで多分だが。
その咳はわざとらしい。
何というか……。
私に黙って出ていくな。
みたいなニュアンスが込められているような気がする。
なので、
「…………」
お湯から半身を出していた体をまたお湯の中に戻す。
ちゃぽん。
お湯の中に顔を沈める。
もう……怒ってないのかな?
少し不安になってきた。
あまりにも無言が長い。もし、怒っていないのならば何か声をかけてきてもよいものなのに。それすらない。
はあ……。
無言に耐え切れなくなって衝立の方を見て、ひたすら耐える。衝立の手前の湯気がゆらゆらと揺れている。
(……?)
何だろう。
何かが引っかかった。
でも明確な答えはない。ただ、何となく。その程度。
目を凝らす。
ふと。
「ねえ」
と、クラリスさんが静かに声をかけてきた。
僕は、
「え?」
振り返った。集中力がそこで途切れる。
「気のせいだったら謝るけど」
声だけで、
「傷」
尋ねてくる。
「その傷。背中の、傷。見間違い?」
「え……」
言葉に首を傾げ、背中を見つめ、
「あ、ああ」
と、頷いてから苦笑した。
「見えちゃったんだ?」
「夕方の時にはアンタ仰向けで倒れてたし、背中が見えなかったから気が付かなかったけど、さっきのアンタの騒動で……ちょっと」
「ごめんね。変なモノ見せちゃって……」
「ったく」
つまらなさそうな声を出した後、ちゃぷりという水音が聞こえてきて。
「アンタはどうしてそうやってすぐ謝るの?」
目の前にクラリスさんが現れる。前は手ぬぐいで隠しているが、明らかに布の面積が足りていない。胸と下腹部は隠れているが横から見ると丸見えである。
「あんまこっちを見んな。デリカシーの無い」
「ご、ごめんなさい……」
ふん、と鼻を鳴らしながらクラリスさんがその身をお湯に沈めた。
目を細めて僕の体……というよりは背中を見る。
背中の傷。
ちょうど心臓の真後ろ。放射状に伸びて背中の肉を抉り取ったような大きな傷跡。傷跡は血の色が浮き出たように赤黒く変色しているものの、特に痛みは感じない。
付け加えて説明すると、
「……この傷、いつ出来たかは分からないんだよね~」
苦笑しつつ、質問に答えた。
「分からない? そんな傷が」
じっと、横目で、
「……また演技?」
囁く。
疑念の満ちた目だ。
だが、
「ち、違うよっ!」
こればかりは全力で否定しておいた。手と頭を同時に振って叫んだ。
「し、信じてくれるかどうかは分からないけど本当にこの傷に覚えがないんだ。もしかしたら僕が子供の頃に何かのきっかけで出来た傷なのかもしれないけど、僕はこの傷に心当たりがまったくないんだよ」
クラリスさんは何かを考え込みながら、
「……ここ最近で出来た傷じゃなさそうね。少なくとも一年以上は経過……してる? でも……にしては傷の色が真新しいような……」
ぼそりと何かを呟いている。
「それに……」
虚ろな瞳で、またぼそり。
「……気のせい?」
よく……聞き取れない。
でも……僕の言葉を信じてくれたようでそこは安心。
彼女は我に返ったようにふっと笑って、
「ただのへたれかと思ったら意外と苦労してるのね」
と、言った。
僕は何と返せばよいのか分からずにお湯の中に顔を沈めた。
「よく見れば体も引き締まってる。それって鍛えられた体よ」
確かによく見ると僕の体はそれなりに見栄えのいい体つきをしている。だが、筋肉を虐め抜くような趣味は僕にはない。あくまで私生活で培われた体だ。
確かに最近は強くなりたいという願望もあり、体を鍛えている。だが、それはあくまで一般的な男子高校生がやるような自己流の筋トレレベルであり、そもそも始めたのもつい最近なのでそれで褒められるようなことは決してないはずだと思う。
「……いや。普通だと思うけど……」
謙遜してそんなことを言ってみた。
しかし、また、
「……アンタはいちいち自分のことを卑下、もとい。過小評価をするわね。見ていて苛つくわ」
キッと睨まれる。
なぜ?
「自分は強いくせに弱いと思い込んでる。それってさ、日本人風に言えば謙遜って言う言葉になるのかもしれないけれど、私からすると他人に対する侮辱よ。もっと改めなさい。自分の“強さ”に正当なる評価を。それが強者である者の最低限の礼儀だって思わない?」
それだけを言うと彼女は何かを誤魔化すように横を向いた。僕は返事をすることが出来なかった。
心の中で、
(そうなのかな?)
と、思ったからだ。
強者の礼儀。
彼女の言い分も最もであり、間違っていない。
だけど。
僕は何度か口を開いて、
「……あ、あのさ」
ようやく意を決したように。
「どうしてキミはそうまでして“強さ”にこだわるの?」
聞く。
「“強者”であることがそんなに大事なの?」
すると、クラリスさんは、
「は!」
と、笑う。それは好意的な笑みではなく、心の底から相手を小馬鹿にするような微笑のようなモノ。
「大事よ」
断じる。
一切の迷いなく。
それが正しいと。
「“強さ”は絶対であり、正義。“強者”のみが英雄になれるのよ。敗者はすべからく悪。昔からこう言うでしょ。勝った方が正義。負けた方は何をされても文句が言えない。それが“強者”と“弱者”を分けるボーダーライン」
そして、
「そうよ。私は強くならなくちゃいけないの」
微笑む。
「誰よりも強く。決して二度と、負けてはいけないの」
その笑みは。
彼女の笑みは。
どことなく寂しそうであった……。
何だろう?
何が彼女を駆り立てているのだろうか。
聞くべきか。
――いや。
聞いてはいけないような気がする。
何かの覚悟のようなモノを感じた。素っ裸の少女なのに。背負っているモノの大きさは、それこそ大きな十字架のような。他人が手を貸してよいものかを躊躇させるような、何かを感じさせた。
「…………取り返す。必ず。私は……」
そこでふいっと横に顔を背けた。
ここまでは理性で抑えることが出来た。
彼女の覚悟も背負っているモノの重さも何一つ理解していない僕が。
弱い僕が。
“でしゃばる”訳にはいかないと。
心の中で理解していても。
どうにも抑えられない言葉が、
「…………何かあったら僕を呼んで」
心の奥から。
言葉になって。
口から。
漏れた。
「……クラリスさんの力になりたいから」
言葉に。
クラリスさんは、
「ふっ」
そう笑って。
淑やかに。
しかし先ほどまでの表情とは一変し、
「お断りよ」
少しだけ嬉しそうに。
怒った。