102 晴れのち再会、ところによって湯気
露天風呂は豪奢な岩風呂。僕とクドの二人はとりあえず服を脱がずに、露天風呂の敷地をぐるりと回ってみた。
特に異変はない。
いたって普通の露天風呂だ。
いや……。
ごめん。それはちょっと語弊があるかもしれない。
見てくれは確かに普通の露天風呂かもしれない。岩場と湯船が一体化していて、こういうのを絶景の露天風呂と称するのだろう。
露天風呂を囲んでいる衝立が無ければの話だが。
衝立の前に立って、こんこんとノック。
一見、木製のような衝立だが。事実、この衝立から聞こえてきた音は木製のソレではなく、無機質な金属の塊を叩いたような冷たい音が返ってきた。
この衝立は外からの視線を遮るために置かれたモノではなく、外敵を阻むためのモノだ。
強度も十分あり、衝立の上の方には衝立が置かれた端から端まで、赤外線センサーが取り付けられていた。おそらくこれがオーナーの言っていた“自信のあった覗き対策”であったのだろう。
確かに金属製の衝立が倒れれば大きな音がして従業員なり宿泊客が気が付くし、衝立の上を乗り越えようとすれば赤外線センサーに引っかかってアウト。
合理的である。対策としては盤石そのもの。
結局、覗きらしき人物は現れなかった。
露天風呂は今も使用されていて、お風呂に入っている人はいた。
やたら太った男性三人。いなせな老人二人。これだけの規模の露天風呂にしては少ない方だと思う。その全員が木綿で出来た湯あみ着を着ていた。よくテレビなどで温泉リポートをするタレントやあレポーターやらが着ているアレだ。
ただ……その中に女性客はやっぱりいなかった。
「やっぱり覗きも女の子がいないから現れないのか……」
一応、ここの露天風呂はこの温泉宿唯一の混浴らしいので女性客がいれば女性客も入っていてもおかしくはないのだが、やはり姿が見受けられない。
となると。
少し困ったことになる。
どうやって覗きを捕まえようか。
つまるところ、そういうこと。
覗きは現れないことに越したことはない。しかし、現れなければ捕まえられない。ものすごいジレンマ。
「なあなあ。これからどうするんだ?」
「そうだね……」
隣に立っていたクドがそう尋ねてきた。
これ以上ここにいてもお客さんの不信感を煽るだけにしかならないと思って、いったん外に出た。
「クドは何か感じたりしたかな?」
「何を?」
「う~ん……吸血鬼的な何かの存在?」
曖昧な僕の言葉にクドはふるふると首を横に振った。
「やっぱり現れてなかったのかな。覗きだからな~」
少しクドが困ったように、
「なあ」
「うん?」
「あの男も言っているし、カナタも言っているけど。覗きって何?」
「ふぇっ!?」
ずるっと滑る。
驚きで。
あまりの衝撃に地面の踏み方すら忘れそうになった。
そうだよな……。この子が覗きだなんてモノの存在を知っているはずもないし、そもそも覗きがどんな行為なのかも分かっていないだろうな。
説明するのは恥ずかしいけど。ものすごく恥ずかしいけど……説明しないとダメだよな。その、女の子として知っておかなきゃいけないだろうし。
「覗きって言うのは……何て言ったらいいんだろう。えっと……別に温泉地特有の存在じゃなくて、女の子の裸とかそういうのを覗き見る人のことを言うんだよ」
「裸?」
「そう、裸。いやでしょ。クドも知らない人に裸を見られたりしたら」
しばしの沈黙。
秒数にして五秒前後。
間としては結構あった。
やがて、クドは、
「う、う~ん」
と、首を大きく傾げた。
遠慮がちに、
「そうなのかな?」
またこけた。
「クドぉ……」
ダメだ!
やっぱりこの子には羞恥心というものがない。人前でスカートをたくし上げるわ、あまつさえ裸を見られたことを想像しても微動だにしない。
けど……こればかりはどう説明すればいいのか未だに分からない。
女の子の裸の大切さは何となく理解しているつもりではいるけれども、僕はやっぱり男の子だからそこら辺の感情の説明は曖昧になってしまう。それではダメなのだ。もっと、こう……明確に。ちゃんと。恥ずかしいという感情を教えられないものだろうか。
「はあ」
大きくため息を吐いた。
今はクドの羞恥心は置いておこう。こればかりは時間をかけて教えるしかない。
それよりも問題は覗きの件だ。
どうやったら覗きが現れるか。
簡単に考えれば、覗きが覗きをしたくなるような状況を作り上げるのが手っ取り早い。
でも……難しいよなぁ。
女性客が露天風呂にでも入ってくれれば覗きが現れるかもしれないが、その女性客がいないせいでオーナーはヴァンパイアハンターに相談を持ち掛けたのだから。
僕が一人、うんうんと唸っていると、
「なあ」
と、クドがぴんと人差し指を立てて、
「思ったんだが」
ふと思いついたように語り始める。
「ん~。わたしはまだその……何だっけ。あーそうだ。“覗き”? っていうのがよく分からないんだけど、その覗きは女の裸が見たいがために、この“ろてんぶろ”に現れるという話なのだろう? だったら話は簡単だ。わたしがろてんぶろに入れば覗きが現れるかもしれないじゃないか」
「い、いや……」
確かに言っていることは最もなのだが。
なのだが……。
である。
それはクドが覗き魔の囮になるということになる。
う~ん。
それは……何となく嫌だ。
うん。嫌。
それにもし仮に、クドが露天風呂に入ることを許可したとしても、問題がある。
それは。
ちらりとクドの体躯を見やる。
小さい。否。ちっちゃい。
胸が、などという部分的な話ではなく。本当に全体的にクドは小さいのだ。
身長目測一三〇センチ代。見た目年齢一二、三歳。
はたして覗きがこれに反応するかどうかという問題があった。
う~ん。
でも……一応女の子っちゃ女の子なのか。
悩む。
非常に悩ましい問題だ。
オーナーの力になってやりたいと強く思ってはいるが、クドにそんな危ない橋を渡らせてもよいのだろうか。
でも、他に方法がないしな……。
悩みに悩みぬいて。
「うん」
小さく頷いた。
「分かった。じゃあお客さんが露天風呂から全員いなくなってからクドは一人でお風呂に入って」
クドの提案に乗ることにした。
が。
そこで。
なぜか。
クドの表情が少しだけ曇った。
クドは困ったように顎に指を置き、
「ひとりでか?」
と、言った。
ごめん。意味が分からない。
そりゃ一人でしょ。
僕がキミと一緒にお風呂に入る訳にもいかないのだから。
そんな当たり前の心情。
彼女はそんな当たり前の常識など頭の中になかったのか、
「う~ん」
ひどく困ったような顔。
首を傾げる。
それから聞かねばよかったと思わず思ってしまうような爆弾発言を。
何となしに、一言。
「一緒には入ってくれないのか?」
「え」
「ひとりで入ったことないからな~。いつもは考えなしにユミに身を任せていればよかったから、あんまりよく分からないんだ。おふろの入り方」
「え」
「それにお湯がぱーっと出るアレもない。何だっけ? えーっと……しゃわー? アレしか覚えがない」
「え」
「困った」
クドは本気で困っているようにして首を振る。
対し、僕は。
(そんな……まさか)
と、思っていた。
「クド……母さんと一緒にお風呂に入ったことはあるよね」
そう思ったから。
たまらず尋ねた。
「その時はどう思ってた?」
「どうって……」
ぽくぽく……とクドが頭の中で逡巡。
そして、
「何の意味があるんだろう……って思ってた」
そう言ってから、
「めんどうだな……って」
そう述べた。
「か、髪を自分で洗ったことは? 体を自分で洗ったことは?」
最終確認。
クドの口から零れた答え。
それは、
「ない」
きっぱりとした、ノー。
だった。
僕は少し脂汗を掻いた。
この子が“お風呂”の作法をまったくとして理解していないことが判明する。母さんがクドのことをお風呂に入れている時はいつもシャワーだったのだ。忙しい我が家では湯船にお湯をたっぷり入れて入ることはほとんどない。いつもシャワーで簡略的に済ませていた。
クドはいつも母さんとお風呂に入っている時も。
シャワー。
しかし、ここにシャワーはない。
外観的な意味もあるのだろう。露天風呂にシャワーだなんて近代的な物体があると浮いてしまう。衝立は何とか木の体を為しているのでセーフ。でもシャワーはどう頑張ってもこの露天風呂の外観には合わないのでアウト。
それに体の洗い方も髪の洗い方もクドは知らない。それはいつも母さんが洗ってやっていたから。
そして、今。母さんはここにはいない。
なので誰かがいつも母さんがやっていることをやってやらなければならない。
一体誰が……?
どう考えても答えは一つしかなかった……。