009 ボーイ・ミーツ・ヴァンプ
「よくも、まあ。こんなにいるもんだね」
視界に映る全ての景色が生屍人によって塗り潰されていた。ハーフコートがあった場所から追いかけてきていた生屍人も道中で倒れていた生屍人も復活して勢ぞろいと言った具合にわらわらと集まってきていた。その様子はどこかのホラーゲームの様相だ。
「やっぱり……この公園は」
クドラクがぼそりと言う。
「どうかした?」
「……ううん。なんでもない。今、話すようなことじゃないから」
「そっか」
今、か。
そっかそっか。
背後に見える出口を見た。出口までは一直線。逃げることは不可能ではない。
「………………人間」
僕はクドラクを見た。
「今ならまだ逃げることは出来るよ。見えるでしょ。あそこ」
そしてそのまま、
「聞かないでよ。かっこつかないよ」
「くすくす」
二人でまた笑った。
「あるんでしょ。なにか。だから僕にそんなことを言うんだ」
「うん」
クドラクは目を細めて、
「でも、いいの? きっと後悔するよ。聞かなきゃよかったって。やらなきゃよかったって。もう一回だけ言うね。きっと後悔する」
そう言う。
そして、
「それでもいい?」
夜の光の中で笑う。
そして満月を仰ぎ見た。
吸血鬼の力の根源。
夜の象徴。
闇の中で少女は歳に似合わないほど艶やかに笑って見せた。
クドラクが笑うと、その口から牙が現れる。
「……………………………………そういう、こと」
僕は一度だけ目を瞑る。
この子の言うことは全部本当のことだった。
だったら。
吸血鬼だっていうことも本当のこと。
僕の思う吸血鬼のイメージ通りなら……。
「吸うんだよね」
「うん」
はっきりと頷く。
「先に言っとく。吸血鬼に血を吸われた人間は、もう人間じゃなくなる。もしかしたら生屍人になるかも」
「マジ?」
「まじ」
クドラクが僕の背後に立って、僕の首筋に手を置いた。
「でも、ごめんね。わたし……血を吸うのは久しぶりだから血の吸い方を忘れてるかもしれないから。ちょっと……吸い過ぎるかも……」
「マジ?」
「まじ」
またもや、
「く!」
「ぷ!」
噴き出す。
それから、やがて。
すうっと滑るようにクドラクは首筋に牙を宛がう。
彼女の吐息が首筋をくすぐる。
「……いいよ」
そこまで少女との距離が縮まって、僕は言ってやった。
「やっちゃえ」
多分、これが興奮状態ってやつなんだろうなって思った。後先考えず、勢いだけで、言ってやった。
けど。
「やっちゃえ、クドラク」
――後悔はない!
「っ!」
奇妙な感触。
注射針よりも太いクドラクの牙が僕の首筋にずぶずぶと深く差し込まれていく感触。
「ん……」
なのに……痛くない。
少しぐらいの痛みは覚悟していた。何せ、異物が体に入り込んでしまうのだから。
……本当に入っているの?
そう思って僕は僕の首を噛んでいるクドラクを見た。
――――入ってる。けど、全然痛くない。
そして、
「あれ?」
僕はふらっと眩暈を起こしたみたいに、ふらっと尻餅をついた。
「あ」
クドラクが焦ったみたいにして慌てて僕の首から顔を離す。
「ど、どうしたんだ……僕……」
「えへへ。……ごめん、吸いすぎちゃった」
ってことは……コレ。
「ひ、貧血……」
「あはは」
こっほん、とクドラクは少しだけ恥ずかしそうに顔を赤くしながら咳ばらいをして、口の端に零れた僕の血を指で拭った。
「でも、ま」
少女がたん、と地面を蹴るとクドラクの体が地面から浮いた。そして見る見るうちにクドラクは空中へと飛ぶ。
「おかげさまで力が戻った。戻った!」
言いながらクドラクは自分の指を天へと伸ばす。
クドラクの月のように輝く銀色の髪が赤く光を帯び、膨れ上がる。魔力とかそういうものの類は未だ理解は出来ていないが、クドラクが何らかの力を使ったのだとすぐに分かった。
そして赤く膨れ上がった光が大気に滲み、やがて消え、彼女の周りに変化が起きる。
目も眩むほどの。
まるで月光の差し込む海面のような淡く、しかし絢爛たる蒼穹の夜空が闇を青く、蒼く、満月を残して、染まる。
その正体。
それは。
何千個もある氷の柱。
氷柱は煌びやかな星々のようにあり得ないほどの力を誇示し、そこに在り続けた。
僕も。生屍人の大群も空を仰ぎ見る。
言葉を失って。理性も消し去って。
ただただ茫然と。
「くすくす」
そして翼を持たぬ生屍人たちをあざ笑うかのようにして、クドラクは妖艶に笑う。
空の隙間を全て埋め尽くす氷柱の一つ一つが、意志を持っているみたいに動く。
……そうか、これが。
僕はひっそりと身震いを起こす。
これが、これが……彼女の……、いや……“吸血鬼”の本気。
“本物”の“吸血鬼”の本気。
僕はぶるぶると体を震わす。なんていうでたらめ。なんていう魔力。氷柱一つ飛ばすだけでも驚いたのに、この数の氷柱を彼女は何の抵抗もなく動かしている。この圧倒的なまでの、桁違いの数!
身震いを起こさないわけもなかった。
空でクドラクが満の月を背後にして笑った。
「動かないでよ、人間」
終演を告げる指揮者のようにしなやかに、しかし激しくクドラクは指をタクトのように振るう。
「当たっちゃうから!」
生屍人たちに恐慌が訪れる。
空に向かって叫ぶ。
だけど翼を持たない生屍人たちには何も出来ない。空に向かって叫ぶのがやっと。何とかクドラクの攻撃を止めようと躍起になる。だけど。だけど、
「くすくす」
月にまで攻撃は届かない。
クドラクは力を溜め、指をさっと顔の前で交差させ、にいっと笑い、
「穿て。全てを」
力強く終幕の時を告げた。
「氷の雨!!」
その瞬間、空が闇へと還る。
局地的な豪雨のように生屍人がいる場所だけに凄まじい勢いで何千という氷柱が降りしきる。
氷の豪雨にたちまち呑み込まれていく生屍人たちを氷柱が消し飛ばす。破片すら残さぬように、血液すら凍らせて生屍人のいた証を消し去っていく。肉が、血液が、叫びが。全てが夢幻だったかのように消え、やがて。雨が止む。
辺りに静寂が戻り、生屍人がいたであろう痕跡はかけらも残さずに失せ、全てが浄化され尽くされた。
クドラクが空から降り、僕の前に立つと柔らかく笑った。そして尻餅をついたままの僕に手を指し伸ばす。
「立てる?」
「あ……う、うん」
僕はその手を掴んでから立ち上がる。
……なんというか。
全てが夢であってほしいと願うことすら馬鹿馬鹿しくなった。
全てが“本物”。そう思うことしか出来なくなった。
だから、もう一度。
「ははは!」
思いっきり笑う。
途中、クドラクは怪訝そうな顔をしていたけど、
「くすくす」
僕と同じように笑った。
掴んでいたクドラクの手をもう一度強く握りしめる。
「???」
「僕は、かなた。人間でもお前でもない。久遠かなた。…………何だか色々とキミ、クドラクには聞きたいことがあるから。うん。さっき出来なかった話を色々しよう。だから、よろしく」
これが僕と彼女――吸血鬼との出逢い。
そして、僕が人間を止めた日の扉を開くまでの経緯。
あと、僕とクドラクの、人間と吸血鬼の、二人の、いや、二人にとっての絆の縁が生まれた日。