上下する棺桶
私はエレベーターを操縦する立場になることが多い。利用する階がいつも極端に上か、下かのどちらかだからだ。その時の姿勢は片手を閉めるボタンの前に添え、もう一つの手で手すりを持つ。この姿勢がある種の様式美となっている。
私はせっかちな部類に入る人間なので、人を挟まない程度にスイッチを押して扉を早く閉める。また、あまり長い時間エレベーター内に居るのも嫌なので、普段利用する人が少ないエレベーターを経験から選んで使うようにしている。
それでも、エレベーターの操縦が遅い人にはかなりの割合で鉢合わせるものだ。人がとっくに入ってるのに、なかなか閉まるボタンを押さなかったり、より悪質な場合には、閉めるボタンと間違えて開くボタンを何時までも押していたりするのだ。
まさか、一緒に乗り合わせている私達の存在を忘れているのではないか。そう疑いたくなってくる。そんな時、手すりが握れない不安感も合わさって、私は落ち着きをすっかり無くしてしまう。
それにしてもエレベーターとは不思議なものだ。
エレベーターとは、ある一定の視点から見ると、人の詰まった箱がかなりの高速で上下しているものなのだ。なのにこの様な不安定なものを人は日常的に平然と使っている。
それに起因しているのかは判らないが、巷ではエレベーターに関する霊的な怖い話をよく耳にする。
その大概が「エレベーターが三階までの建物にあるはずのない四階に止まった」などの、エレベーター内で何かの異変に気付くというものだ。
しかし私は最近、それらの場合とは違う知人から不思議な話を聞いた。これから私がするのは、知人の男が出逢ったエレベーターに関する奇妙な話である。
彼は韓国で働くビジネスマンだった。仕事の都合により秋から冬にかけて韓国へと出張していたのだ。一ヶ月以上に渡る大仕事だったので、彼は会社がある都市の郊外に位置する安アパートの一部屋を借りた。
そのアパートは家賃の割には珍しく、エレベーターが付いていた。アパートは五階建て、彼の部屋はその最上階だった。
彼がある日普段通り、深夜頃仕事から帰ってくると、タイミングが悪かったのかエレベーターは一階を出た直後だった。
彼はエレベーターが再び一階に戻ってくるのを待つのも億劫なのでエレベーターのすぐ手前にある階段で五階まで上ることにした。
階段は鉄骨の外付けになっていて、韓国の冷たい夜風が彼に吹き付けた。
黙々と彼が階段を上り三階まで来ると、エレベーターの扉の隣に備え付けられた電飾——エレベーターが現在何階かを指し示すものだ——が『2』という数字をオレンジ色で照らしていた。どうやら誰か二階でエレベーターに乗ったらしかった。
エレベーターは三階に登ってきた。扉が透明なので重りがゆっくり下へと向かっていくのを確認できた。
彼はあと二階分階段で上ることを面倒くさく思ったので、『上』のボタンを押そうとした。
ふと、彼は違和感を感じた。エレベーターは確実に上へと向かってきているのに、電飾に示された表示はエレベーターが『下』へと降りていくことを表していた。
彼はボタンを押すことを躊躇った。
その間に、エレベーターは三階を超えて四階へと向かっていった。
橋下ガラスの向こう側、エレベーターに若い女性が乗っているのが見えた。長髪で、黒いレースのワンピースを着た女だった。彼女は俯いて何処かの階で止まるのをじっと待っているようだった。
彼がエレベーターに乗ることを諦め、階段の一段目に足を掛けた。その時だった。
太い繊維を力任せで引きちぎったような音がアパート全体に響き渡った。
彼は思わずエレベーターの方を振り向いた。電飾は四階を示したまま止まっていた。
再び、轟音、扉の奥で火花が散るのが見えた。次の瞬間、エレベーターが唸るような音を立てて上階から落ちてきた。
そして、彼は見てしまった。いや、彼が扉の方を見たからには必然だったのかもしれない。
ほんの一瞬、彼はガラスの向こうの落ちていく女と視線があった。その顔に浮かぶは混乱、恐怖。
これらの激情を叫び声として発散したくても、出来なかったらしい。悲鳴さえ聞こえることなく、エレベーターは落ち、間も無く彼に足元を崩すかの如き衝撃が伝わってきた。
数刻も待つことなくアパートの住居者や周辺の住民が野次馬として集まってきた。彼は結果として、そのまま寝れない夜を過ごした。
次の日、新聞の片隅にその事件が載った。中からは女性の遺体が一人見つかったという。即死だった、とも書いてあった。エレベーターは突如、逃げることが許されない鉄の棺桶と化したのだ。
彼は新聞を畳んで考えた。あの電飾はエレベーターの行く末を予言していたのではないか。
『下』を指したまま上がっていくエレベーター、女性の恐怖に満ちた顔、爆音。そのことで彼の頭の中は一杯だった。
帰国後すぐに彼はこの話を私にしてくれた。圧倒的な体験は他人に話すことでしか薄くすることが出来ないのだ。
だが、その生々しい体験は人に伝染する。それから私は手すりの付いたエレベーターでないと安心せず乗れなくなってしまった。
何かを強く掴むことで恐怖心は随分和らぐものだ。例えそれが抜本的な解決策になっていなかったとしても——。