辺境の村、小さな祠と小さな少女
とある国の辺境の地、小さな村がありました。
ある家では家畜を育て、ある家では田畑を耕し、またある家では衣服を、家具を。
決して裕福な村ではありませんでしたが、人々は支え合い、平和に暮らしていました。
こうして平穏に過ごせるのは、村外れにある“祈りの祠”のおかげだ――と。
村の誰しもがそう思い、日々の感謝を忘れませんでした。
中でも、一番の敬虔な少女はとても器量が良く、村人から愛されていました。
その麗しさを称した人々は“祈りの巫女”なんて呼び名を付け、いつしか彼女が祈ることが風習になっていきました。
雨の日も風の日も、祈りの巫女は祠で平和を願い続けました。
祠の水晶石に一日の感謝を伝えながら。
時は流れ、しかし、村の平和も永遠には続きませんでした。
領地の中心にある国に戦争が起こったのです。
辺境にあったその村には直接の影響こそありませんでしたが、やがて敗戦を予見した傭兵たちが遁走し、野盗として村を襲ったのです。
村の男たちも武器を手に戦いましたが、戦いや争いを糧に生きていた傭兵崩れの野盗たちには手も足も出ませんでした。
抵抗の畏れのある男たちは殺され、用途のない老父老婆も殺され、生き残ったのは若い女と子どもだけになりました。
平和だった村は、一夜にして腸が飛び散り、血池の広がる地獄絵図と化したのです。
もちろん、かろうじて生を得た女子どもも無事にという訳にはいきません。
女はただ野盗を悦ばせるためだけに生きることを許され、幼い男の子は奴隷として生きる道を歩ませられるからです。
少女は泣いて許しを請いましたが、それは野盗を悦楽をただ徒に掻き立てるだけ、もっと幼い少女は意味も分からないまま快楽の道具にされました。
目の前で両親を失い、心を壊してしまった少女はまだ救いだったのでしょうか。
そのような惨事のまだ浅い最中、村人たちはたったひとつの“あるもの”を護ろうとしました。
祈りの巫女だけは、何を引き替えにしても絶対に守り通す――村人たちは、そういう強い信念で結ばれていました。
村の男たちは盾になり、村の女たちは己を犠牲にして野盗の前に立ちはだかります。
そうして、祈りの巫女は、ただひたすらに涙しながら村を離れました。
どうか皆さん、無事でいてください――と。
それが適わぬ願いだと知りながらも、少女はただ祈り続けました。
しかし、いくら大層な名で呼ばれていようと、祈りの巫女はその見目の麗しさを除けば何ら変哲のない普通の少女でした。
たったひとりで生きていけるような力はありません。
そんな少女が頼ったのは、村近くの森に住んでいる猟師の小屋でした。
少女が尋ね、涙ながらに事情を話すと、猟師は温かく迎え入れてくれました。
少女は安堵し、しばらくは猟師の家でお世話になることにしました。
猟師は内心でほくそ笑みました。
何せ、村一番の美少女が、長らく独り暮らしをしている掘っ立て小屋に飛び込んできてくれたのです。
その日、猟師は生まれて二度目になる神への感謝をしました。
猟師は、野盗から少女を守る為だと言い、家に念入りに閂を掛けました。
鎖でグルグルに縛った太い角材は、内側からでもちょっとやそっとでは外れそうにありません。
少女は怪訝に思うことなく、この猟師の笑顔は、わたしの無事を喜んでくれているのだと、全く疑いもしませんでした。
ささやかな夕食を終え、少女が床に就くと、その時を待っていたかのように少女に牙が突き立てられました。
少女は理解が追い付かない内に手足を拘束され、そのまま衣服を破かれました。
濡れる瞳に映ったのは、遠目で見た野盗と同じ顔でした。
男に組み伏せられながら、少女は自らの迂闊さを呪いました。
それは我が身大切さゆえの感情ではなく、何の力もない自分を身を挺して護ってくれた“村人たち”に対する申し訳なさと自身の不甲斐なさを嘆いたものでした。
少女は誓いました。
たとえ自分がどのような境遇に陥ろうとも、たとえ自分がどのような苦痛を強いられようとも、心の光を決して絶やしてはいけないと。
祈ることしか出来ないのなら、わたしはただひたすら祈り続けようと。
それが、尊き人たちから少女に託されたたったひとつの願いなのだから。
猟師は従順になった少女を訝しみながらも、きっとこれは少女が生きる為に受け入れた道なのだろう――そう考えることにしました。
それはあながち全てが間違いではなく、年端も行かないながらも聡明な少女は、自身が猟師によって生かされている存在だということを認識していたのです。
そうして、檻に飼われた少女は仮初の平和を過ごしました。
村の人たちが辿った未来を想像すれば、この程度の苦痛など苦痛の内には入らない。
求められるものが辛ければ辛く感じるほど、苦しければ苦しく感じるほど、これは自身に与えられた贖罪なのだと。
己の境遇を憂うことなく、少女は毎日祈り続けました。
ある日、そんな少女を深い悲しみが降りかかりました。
なんと猟師の小屋に村を襲った野盗たちが現れたのです。
このままでは猟師の身が危ない――と、我が身を省みずに心配した少女を余所に、猟師と野盗が談笑し始めたではありませんか。
怪訝に思った少女が戸口の隙間から聞き耳を立てると、話が進むに連れて少女は事件の発端を知ることになりました。
――なんと、野盗に村を売ったのは、この猟師だったのです。
猟師は、些細な悪行で自分を村の外へ追いやった長を憎んでいました。
そして、村から若い女をひとり貰うことを引き替えに野盗を招いたのです。
真相を知った少女は悲観に暮れました。
経緯はどうであれ、曲がりなりにも自分を養ってくれていた猟師がまさか裏で手を引いていた張本人だとは思いも寄らなかったからです。
唯一救いだったのは、猟師と野盗の言う“若い女”が少女を指していなかったことでしょうか。
証拠に、少女の存在を知らない野盗は、猟師との約束どおり村の若い女をひとり連れてきていました。
その女性を見た少女は驚きました。
小さい村の中で、顔の分からない相手なんていない――そんな中でも、少女が家族同様によく見知った、隣の家に住む姉代わりの女性だったのです。
少女は義姉の無事を喜ぶあまり、声をあげそうになるのを懸命に堪えました。
ここで少女の存在が野盗にバレてしまえば、約束自体が破棄されてしまい兼ねないからです。
しかし、次の瞬間、少女は我が目を疑う光景を見ることになりました。
義姉が野盗から猟師に引き渡された――そう思った刹那、義姉は懐に隠していた短刀で猟師の身体を貫いたのです。
突然の出来事に何が起きたか分からずに丸く目を見開く猟師でしたが、状況を察すると大声で悲鳴を上げました。
幸か不幸か短刀はわずかに急所を逸れていたのか、猟師は血が溢れ出す傷口を両手で押さえながら何歩かよろめくだけに留まりました。
そして、懐に刺さった短刀を抜き、自らを刺した義姉の首を真横に掻き切ったのです。
それを眺めていた野盗は、今にも転げそうな勢いで愉快そうに笑い続けていました。
少女は、目の前で起こった惨劇に、ただ黙して立ち尽くすことしかできませんでした。
悟ったのは、おそらく義姉は野盗から事前に真相を聞かされていたのだろう、そして、短刀を渡され、初めからこうなるように仕向けられていたのだろう――と。
それを恨みがましい目で睨みつけていた猟師も、腹に大きな傷を負った状態では為す術もなく野盗に斬り伏せられてしまいました。
床に倒れた猟師と目が合った少女は、その時、猟師の口の端が僅かに歪むのを逃しませんでした。
死の直前、なんと猟師が少女の名前を呼んだのです。
動揺した少女は、後ろへ下がる時、わずかに物音を立ててしまいました。
少女は手を組んで無心で祈りましたが、その祈りは届かず、少女はあっけなく野盗に見つかってしまいました。
野盗は少女を見るや否や、まるで金銀財宝を見つけたかのような笑いを浮かべました。
直後、少女に振りかかった不幸は、猟師との生活と何ら変わりないものでした。
義姉の埋葬すら許されないまま村へと連れ帰られた少女は、かつてとは比べるべくもないほど変わり果てた村の様子に絶望しました。
元々少なかった人口はさらに一〇分の一にまで減らされ、残っていたのは見目の良い女性だけ。
それも、全員が精気を失ったかのような表情をしていました。
そしてそれは、今や少女も同じ。
いなくなった人たちの安否を尋ねる必要もなく、物言わぬ骸となった住人があちらこちらに放置されていたからです。
その中に、両親の姿を見つけた少女は泣き叫びました。
あれほど祈ったのに、わたしの祈りでは家族ひとり救えない――と。
少女は全ての絶望を受け入れ、しかし、己の気付かない心の隅ではそれを否定していました。
国も知らない小さな村。
あれから長い年月が流れると、いつしか村は再興していました。
身篭った村の女たちが出産し、やがて育ったその子たちがさらに子を作り、村を大きくしていったのです。
さらに長い長い年月が経つと、村人たちからは野盗のことを知る者もいなくなりました。
そして、誰も祈ることのなくなった小さな祠は、村人に知られることなくひっそりと埋もれていきました。
もし、少女の逃げる先が“森の小屋”ではなく“祈りの祠”であったのならば、少女と村の運命は変わっていたのでしょうか。
一夜の命運を分けるのがどのタイミングであったのか、そしてその選択は本当に今より幸せな未来を招くのか。
それは、祠に眠る水晶だけが知っているのかもしれません。