ムラサキカガミの呪詛
突然、私の従姉妹が死んだ。
話を断片的にしか聞いていないので死因はよく分からないが、どうやら自殺ではないらしい。
彼女とは年が近かったし、それなりに遊んだこともあるので、私も葬式に出ることになった。
「まだ若いのにねえ…」
親戚のおばちゃん連中から、そんな声が何度も飛び交っている。
彼女は小さい頃から才女だともてはやされており、将来をとても楽しみにされていた。それだけに両親祖父母の悲しみようといったら、こちらまでもらい泣きしそうになった…と私の父が言っていた。
父も、彼女と私を比較することが何度もあった。それが悔しくてたまらなかったし、周りにちやほやされる彼女を疎ましく思ったこともあったけど、それでも心の底から憎らしさを感じたことはなかった。
正直に言って、さびしい。
遺品の整理をしている最中、伯母が私に日記を手渡してきた。
「まだ誰にも読ませていないけれど、あなたに読んでもらいたい」と赤く腫らした目をして頼み込まれた。
彼女が小学生の頃から書き続けた日記の数々。当然一冊だけではなく、私の周りにはたくさんの日記帳が積みあがっていた。
とりあえず、「2013,1」と書いてある日記帳を手に取り、そっとページをめくる。
他愛もない日常生活の記録に混じって、彼女の思いの丈がつらつらと書き連ねられていた。
はた、と手が止まる。
三月二十一日で日付が止まっている。そうか、これが最後の日記なんだ。
『私は、今日で二十歳になった。
この日記を書くのも、今日が最後になるかもしれない。だから最後は、私の人生で最大の事件となるであろうあの日のことを、小説のように書いてみることにする。』
あの日?…ここから先は、ずいぶんと長く書かれている。読み終わるのはかなり先になりそうだ。
「おばさん、この日記、借りてもいいですか?」
伯母は快く了承してくれた。なんなら貰ってくれて構わない、とも言ってくれたが、とりあえず借りるだけに留めておくことにした。
さあ、家で続きを読もう。
これはひょっとして、彼女が最後に書いた自伝小説なのかもしれない。
面白かったら感想を手紙にしたためて、墓前に供えてあげようかな。
***
「紫鏡事件」
退屈な毎日だ。
無限ループの如く続くルーチンワークや、特に刺激のないカリキュラムや、三月のウサギよろしく騒ぐクラスメートたち。
そんな日常がいつまでたっても終わらないのかな、と少しばかり不安になる。家族や先生からは神童だの才媛だのと持て囃されているけど、それすら煩わしくなってくる。
早く大人になりたい。
私の憂鬱の原因はもう一つある。
いわゆる“いじめ”というやつなのだけど、私が被害に遭っているわけではない。
クラスメイトの仁科早穂子という子がいじめられているのだ。
はっきり言って、彼女とはそれほど仲は良くない。話したことも最早記憶の彼方に遠のきつつある。
親しくもない人のことを憐れみ気を病む必要は勿論ないし、私もそうするつもりは毛頭ない。
ただ、人が酷い目に遭っているのを見ているのは本当に気分が悪いものなのだ。
机の中に虫の死骸を入れられていたり、勉強道具をトイレに投げ入れられていたり、集団でよってたかって罵倒されていたり、極めつけに、やってもいないことをやったかのように吹聴されていたり。
おまけに仁科さんは成績も悪かったので、先生はあまり彼女を重視していないように思えた。
仁科さんはクラスの中では悪者扱いだ。
万引きをしていた、いや援助交際をしていた、野良犬や野良猫を苛めていた、ともっぱらの噂だった。
勿論、確固たる証拠はない。にも関わらず噂が真であるかのように働きかけている人がいる。
クラスのリーダー格、大木清寧。
彼女こそ仁科さんいじめの主犯であり、彼女の悪評の根源だ。
仁科さんとは正反対に、大木さんは成績優秀で人望も厚い。大木さんの言うことだったらクラスの80パーセントは無条件に信じる。
残り20パーセントは、“根も葉もない噂だと分かっているけれど、逆らったら何をされるか分からないからあえて指摘しない”人の集まりで、私もここに属する。
つまりクラスの誰一人として、仁科さんの味方になってくれる人はいない。
学校に通うたび、なんと残酷な現実だろうか、と何もしない私は嘆いていた。
「ねえ、お金貸してよ」
放課後、人気のない校舎裏で、大木さんたちが仁科さんに詰め寄っていた。
「あたしさあ、欲しい服があるんだよね。でも小遣いないからさ。
お洒落すんのも結構大変なんだよぉ。誰かさんと違って!」
取り巻きがケラケラ笑う。
仁科さんはうつむいたまま、何も言わない。
「髪型はダサいし、スカート丈もダサいし、頭も悪くて運動もできない。おまけにブス。
あんたって生きてる意味あんの?ねえ。ないでしょ?あったら言ってよ」
「……」
「ほぉら、ないじゃん。あんたみたいな生きてる価値のない奴、この世に存在するだけで害になるんだよ。分かる?
社会のために何にもできないんなら、あたしにお金全部渡してさっさと死ねよ」
仁科さんの長い前髪に隠れた顔はうかがい知れなかったけれど、怒っているようにも泣いているようにも見えない。
あえて言うなら果てしない虚無。
生きている喜びや未来への希望がまるで見えてこない、死人のような目つき。
それが大木さんたちの足元へと伸びているのだった。
「…早く金出せって言ってんだろ。聞こえなかったのかよ!」
突然、大木さんの可憐な顔が歪み、別人かと思いたくなるほどの憤怒の形相に様変わりしたかと思うと、仁科さんが引き倒されていた。
うつ伏せに倒れた仁科さんの周りを取り巻きが囲む。
大木さんは放り出された鞄を乱暴にひったくり、中の物を全部ぶちまけて何やら探していた。
「財布はッ!」
無言のまま、仁科さんは自分のポケットからお札を数枚出した。
「さっさと出せよクズ。だから生きてる価値がねーんだよ、コラッ!」
路傍の石を蹴飛ばすように、大木さんは仁科さんの体を蹴り上げると、取り巻きと一緒にツカツカと去っていった。
嵐の後の静けさとでも言うべきか、辺りには鳥の声一つ聞こえない。
仁科さんはしばらく動かなかったが、やおら起き上がると、なぜかこちらに顔を向けた。
夢も希望も何もない、空虚な顔が私を凝視する。
私がずっとここで見ていたのが分かったんだろうか?
そうだとしたら、私は彼女に恨まれても仕方がない―――。
「ねえ」
先程からだんまりを決め込んでいた仁科さんが、この時初めて口を利いた。
随分久しぶりに聞いた彼女の声はとても無機質で、何だかクラスメイトと話しているとは思えないほど緊張したのを今でも覚えている。
「今の私ってどう思う?」
「え…?」
「みじめでしょ。可哀想でしょ。全部分かってるよ、私もそう思ってるから。
私、全部が嫌い。弱くて何もできない私も、大木さん達も、学校も、先生も、世の中の全部が嫌い。
だからもう、明日でけじめをつけようって思うんだ」
「けじめって……大木さん達に何か言うの?」
ぎこちない表情の私とは対照的に、ひひっ、と息をもらすように笑う。
「明日になったら全部分かるよ。みんなをあっと言わせてやるの。楽しみにしててね、衛藤さん」
この翌日、生涯忘れ得ぬ事件が起きる。
それは反抗を許されなかった彼女の最初にして最後の抗いであり、自らの命をもってして完成させた復讐。
クラスメート全員への、遅効性かつ致死性の毒薬だったのだ。
「朝来たらこうなってたんだよ!」
最初に発見したのは、脇坂さんという女子だった。
教室内の非現実的な光景に拍車をかけた発言に、クラスの皆はさらに慄然とした。
改めて私はその光景を見渡す。
机の中やロッカーや本棚、教卓の裏までを―――溢れるほど大量の紫色の手鏡が占領した光景を。
黒板のみならず、教室後方の壁に位置する伝言板までを―――埋め尽くすかのような「ムラサキカガミ」の文字の羅列を。
脇坂さんの言葉を信じるならば、誰かが彼女より早く登校して、これを用意したということだ。
その名を口にしないでも、クラスの皆の頭の中には共通事項があっただろう。
仁科さん―――こんなことをするのは彼女しか考えられない。特に私にはそれがよく分かっている。
しかし、もう数分でチャイムが鳴りそうな時刻だというのに、肝心の本人がまだ登校していない。それが彼女の仕業だと疑われる、最も大きな要因だった。
「何なのよ、これ…」
「気持ち悪い。絶対仁科がやったんだよ」
「ねえ清寧、来たらとっちめてやんなきゃ!」
大木さんとその取り巻きが何やら騒いでいる。
元はと言えば彼女達こそが仁科さんいじめの元凶なのだ。この呪いじみた行為の矛先が自分たちに向いていることを実感し始めているのだろう。
「あっ…!」
誰とも言えず声を上げ、それを合図にしたかのように私たちはドアの方を見た。
ゆっくりと開けられたドアをくぐり入ってきたのは、待ち望んでいた彼女。
「みんな、おはようっ」
この上なく晴れ晴れとした顔の、仁科さんだ。
誰も何も言わなかった。仁科さんの狂気的な笑みに圧倒されていたのか、あるいはそれ以外か。
「もうみんな分かってるよね。これ全部、私がやったんだよ。
いじめられるたびに手鏡を買って、紫の絵の具で塗って……こんなに沢山になっちゃった」
足元に転がる鏡を足でかき分けながら、仁科さんは窓に近づいていく。
そしておもむろに窓を開けつつ、言った。
「私あんた達が大嫌い。だからとびっきりのプレゼントをあげるの。受け取ってね」
窓枠に腰をかける。
何人かはこの後のことがもう分かってしまったんだろう、目を見開いて絶句していた。
「ムラサキカガミ、ムラサキカガミ、ムラサキカガミ! みんなこの言葉を忘れないでねぇ!
大木さん、あんたは特別だからね。あんただけは絶対に逃がさない。絶対、絶っ対、地獄に落としてやる。
あはははッ、そんな顔したって無駄だよ。あんたはこの言葉を覚えちゃったからね。もう死ぬしかないんだよ。
ざまあみろ! あはははは、いい気味! ははははははははは!」
哄笑を響かせたまま、彼女の体が窓の外へふっと落ちる。
私は思わず駆け寄って、その様をこの目に焼き付けた。
ぼさぼさの黒髪を振り乱して落ち、固い地面に叩き付けられて、卵のように潰れる仁科さんの死に様を。
私の後に続いて窓に駆け寄った何人かの子は、あまりの無惨さに耐えられず、泣き崩れたり吐きそうになったりしている。
大木さんはと言うと、床に座り込んでうつむいたままだった。
―――狂乱の“紫鏡事件”は、こうして幕を下ろしたのだ。
それから先、私たちは仁科さんの存在など忘れたように口にせず、春の訪れと同時にクラスメートは離れ離れになり、それきり会うこともなくなった。
同窓会の連絡もない。私に内緒で会っているのだろうか、それとも、あの事件のことを想起させる集まりなど、したくはないのだろうか。
ともかく、元クラスメートと一切の繋がりをなくした私に、彼女らのその後など知る由もなかった。
けれど数人だけ、卒業後にもその名を聞いた人たちがいる。
園田さゆりと赤川舞。
彼女らは大木さんの取り巻きの一人で、率先して仁科さんをいじめていた。
二人とも、関西の方で起きた列車事故に巻き込まれたらしく、被害者としてニュースに名前を挙げられていた。
病院に運ばれたものの、手術を待たずして亡くなったらしい。
―――そして、仁科さんの呪いの大本命、大木清寧。
彼女は仁科さんの思惑通りか、火災に遭って死亡という残酷な最期を遂げた。
焼け落ちた材木に逃走経路を阻まれ、生きたまま炎に焼かれるという壮絶な末路をもって。
園田さんと赤川さんと大木さんの死は偶然なのではないと私は思っている。
みんな、二十歳で亡くなっているのだ。
しかも数年前、仁科さんの呪いの言葉を聞いてから。
…彼女の復讐は相成ったのだろう。いじめっ子全員を牙にかけられたかどうかは分からないけれど、少なくとも大木清寧という最も呪うべき人物を、あの世に引きずり込むことができたのだから。
今でも私は、あの時のことを夢に見る。
黒髪を振り乱して落ちながら笑う仁科さん。
鬼の形相のまま墜死する仁科さん。
教室に山と積もった紫色の手鏡。
あの狂的なまでの非日常体験が、私の夢の中を侵食している。
仁科さんは私を逃がすつもりはないのだろう。
二十歳までにその言葉を忘れなかった者を死に誘う、恐るべき呪詛を聞いた私を。
私はもうすぐ二十歳。
もうすぐ、彼女の呪いによって死ぬ時を待つだけの女―――
***
「…冴子ちゃん」
まさか、彼女の死の真相はこれだというのか?
呪いだなんて、今の時代にそんな現象が起こるとでもいうのだろうか。
日記帳を見つめる私の目に、後書きらしき文章が留まった。
『七実ちゃんへ。
日記を読んでくれてありがとう。七実ちゃんとは昔から仲が良かったから、きっと読んでくれると思っていました。
この話は全て本当です。仁科さんという子は確かに存在し、私の目の前で死んでいきました。
ムラサキカガミの呪いを残して…。
私はあんな光景を忘れられるわけがありません。それは大木さんも、クラスのみんなも同じであったと思います。
だから、大木さんたちは死んだのです。彼女らは仁科さんに呪われて、死んだのです。
私も例外ではありません。ムラサキカガミという言葉を忘れられず、死ぬのです。
もしこの話が嘘だと思うのなら、覚えておいて下さい。
“ムラサキカガミ、ムラサキカガミ、ムラサキカガミ”。
あなたが二十歳になった頃、私は嘘を言っていなかったということが分かるでしょう。
最後まで読んでくれて、本当にありがとう。
私はすでに死んでいると思いますが、これだけは言わせてね。
また、七実ちゃんと遊べる日が来ますように。』
私はそっと、日記を閉じた。
冴子ちゃんが死んだ今、彼女の思いを知る術はもうない。
けれど、その人柄の良さははっきりと言える。聡明で、明るくて、会うたびに私を可愛がってくれた。
そんな彼女が、私に呪いを押し付けようとするなんてあるはずがない。
日記にその文言を残し、読ませることによって私までも呪いの餌食にさせようと企んでいたなんて―――あるはずがないのだ。
…こんな邪推をするなんて、冴子ちゃんに対してなんて失礼なんだろう。
この日記は明日にでも伯母に返そう。いつまでも借りていてはいけない、すぐに手元から離さなくては。
“ムラサキカガミ”なんて言葉、覚えていてはダメだ―――。
―――そう思えば思うほど、私の頭には紫色に塗りたくられた手鏡が、それを表す言葉と共にちらついていた。