第9話
その翌日の話だ。俺は午前7時のきっかり五秒前に起床し、そのままいつも通りのルーチンをこなした。昨夜レミーナと約束した予定は夕方だから、このまま予定表に新たな文字を書き入れることがなければ、それまで結構長い空き時間を過ごすことになる。
しかしながら、だらだらと非生産的な時間を消費するわけにも行くまい。俺はとりあえず昼飯のメニューでも決めようかと思い冷蔵庫を開いた。
一人暮らしのため冷蔵庫も小さければその内容物も少ない。作り置きのお茶や要冷蔵の基本的な調味料類は常備してあるものの、今ある食材で昼飯に使えそうなものは、昆布の佃煮とレタスにツナ缶ぐらいであった。昆布は晩飯のお供にするとして、ランチはシーザーサラダで済ませてしまおうか。手間がかからないしそれがいいかもな。となると、主食に焼きたてのパンでも欲しい所だ。サラダだけでは如何せん食べた気がしないだろうからな。
パンは家に買い置きしていなかったので、俺は近所のベーカリーへ行くことにした。目的地は自転車で五分もかからないような距離だから、他のもろもろの食材を調達しにパン屋の二倍近く距離のあるスーパーへ足を伸ばすことを思えば大分楽だ。一応店主が知り合いなので、せっかくの節目だから顔を出しておく必要があるとも思ったしな。
ごく小規模な集合住宅一階のテナントに入っているこの店は、俺の家からかなり近い所にあり店主も知己の人物なのだが、そうであるにも関わらず、今日俺がここを訪れるのはだいたい一ヶ月ぶりのことであった。
俺は歩道に面した店頭で自転車を止めた。スプレーで店名を吹き付けられた小窓付きの、ハンドメイド風味の木製扉に手を掛けたあたりで、店のレジカウンターの向こうにいた俺の友人がこちらに気付いた。
からんからん、とカウベルが鳴った。
「これはこれはフレック坊やじゃないか。やっと来てくれたんだねっ!」
「……前に会ったときも言ったと思うんだが、その坊やというのはいい加減やめてくれないか」
「いいじゃん別に。フレックも私のこと、おねえちゃんって呼んでいいんだよ? よ?」
「嫌だね」
「なんだよ、もうすっかり大人の顔になっちまってさあ。昔は超絶かわいかったのになー、どうしてこうなったんだろうなあ」
「俺も成長するということだ」
調理用っぽい白衣を身に付け首に赤と紺のギンガムチェック模様のバンダナを巻き、短いコック帽みたいなのを被った天衣無縫そうな女性。俺を視認した彼女は表情筋のほぼすべてを無意識的に駆使してけらけらと快活に笑いこけ、レジカウンターから身を乗り出して俺を弄りにかかり、俺の一挙一投足に応じてころころと表情を変えた。
物心ついた頃からの付き合いであり、それなりに仲もいいのだが、にも関わらず俺が彼女のもとへの訪問を不必要に多くしてこなかったのは、なんというかこう、彼女と話すとエネルギーを消費するからだ。
賑やかなのが嫌いという訳ではないがどちらかと言えば穏やかな会話を好む俺にとって、恒常的に広角筋が上がっているような彼女のテンションに長時間ついていくのはちと荷が重い。加えて彼女は未だ、会うたびに俺のことを子供扱いしてくるのである。困ったもんだ。
俺はトレイとトングを持ち、サラダによく合いそうなベーグルに目を付けて、店頭に面した一面ガラス張りのほうの商品棚と向かいあって品定めを始めた。
「どうしてもっと来てくれないんだよ。レベッカ姉さんはずっとさみしい思いをしているんですよ?」
「別にどうということもないさ。俺がここの商品を必要とする時にはちゃんと来ているしな」
「少ない」
どれが一番焼き色がいいかについての個人的判定が終わり、選定したものをトレイに運んだタイミングで、俺は右側のレジカウンターに首をひねり、それから靴の爪先を向けた。
「そうか? 月に一度は来ているはずだが」
「それが少ないっていってるんだよ。近所なんだからさ、せめて週3ぐらいが普通だと思わない? あと買うのそれだけ?もうちょっと買っていきなよ。特別に安くしとくよ」
「そんな頻繁にパン屋に用がないだけだ。……まあそうだな、じゃあ他にも何か貰おうか」
俺は中央のシマに並ぶ多岐に渡るデコレーションを施されたパン達に目を移した。酵母の香ばしい匂いに混じった砂糖やチョコレートの甘い香りが存分に鼻腔へ足跡を残して肺を埋め尽くした。この辺はランチには食べられそうにない。だが安くしてくれると言っていることだし、レミーナへの謝礼として何か買っていこうか。
俺はケーキみたいに洒落た菓子パン類を吟味しながら、
「もう知っているかもしれないが、最近飛躍的な昇進が決まってな。買い物の用もあったし、そんなんでも一応世話になった人ではあるから、この機に顔を出しておこうと思ったんだ」
「今何かものすごく傷つくことを言われた気がするけどまあいいや、おめでとさん弟よ!」
弟じゃないんだが、そんなことはお互い分かっているので言わないことにした。
「子供の頃は喋るのも億劫だったあのフレックがねえ……! いやあ、よく成長したよ」
「やめてくれよ、小さい頃の話は。レベッカにだって思い出したくない時期があるだろう?」
「私? あるかなあ、そんなの。まあいいや、とにかくすごいじゃん! まだ入ってすぐなんでしょ?」
聞いた状況からして怪しいなどと思わずに、素直に俺の昇格だけを祝ってくれる彼女を見ていると、自分の価値観とは北極と南極ほど違う感覚であるから少々不思議さを覚えるが、これもまた、特に今のような場合には素晴らしい特性なのかもしれない。どのみちもう彼女のリアクションには慣れているから、対する返し刀の技にも手垢が付いているんだがな。
「一応な。いろいろキナ臭い話だと思ったんだが、報酬がいいんで受けることにした」
俺はレミーナに買っていくことに決めた名称のよくわからないパンを二つトレイに取り、話し相手が待機するレジカウンターまで歩を進めた。
「多分大丈夫だよ、なんとかなるって」
白く広い額に照明を反射させ、天真爛漫な笑顔で会計を始めた彼女を何の気なしに眺めていたとき、明日から己の身に降りかかる謎スケジュールのことがふと俺の脳裏に浮かんだ。まあ当たり前だわな、と思わんでもない。
一体どんなことが始まるんだか。今は身構えることしかできないのが歯がゆいが、まあそれもやろうと思えばこちらからニュークポッドに連絡を取ること自体は可能だったのに、その難儀さを予測して重い腰を上げなかった自分の責任といえばそうなんだよな、と思い直し、財布を取り出してレベッカに代金を支払った。
「毎度ー! また近いうちにきなよ! 姉さんいつでも待ってるからさ」
「来れたらな」
その言葉は誤魔化しなどではなく、もっと現実的な話であった。多分忙しくなる。
からんからん、と二度目のカウベルを鳴らして、俺は店を出た。
レベッカ・ベイリー。賑やかさでは実の弟を越えるかもしれない、俺の姉代わりだ。