第5話
大男ではなかったが、結果から言ってその夜、俺の周囲に異変が起きはじめたのは確かだった。
仕事鞄を片付けたらキッチンのソーサーでコーヒーを淹れ、リビングの小ぶりな丸テーブルまで運んできて、ソファに座って伸びをする。俺にとって最上級な癒しの時間だ。なにしろ役所の照明は陰湿な方向に薄暗いし、絶え間なく続く蛍光灯の振動音とデスクでPCの作業をしている同僚のタイピング音がまるで蝿の羽音みたいな心的作用を与えてくるので、リラックスなんて出来たものじゃない。それに比べて自宅のなんと心休まることか。一人暮らしだからこそ言えることかもしれないが、これほど自由の効く空間はない。帰る家があるというのはまこと素晴らしいことだ。
「ふう」
カップを口に運び、小さくため息をつく。コーヒーが俺の体を内側から温めてゆく。目を閉じると、数人の天使が現れてどこか幸せな所へ連れていかれるかのような快さを覚えた。ソファが背面を覆う安心感は、慈しみ溢れる母親の肌のそれと同じな気がした。
そんなひと時を妬むかのように俺のプライベートな休息を断ち切る音がした。呼び鈴だ。まったく、こんな時間に何だというのだ? 夜の10時だぞ。
居留守を使う手も考えたが、それで二度も三度もベルを鳴らされたりしたらそっちのほうが不快だろうと思い、仕方がないので応じることにして、俺は大きな溜め息とともにソファから立ち上がった。
玄関を開けると、スーツ姿の男が二人立っていた。警察か?
「どうされました」
俺が訊ねると、やや背の低い太った壮年の男のほうがなぜか真剣な顔で俺を見つめて言った。
「フレック・エイムズさんですね?」
俺はさらに怪しさを感じた。何故俺は名前の確認などされねばならないのだ。善良な一市民として事件事故への証言を求められたのなら応じるのもやぶさかではないが、当事者として扱われているのが他でもない俺であるとは一体何の間違いだ? 俺は法に触れた覚えなんて無いし、あんたらが警察ではない別の組織の人間だとしたって、こんなカチカチな服装のおっさん達のお世話になるようなことは一切合切しでかしていないはずだ。
「はい、そうですが」
大量の疑問を頭に湛えながらも、いちおう答える。すると彼らは顔を見合わせて「やはり……」とか何とか相談を始めた。待って待って、怖いんだけど。俺なんかした? 無意識に銀行襲ったりとかしてたの?
話し合いが一段落したようで、今度は、さっき名前を確認してきた方よりは若く見える体格のいい男が、こちらに向き直って、やっぱり真面目な顔をして俺にこう告げた。
「申し遅れました。我々、ニュークポッド市役所から派遣され参った者です」
ニュークポッド市。ここからそう遠くないところにある市で、バカみたいに規模がでかい。で、さらに言うと、ニュークポッドはこの国の首都の役割を果たしている場所だ。そこの市役所というのは、わが国の全ての市役所のなかで頭一つ抜きん出た権威ある組織である。
だが、なぜだ?
疑問は解消されない。それどころか今、ニュークポッド市役所の名前が出たことでむしろ膨らんだ。わけが分からん。
「ご自覚がおありか存じ上げませんが、あなたは、国家公務員採用試験を首席で通過されました」
「……そうなんですか」
税務署に入るために受けた試験だ、もう半年ほど前になるだろうか。それにしても首席とはな、驚きだ。手応えはあったが、まさかそのような好成績を得ていたとは予想していなかった。基本的に合格したか否かが重要だったし、採用試験の順位など明かされる訳がないと思っていたので、ほとんど気にしておらず、今も虚を突かれたかたちになっている。そりゃあ嬉しいが、知らされてどうしろというのか。あるいは、わざわざこんな時間に、既に試験の日程から結構な月日が流れているのに、それを伝えるためだけに、こんな郊外まで眠気を殺してやってきたというのか。お疲れさん。アホらしい仕事を任されてお宅も大変ですね。
「光栄なことですが、それがどうかされましたか?」
段々面倒くさくなってきて、早く帰ってくださいオーラを出しながら訊ねると、
「我々の仕事に、協力して頂きたい」
俺はまず自分の耳を疑い、それから頭を疑い、右手で支えているドアの感触を疑った。何を言い出すんだ彼らは?常識はずれにも程がある。この話にはどんな裏があるのだ?
早急に回れ右してソファに縋り付きたくなった。