1-6・信じる力って言ったって
泣いていたのは多分数分。あたしは起き上がった。顔中涙でべとべとして気持ち悪い。洗面所に行って冷たい水でじゃぶじゃぶ顔を洗うと、すっきりして気持ちが落ち着いた。そう、泣いてる場合じゃない。こうしてる間にもミズキは大変な目に遭ってるかも知れないんだ。落ち着いて、あたしに出来る事を考えよう。あたしは銅色の月光鏡を眺める。月光鏡についてママが言ってた事で何か、今の状況に役に立つ事はなかっただろうか?
『月光鏡を使うには、月の角度とか色々な制約があるんだけど、一番大事な事があるのよ』
いつだったか、言ってた気がする。なんだっけ……その時は、一人で月光鏡を使う時が来るのはずっとずっと先だと思っていたから、あまり意識してなかった。すごく単純な事だった気がするんだけど……! あたしは月光鏡を見つめながら、もどかしい思いで記憶を探った。すぐには思い出せなかったけど、運命の導きというヤツか、数分考えていると、不意に、すっかり忘れていたママの言葉とその時の表情が脳裏に鮮明に浮かび上がった。
『信じる事。信じる力が何より大事なの。こちらと違って、あちらの世界ではそういう精神の強い力が、色んな事に物理的な影響を与えるの』
……そうだぁ! 確かにママは言ってたっ! とても真剣な顔でそう言ってた。もしも他の大人が真面目な顔で「信じる力が何より大事」なんて言ったって、精神論だけじゃ渡っていけないよとか思ったりするかも知れないけど、何しろ、あたし達の常識の通じない力を持つ人間のいる異世界との通信の話なんだから、精神の力が大事と言われれば、そうに決まってると素直に思える。
信じる力……そう、呟いてみて、あたしは深い溜息をついた。そうだ、たった今あたしはミナトの信じる力をぶち壊しにしてしまったところだったんだ。実は前にも似たような事があった。ミズキが事故に遭ってすぐの頃、意識が戻らない事で思わず、「パパの世界の巫女さんがいたらなぁ」なんて言ってしまったのだ。ママに、何とかならないのと言ったところ、「医学にも限界がある。パパの世界だったら違うやり方があるのかも知れないけど」なんて哀しそうに言われたので、つい。ミナトは「ヒミの妄想で助かるものならとっくに助かってる!」と、もの凄い剣幕で怒っちゃって、一週間口をきいてくれなかった。あの頃は、今よりずっとみんな神経が高ぶっていたし、「いくら何でもちょっと無神経すぎない?」 とアスカにまで言われてしまって、あたしはあたしで、一生懸命ミズキの回復を祈って洩れてしまった言葉だっただけに、滅茶苦茶に傷ついたり自己嫌悪に陥ったり、色々大変だった。あたしのあまりの落ち込みようを見て、アスカとリョータとマコちゃんが「ヒミも悪気はなかったから」とミナトを説得してくれて、何とか怒りは収まったんだった。あーあ、それなのに……。
普段はあたしがパパの世界の事に触れても、ミナトは聞き流している。まさに、「ヒミがそう思うんなら、それでいいんじゃね……」と言ったあの小6の時と変わらぬスタンスなのだろう。あの時は、ミナトはあたしの話を信じてくれたんだ、と思って嬉しかったけど、要するに、「まあ腐れ縁の友達だから少しおかしいところがあっても我慢してやろうぜ」という意味だったのだと徐々に解ってしまったのだ。しかし、ことがミズキに関わるとヤツは豹変する。これは事故から始まった事ではなく、元々シスコンなのである。昔から、ちょっとでもミズキを苛めた子は、誰のせいかは判らないような陰湿なやり方で復讐されていた。そして表では笑顔でその子を助けて感謝され、ミズキに手が出せなくしてしまう。これがミナトのやり方なのだ。
……まあ、そんな事は今はいい。それよりもミズキを助けなければ。病院でそのままの状態でいるのなら、精神だけが向こうの世界に行っているという事になる。何故、そしてどんな状況なんだろう。いてもたってもいられなくて、何度もママの携帯にかけるけどやはり出ない。とうとう、病院の方にかけてみた。
『日向先生? まだ手術は終わりそうにないけど。夜中になるのは多分確実』
電話口に出た当直の先生は顔見知りで、何かどうしても急な用事なら伝えようか、と言ってくれたけど、用事を言える訳もなく、お礼を言って電話を切るしかなかった。
(信じる力、信じる力……)
あたしは月光鏡に向かって一生懸命念じてみる。が、ムカつく程に反応はない。一応、帝の娘だってのに、なんだってぴかっとも反応しない訳?
次に思いついたのは、アスカに頼る事だった。アスカはいつだってあたしよりも冷静な判断を出せる。勿論、異世界の事は信じていないから、さっきのようなへまはせずにうまく言いくるめて、とにかくここに来て欲しい。アスカのケータイにかける。
『なんか用?』
「アスカ、今何してんの?」
『塾帰り。兄貴が迎えに来るのを待ってるとこだけど』
あたしがじたばたしてる間に、時間は22時を過ぎていた。アスカは塾に、大学生のお兄ちゃんに車で迎えに来て貰う時間だった。
「ね、ちょっとあたしんちに寄れない?」
『なんでよ、こんな時間に。うち、親がうるさいの解ってるでしょ。ヒミんちはお母さんは?』
そうなのだ、アスカの家は門限が厳しいというか、夜に塾以外で出歩くなんて以ての外、という家庭。あたしだって夜遊びなんか無縁だし、うちのグループ(天部)はみんなそんな感じなんだけども。成績優秀、品行方正。別に意識している訳じゃないし、ママも厳しく言う訳じゃないけど、チャラい恰好して遅くに出歩くなんて、あたしの好みではないだけ。だけどとにかく、アスカにここに来て欲しい。
「うちのママは急患オペでいないんだよ。ちょっとさ、どうしても相談したい事があって。お兄さんに頼んで寄ってもらえない?」
『兄貴も早く帰りたがるんだけどね……電話やメールじゃ駄目な訳、その相談? 帰ってからならいくらも聞くけど』
アスカは渋っている。
「ここに来て欲しいんだよ。理由は来てくれたら話すから!」
電話で言えば、またさっきの二の舞になる危険がある。アスカは暫く考えていたけど、
『わかったよ。補習の勉強を一時間一緒にやる約束してる事にしてみる。あんたがそこまでお願いをするには、それなりの訳がある時だからね』
と言ってくれた!