閑話その2
午後に差し掛かり、徐々に日の傾き始めた室内。薄く音を立て、捲られる頁。手元から伝わる温もりと、香ばしい芳香。香る紙の匂い。彼の匂い。
私は、この瞬間が好きだった。
手元の本に視線を落とし、彼は朗々と語りを紡ぐ。急がず、焦らず、ゆっくりと、読み聞かせである事を意識して、一つ一つの言葉を噛み締めるようにして、彼はそれを続けていた。
今眼前に聳え立つのは、難攻不落の魔城。そこに挑むは救国の英雄。この世界を支配せんとする邪悪な魔王を打ち倒し、囚われの身となった姫を救い出す。細かい部分は忘れたけれど、確か物語の大筋はこうだったはずだ。有体に言ってしまえば、それは子供向けのベタな冒険小説だった。
窓から差し込む透き通った光は静かに私達を照らし、その陰影をくっきりと浮かび上がらせている。今この場所にいるのは彼と私だけで、まるで、これからもずっと、永遠に、この穏やかな時が続いていくかのような。
そんな錯覚。
でもそれは錯覚。
床に伸びる細長い影は、無情にも時の流れを見せ付けていた。
「…ああ」
もっと彼の声を聞いていたい。
もっと彼の笑顔を見ていたい。
触れたい、感じたい、心の内を共有したい。
彼と一緒にいたい。
「ん? 何か言った?」
「…何でもない。続けて」
きっと永遠ではないこの世界で。
私は、彼との永遠を祈る。
◆◆◆◆◆
「…ふぁ」
漏れ出る欠伸を噛み殺して、私はまた頁を捲った。
豊かな実りを齎した秋も既に通り過ぎ、季節は冬へと移ろうとしていた。夏の間は若々しい緑を湛えていた木々はを次第に枯葉を落とし、野山の動物達は各々に冬篭りの準備を進めている。四季が存在する地域では毎年のように見られる光景は、今年も変わらずその姿を現していた。
「…寒い」
頁を捲る際にずれてしまった布団から進入してくる冷気は、プツプツと私の肌を鳥肌へと変えていく。不快な外気から逃げるように、私は布団を肩まで掛け直した。
窓の外は夜の闇が支配している。村は静まり返り、今が人間の活動する時間帯では無い事を雄弁に示していた。
さて、そんな時間まで一体私が何をしているのかだが。
別段詳しく説明する必要も無い。単なる夜更かしである。最近手に入った話題の長編恋愛小説。その新刊をベッドの上で読み耽っている真っ最中だった。
机の上では、ランプが室内を煌々と照ら続けている。両親が見れば勿体無いと怒るかもしれないが、今だけは許して欲しかった。何しろ、物語は佳境に差し掛かっている。
「…へっくし」
寒さに負けたのか、小さなくしゃみまで漏れた。しかし、頁を捲る手は一切止めない。何かに突き動かされるようにして、私は物語を読み進める。
話自体に物珍しさがある訳ではない。むしろ逆だ。一人の貴族の男性を二人の女性が取り合う、複雑な三角関係を描いた、どちらかと言えばベタな部類の物語だ。私は、意外にも(らしい)こういった王道の物語を好みとしていた。朴念仁のテッドなどに言わせれば「架空の登場人物達の恋愛など見ていてつまらない」らしいが、アイツは脳みその中身が『冒険』の二文字で埋まってしまっている完璧な脳筋人間だ。行間を読む、などという事も苦手としているに違いない。確かにそういう人間にとっては、回りくどい恋愛模様は飽き飽きとするだけなのだろう。まったく。
今私の頭の中では、二人の女性が花畑の中心にいる男性と向かい合っている。二人は共に思いつめた表情をしていて、男性が口を開く時を今か今かと待ち構えている。男性は、何かを決心したかのように口を開いたかと思えば、また閉じる事を何度も何度も繰り返している。優柔不断なせいで彼女達を散々振り回してきた彼は、この期に及んでまだ踏ん切りがつかないようだった。
(…ヘタレ男!)
イライラと読み進めるが、話は男性の葛藤からなかなか先に進まない。綿密な心理描写は確かに素晴らしかったのたが、彼の最後の決断を知るまでは眠れる気がしなかった。
彼の…
(…っ)
チクリと、思い出したように胸が痛んだ。
それに気が付かない振りをして、再びずり落ちた布団を直す手間すら惜しみ、私は時間の許すまま、ひたすらに頁を捲り続けていた。
◆◆◆◆◆
「で、その結果がこれな訳だ」
「……」
私は憮然とした顔をしている事だろう。尤も、笑顔を浮かべられるような状態でもないので、ある意味正しいのだが。
体が熱く、骨の節々がジクジクと痛む。息は苦しいし、声と共に口から出るのは激しい咳だ。全身を襲う倦怠感は、ある一つの事実を私に伝えていた。
「風邪、だな」
「…こほっ」
当然と言えば当然だが、無茶な格好で読書を続けていた私は、見事に体調を崩していたのだった。
「やれやれ。何もわざわざ主人公の後を追う事はないだろうに」
「…別に、関係、ない」
ムッとなって言い返すが、声に覇気は無い。それだけの気力も無かったし、それは事実だったからだ。
…そうだ、そうなのだ…! 事実なのだ!
体が重くなっている事を感じながらも、頁を捲り続けた私が辿り着いた結末。それは「実は風邪を引いていた主人公が熱で倒れうやむやになる。」というものだったのだ!
(…信じられない)
唖然として慌てて読んだあとがきには「売り上げが良かったのでもう少しシリーズを続けさせてもらえる事になった。期待させていた方には申し訳ない。」というような事が書いてあった。単純にシリーズが続刊する事は喜ばしいが、あまりと言えばあまりな結末に、私はベッドに倒れこんでしまったのであった。
「事実だけ抜き出せば、もはや読書狂だね。世の中には『主人公』になり切るために、その主人公の生い立ちや趣味特技なんかを追いかける人間がいるらしいけど、風邪まで引く人間はなかなかいないだろう」
「…なによ」
「反省しろって事さ」
いつもより少しだけ厳しい口調で、彼はそう言った。渋面を濃くしつつも頷いた私に苦笑を返し、
「…ん」
そっとその掌を私の額へと伸ばした。
暖かくしているとは言っても、季節が季節だ。冷たい室内の空気に晒された彼の手は、私の体温のせいもあって、とてもひんやりとしていて。
(…気持ちいい)
そう感じると、まるで彼の手を通して私の熱が移っていくかのように、体の痛みが和らいだ気がした。
…我ながら現金なものだ。父や母では、きっとこうはならなかったに違いない。
「幸い熱は高くない。暖かくして薬を飲めば、回復するのにそれほど時間は掛からないだろ」
「…あ」
体温の確認が済んだからか、彼はその手を額から離した。
…少しだけ寂しいと感じたのは、私の勘違いではないだろう。
「今シェリーがお医者様の所で薬湯を作ってる。間違いなく苦いだろうけど、我慢して飲んで、それで大人しく寝る事。間違っても「主人公のヘタレ!」とか、もっと直接的に「主人公死ね!」とか、そんな事は考えないの。ただでさえ熱があるんだから、これ以上頭に血を上らせると顔が茹で上がるぞ。病人は病人の仕事を全うする事。いい?」
「…りょーかい」
薬湯のあの苦味を思い出すと、今から憂鬱な気分になってくる。しかし、完全に自業自得だ。甘んじて受け入れなければなるまい。後悔先に立たずだ。
…そういえば、カイルの口からテッドの名前は出てこなかった。まぁ、それもそのはずだ。
なにしろ、アイツはもうこの村にはいないから。
…と言うと、何だかアイツが死んでしまったようにも聞こえるが、勿論そうではない。むしろアイツにとってはおめでたい話だ。
そう。
成人の儀を一ヶ月先に控えたある春の日。アイツはついにケイト叔父さんを破った。
叔父さんの剣を剣腹で滑らせるようにいなし、その喉元に剣を突き付けたのだ。偶然その現場を目撃していた私とシェリーには正直何が起こったのか全く分からなかったが、驚く叔父さん、勝ったにもかかわらず首を傾げるテッド、そして笑うカイルの顔が三者三様で印象的だった。
その理由は成人の儀で判明する。
村の中心にある広場で行われた成人の儀。そのイベントの一つである魔力測定。普段は村長さんの家で大事に保管されている魔力測定器の水晶が導き出した結論。
量こそ少なかったが、テッドの体には魔力が宿っていたのだ。
成人の儀を一つの目標として修行を続けていたテッドは、後の無い状況に神経を極限まで研ぎ澄ませ、無意識のうちに魔力を行使して肉体を強化していた…らしい。らしい…というのは、そう言ったのがカイルだったからだ。
単なる書物の中の知識にしては、いやに自身ありげだった彼。
彼も自分の夢を叶える目処が立っている。恐らくそういう事なのだろう。
残念ながら、テッドは冒険者になる事を両親と約束していたので、村の多くの住人が期待するように魔法学校に通う事はなかった。それでも、微量とはいえ魔力持ちの彼は、他人には無い大きなアドバンテージを得た。村を出て行くまでに、こそこそとカイルと何かをやっていたのも知っている。案外、テッドの名がこの村まで聞こえてくる事も
本当にあるのかもしれない。いや、それはさすがに幼馴染の贔屓目か。
きっとアイツは、今頃王都の空の下を闊歩しているのだろう。あるいは、低級モンスターを前に嬉々として大立ち回りをしているのか。どちらにしても、まっこと羨ましい脳筋だった。
◆◆◆◆◆
「よし、全部飲んだな。後は睡眠だけだ。何度も言うけど、今は体を治す事だけを考えろよ。考えるのも本を読むのも、ミラのその体なんだから」
私が薬湯を飲み干す所をたっぷりと見届けて、カイルは部屋の扉に向かう。これから体を休める私のために、部屋を出て行くつもりなのだろう。
それを私は、
「…待って」
「ん?」
取っ手に手を掛けたところで呼び止めた。
「…一つ、お願いがあるの」
「お願い? なんだ、汗で気持ち悪いのかい?」
ベッドの傍まで戻ってきてくれた彼に、私は顔の向きで机上の物を示す。例の小説だ。
「…読んで」
「…あのさ、ミラ。心を鬼にして言わせてもらうけど」
「…読んだはずなのに忘れてしまって、気になって仕方が無い場所があるの。このままじゃ眠れない」
「そんな事言われても…」
「…お願い」
「…うっ」
ちょっとたじろぐカイル。ベッドの上から私が上目遣いで見上げたせいだろう。どうしたものかとしばし視線を彷徨わせている様子だったが、やがて根負けしたのか、
「はぁ…。ホント、ミラもシェリーもさ。そういうの、どこで覚えてくるんだ?」
盛大に溜息を吐きつつも、ベッドの端へと腰掛けてくれた。
「…磨けば光る武器なら、磨かなきゃ損だって」
「…誰が?」
「…お母様」
「家の、でしょ。もう…」
文句を言いつつも笑っている辺り、やはり親子仲は良いのだなと思う。
「どこから?」
本を開きつつ、手短に彼は聞いてくる。「どこから読めばいいのか?」という意味だろう。
読んで欲しいページは、呼び止めたときから決めている。
「…422頁から3頁ほど。たぶん栞が挟んである」
「繰り返し読んでる場所でもあるのか? それにしては忘れてるみたいだけど。まぁ、風邪引きだし仕方無いか…あった。告白の山場のシーンか」
「…そういえば、知ってるのね、このお話」
「読んだからね」
「…意外」
「君がテッドのように英雄譚に目を輝かせてるよりは普通だよ」
「…失礼。面白い話は面白い。」
「そういう事だよ、俺もね。うわ、久しぶりだなぁ、ミラにこうして読み聞かせをするの。一人で文字を読めるようになってからはやってなかったもんなぁ」
「…別に、やめてくれなんて私は一言も言ってないけど」
「ん? 何か言った?」
「…いいえ、お願い」
「はいはい」
彼は一呼吸だけ間を置き、頁に視線を落とす。その手が紙に触れる音がしたとき、私の意識はあの頃へと戻っていた。
『彼はその赤い相貌に、困惑と葛藤、そして決意と逡巡とを繰り返し浮かべ、その身を苦悶に呻く様に捩じらせる。居場所を探して体を走り回る腕は、彼を縛る茨の蔓のにも見えた。』
(…ああ)
そうだ、確かに覚えている。あの時もこんな気持ちだった。
優しく耳に染み込む彼の声が、私の心へとストンと落ちてくる。それは物語を届け、同時に彼という存在を強烈に私に刻み付けるのだ、彼が文字を追うごとに、その碑は深く、大きくなっていく。何故そうなるのかも分からぬまま。
それは、きっとそういうものなのだろう。
当然だが、私達はあの頃とまるっきり一緒という訳ではない。若干の幼さを残してはいるが、彼は確かに大人の男性へと近づいている。勿論私も。
でも、思いやりに溢れた彼の声の調子は、
この瞬間に感じる想いは、今も昔も変わらず同じだった。
(…ううん、より強くなっているかもしれない)
それが嬉しい。
刺さる棘は、私に“彼女”を思い出させるけど。
今この瞬間が、私はたまらなく嬉しかった。
だから、
ほんの少し。
ほんの少しだけ、勇気を出してみる事にした。
私はこの本の主人公とは違うから。
(私は“私”だから)
「・・・ねぇ、カイル」
私は、
「喉元までせり上がった言葉は、彼の…って、どうした? もういいのか?」
「好きよ」
そう、いつもと何も変わらない口調で、言った。
「……」
変化無し、小細工無しの剛速球。不意打ち気味にド真ん中。
(ふふっ、ごめんなさい)
そのときの彼の顔は、私だけの思い出にさせてもらおう。
「…その本」
「…あ、あぁ、そうか。良かったな、それは。うん」
一体何を考えていたのか。私が言った事を理解するまで数秒、油を指したばかりの歯車のように、彼はぎこちなく動き出した。その普段の彼には無い滑稽さが、また私の笑いを誘うのだった。
事ここに至って、やっと自分がからかわれた事に気がついたのか、彼は珍しく唇を尖らせる。
「…性質が悪いぞ。本気にしたらどうするんだ」
「…そのときはそのとき」
「責任取れよ」
「…男の甲斐性」
「あー…ずるいよな、ホント。そこで最強の武器を抜くんだから」
「…革命でも起こす?」
「『甲斐性革命』ね。良いネーミングだ。後世まで語り継がれるだろ。そのくだらなさで」
やれやれと首を振り、彼は本を閉じる。
「約束はここまで。体に障るし、続きは明日な」
そうキッパリと言うと、本を机の上に戻し、扉に向かって歩き出す。今度こそ、何を言われても退室するつもりなのだろう。我が侭は聞きません、とその背中が語っていた。
…そうだ。
一つ…もう一つだけ言いたい事があった。
その背中に、私は再度声を掛けた。
「…カイル」
「明日」
「…違うの。聞いて」
私の声の調子が、さっきよりずっと真剣だったからだろう。彼は足を止めて振り向いた。
「…なんだ?」
「…夢の話」
「夢?」
「…いつかの川原。皆で話した、夢の話」
「…あぁ、あったな。懐かしいよ」
「…私だけ言ってなかった」
「眠ったまま川に落ちたからな」
「…それは忘れて」
「4人纏めてびしょ濡れになった記憶を、頭から消し去るのは難しいぞ」
「…忘れて」
「はいはい。ほい、忘れたよ。で?」
「…小説が書きたい」
「……」
何も言わず、彼は私の次の言葉を待っている。呼び止めたのは私だ。正直に聞かせよう。飾り気無しのこの気持ちを。
「…本が好きだから。それだけだけど」
そう、それだけ。本当にそれだけ。
それだけで、他には理由が無くて。
夢を光り輝くものにするには、それで十分だった。
「…まだ何を書くかも決めてない。そもそもまともな文章が書けるのかも分からない。でも、色んな事を見聞きして、体験して、いつか自分の書きたいものを見つけたら、私はそれを本にしたい」
私達も来年には成人を向かえる。恐らくだが、彼はこの村を出て王都の魔法学校に行くはずだ。何事も無ければ、離れ離れになる可能性が高い。
だからとは言わないが、彼には聞いて欲しかった。嘘偽りの無い、私の夢を。
(……)
…少し気を張っていたようだ。
だから気付けなかったのだろう。
「…いいね」
「…っあ」
彼の顔が、いつの間にか私の目の前にあった事に。
「単純で、分かりやすくて、だからこそ説得力がある。人が何かを成すのに、複雑で特別な理由は必要ない。目的と同じくらい、それは明確な方がいいのさ。それに…」
彼の目は、しっかりと私を捉えている。それはある種の強制力さえ感じさせて、私の目も彼に縫い付けさせた。
「俺もその方が好きだ」
笑った。
「…………………」
私が放心していたのは、時間にして10セクもないぐらいだっただろう。
沈黙に耐えかねたのか、彼が私に聞いてきたから。
「…ミラ? どうしたんだ?」
「…あ」
その瞬間に溶けた。
解けた。
理解した。
この惚けた声で確信した。
今までずっと感じていた事だが、間違いない。
何と言うことか。
この男、自分がどういう表情をしていたのかを分かっていない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)!
信じられない。こいつは私などよりもずっと性質が悪い部類の人間だ。
つまり、
天然なのだ、こいつは。
(…もう…もう!)
生まれて初めてかもしれない。風邪を引いていて良かったと思えたのは。
この顔の火照りは、熱のせいだけではないだろうから。
「ミ、ミラ? どうした? やっぱり調子が悪くなったのか?」
沈黙し続ける私に不穏なものを感じたのか、天然男は段々と慌て始めていた。しかし、私は何も言わない。今のこいつにはそれぐらいしてやりたかったのだ。
せいぜい苦労するといいだろう。女の敵め。
次からは本筋に戻る予定です。