2話
「今日は少し遠出をしようと思うんだ。」
いつもの朝食の席で、俺は両親にそう切り出していた。
あの謎の女性…スイさんとの邂逅から数日。しばらく悩んでいた俺だったが、結局気になって仕方が無かったので、彼女の言うとおりに湖に行くことを決めたのだ。
いつもとは様子の違う俺の言葉を聞いた両親は、お互いに顔を見合わせた後、同時にニッコリと笑った。
「いいわね、ピクニックかしら? お天気もいいし、お友達を誘っていってらっしゃい。お弁当は必要?」
「うむ、本を読むのもいいが、しっかりと体も動かさないとな! 行くのはブラゼド山か? それ以外の場所に行くのなら、誰か大人が付いていないと駄目だぞ。」
二人とも、普段はあまり自分から動かない俺が言い出したことを喜んでいるようだった。
父と母…シンディとケイトは、村でパン屋を営んでいる夫婦だ。捏ねたり焼いたりといった力を使う仕事は父が。形を作ったり味付けをしたりという、実際のパンの形に仕上げるのは母が、それぞれ行っている。
母シンディは、毛先をカールさせたふわふわの栗毛を揺らし、髪と同じ栗色の瞳をした、どこか童顔で幼く見える人だった。背が低く、父と並ぶと凸凹としているが、大きな胸は彼女が大人の女性であることをしっかりと主張している。…が、さすがにそろそろ40に手が届くと言っても、信じる人間はいないだろう。父がロリ…年下趣味だと言われるのも仕方が無い。
父ケイトは、赤に近い濃い茶色の髪に、母よりも濃い茶色の目持つ彫りの深い顔立ちで、テッドが成長したらこんな顔になるんじゃないかと、俺はひそかに想像している。鼻の下には整えられた口ひげがあり、こちらは40という齢と合致しているといってよかった。背は190センチ…この世界の単位で言えば190メル程度で、今の俺からすれば見上げるような高さだ。冒険者を辞めたとはいえ、生地を捏ねる力のために日々の鍛錬は続けており、その肉体はガッシリと引き締まっている。興味があったので、空いた時間にテッドと共に剣術の指南をしてもらっているが、さすがにまだ歯が立たない。いつかは一本を取ってやるつもりだ。
両方、前の世界と全くと言っていいほど同じ顔をしている自分とは、人種レベルで顔立ちが違った。狭い村の中、隠し通せる事ではないとして、捨て子であったことは既に聞かされている。薄々気が付いていたことではあったし、血は繋がっていなくとも俺は両親を家族として愛していた。
さて、今は両親を心配させないように、適当な理由を言わなくては。
「大丈夫だよ父さん。行くつもりだったのはブラゼド山だから。後、遊びと野草の採取が目的だから、お昼は果物でも探してみるよ。あ、貴重な野草は見つけても摘まないから安心して。」
「あらそう?残念だわ…。」
「美味しいご飯は夕食のときにお願い。うんとお腹を空かして帰るから…って、あはは、朝食を食べながら夕食の話をしてちゃいけないよね。うん、ご馳走様。」
「ははっ、食い意地は俺譲りだな。危険なことは少ないと思うが、気をつけて行って来いよ。」
「暗くなる前には帰りなさいね。」
「分かってるって。それじゃ、行ってきます。」
愛用の鞄を持った俺は、両親に見送られながらブラゼド山まで出発した。
◆◆◆◆◆
「あの子も明るくなったわね。突然塞ぎ込んでしまったときはどうしようかと思ったけれど。」
「男は悩んで大きくなるもんだ。あいつは一人でも答えを出せる。俺達は押しつぶされないように見守るだけでいい。」
「そうね…。」
息子が走って行ったほうを見つめて遠い目をしたシンディは、真剣な表情で夫の顔を見た。
「ねぇ、あなた。」
「なんだ?」
「私達は、親としてあの子の為に何かをしてあげられているのかしら?」
「……」
ケイトは目を瞑って顎に手を当てた。彼が黙考をするときのお決まりのポーズだった。
「あの子は間違いなく天才よ。村の大人たちでさえ文字が読める人は少ないのに、あの子はあの年で本まで読んでる。それも子供向けの絵本なんかじゃないわ。村長さんでさえ匙を投げた魔術の学術書よ。」
「…そうだな。」
ケイトは頷いた。それは周知の事実だった。
「それは…勿論誇りに思ってはいるわ。血が繋がっていないとはいえ、素直で真っ直ぐな良い子ですしね。」
そこでシンディは一旦言葉を区切る。躊躇うように、ゆっくりと続きを話しだした。
「でも、でもね。あの子は聡過ぎるの。私達が何かをしなくても、自分だけで何とか片付けようとしてしまう。そして、片付けることができてしまう。」
話し続けるうちに、次第にシンディは泣きそうな顔になっていった。ケイトは静かにシンディの話を聞き続けている。
「私は、あの子に実の息子と変わらない愛情を注いできたつもりよ。母親としてできることなら何でもしてあげるつもりだった。でも、それをあの子が必要としていないなら…親として何もできないなら、私はあの子の何?」
それは、手のかかる子供とは違う、手のかからない子供を持ったからこその、親としての悩みだった。
「俺は…」
それまでずっと話を聞くだけだったケイトは、妻を落ち着かせるようにゆっくりと、だが確かな口調で話し始める。
「確かに、お前の言いたいことが分からないわけじゃない。親ってのは、ただ単純に子供に飯を食わせてさえいればいい…そういう仕事じゃないからな。むしろ、一番近い肉親として、子供の精神を支えてやること。子供が“間違った”育ち方をしないように教育をしてやること。それが重要だ。そういう意味であいつは、何故かもう芯ができあがっている。親に依存すらせずに、親離れ状態だ。俺達は、最も大事な仕事をする機会を失ってしまったわけだ。」
「だったら…!」
「寂しいのか、シンディ?」
「ッ…。」
シンディは顔を俯かせると、いつの間にか浮いていた腰を椅子に落ち着けた。溜まっていた何かを吐き出すように、一つ大きな溜息をつく。
「…ごめんなさい、分かってはいるの。愛する息子の成長を喜べないなんて、駄目な親ね。」
「そう言うな、俺だって寂しいんだ。あの子を木の下で拾ったときから今まで、誰よりも…いや、誰かと同じくらい近くで、あいつを見守ってきたんだからな。思いっきり甘えてくる息子に憧れない・・・なんてことはない。」
「…ねぇあなた。」
顔を下に向けたまま、シンディは夫を呼んだ。
「なんだ?」
それにケイトは、この会話を始めたときと同じように、短く問い返す。
「あの子は。魔術を学びたいのかしら?」
「……」
魔術の話をするときに、珍しくキラキラと光る息子の瞳を思い出した。年齢よりずっと大人びた彼ではあったが、そのときだけは年相応の子供のように見えた。
「あの子が15になったとき、資格があれば…きっと。」
「あぁ、祈ろう。できることの少ない不甲斐無い親だが、だからこそできることはやろう…二人でな。」
夫婦の静かな会話は、仕事を始める時間になるまで続いていった。