佐藤君対ナンパ男
「暗い」
全員が集結したビニールシートの上で楠さんが怒ったように言った。
「佐藤君、こうなった理由を簡潔に述べなさい」
「……う、うん……。その、あの」
「言葉に詰まったのでやり直し」
「あ、はい……」
厳しい判定だね……。
「一言で言えば、兄弟喧嘩……」
兄妹の枠を超えている部分もあるけれど、突き詰めればこれは兄弟喧嘩でしかないのだろう。
「ふーん、そっか。誰が悪いの?」
「……」
思わず黙り込んでしまった。僕が悪いとは認めたくない。僕だって怒っているのだから。
僕らが黙り込んでいるのをどうとらえたのか楠さんが「あっそ」と言って立ち上がった。
「佐藤さんちはそろって無言だし、有野さんの元気もないし、小嶋君もなんだか緊張した面持ちだし、三田さんはずっと俯いているし、兄は相変わらずムカつくし。何この苦痛でしかない海水浴は。せっかく来たんだからみんな楽しもうという気にはなれないのかな」
「そう、だよね……。ごめんね楠さん。僕楽しむ」
「そんな状態で楽しめるもんですか」
……確かにそうですね……。
「他の一行と比べてここだけ空気が違うよ。全く君たちは。誰がここに連れてきてあげたと思っているの」
「ジャパンレールウェイズじゃないかな。少なくとも俺と若菜ではないことは確か」
「兄はうるさい。黙れ。消えろ。提案したのは誰かって聞いているの。せっかくこの私がみんなで楽しむために海水浴を計画したのにみーんな楽しもうとしないんだもん。もうあれだ、ふざけているとしか思えないね。だから、そう言うわけで、仕方がないしお腹が減ったのでご飯を食べよう」
「これはまた脈絡のない事を言い出したぞ。でも確かにお腹が減ったからご飯を食べようか」
もうお昼ご飯の時間か。気が付かなかった。そう言われれば、お腹が空いている気がする。
「兄はあっちにある海の家の焼きそば、佐藤君はあっちのたこ焼き、私と三田さんは飲み物を買ってくるから他の人たちはここで待ってて」
「……」
楠さんの言葉に数人が黙ってうなずいた。楠さんと仲のよくない雛ちゃんが頷いていたのが印象的だった。
「じゃあ行こうか。兄、お金」
「はいはい」
よし、お腹を満たして気分を変えて、海水浴を楽しもう。
近くに出ていた屋台でたこ焼きを四パック注文する。今焼いていてもうすぐできるので少し待っていてくれとのことだった。屋台の脇に立ちぼうっと海を眺めて完成を待つ。
海は青く空も青い。
浜辺はカラフルなパラソルで彩られている。すごい人の数だ。暑い日が続くのでみんな涼みに来ているのだろう。迷子になってしまいそうになるほど人が集まっている。
でも海の向こうは青一色だ。
波打ち際がライン。
そこを越えると一気に人が少なくなる。
僕らが世界に踏み込めるのはわずかな距離。
僕らは小さな世界で生きている。
その中で、もっともっと小さな世界に僕は住んでいるのに、それすらも維持できないでいる。
僕が弱いのか世界が脆いのか。
きっと、多分、両方ともなのだと思う。
疑うだけで壊れてしまうのだから。
疑う僕は弱いという事で、それだけで壊れる世界は脆いという事で。
世界は変えようがないのだから、僕が変わらなければ。
疑わないで、疑わせないで。
人を信じて人に信じられる人間になろう。
なれればいいな。
あぁ、それにしても暑い。
陽がとても高い。これからが海水浴の時間だ。楽しまなければ。僕はこんな時間を望んでいたのだから。みんなで何かをする今日を夢見てきたのだから。
楽しまなければ。
たこ焼きを買ってビニールシートに戻ってきた僕。
どうやら焼きそば班も飲み物班もまだ帰ってきていないようだった。
焼きそばを買いに行ったお兄さんが遅いのは分かるけれど、飲み物を買いに行った楠さんと三田さんが遅いのは何故だろう。もしかしたら八本もの飲み物が持てなくて困っているのかもしれない。
心配になった僕はたこ焼きをビニールシートの上に置いて楠さんと三田さんが向かった自動販売機へ足を向けた。
よくない状況に陥っているようだ。
遠目でも分かる。自動販売機を背に三人の男の人に囲まれている。
三人とも髪の毛の色が明るい。それだけで僕は怖いよ。
「どいてください。あっちで友人が待っていますので」
「友達もみんな女の子?」
「男です。良いからどけって言っているんです」
「つれないなぁ。いいじゃん一緒に遊ぶくらい」
「気持ち悪い。早く消えて」
「君は大人しいね。どう? あっちに静かな場所があるんだけど」
「……!」
そう言って男の人が三田さんの肩に手を伸ばした。それを楠さんがペットボトルで殴る。
「触るな」
睨み付ける楠さんの眼は遠くにいる僕でさえ震え上がるほどの迫力だった。
しかし男の人たちは怖気づく様子がない。
「……ってぇなぁ」
不機嫌そうな声が聞こえた。
な、なんだかまずい気がするよ。僕は慌てて駆け寄りそこに割って入った。
「なんだてめえ」
男の人が突然現れた僕を威嚇する。怖い……。でも逃げられないよ。
「そ、その、嫌がってるし、やめた方が、いいと思います……」
「何言ってるか聞こえねえよ。どけよ」
グイッと僕を横へ押しやる。でも僕はその手をいなしその場にとどまった。
「邪魔なんだよ」
首に伸びてきた手を思いっきり払い僕は男の人たちの顔を初めて見上げた。
男の人たちは三人とも傷だらけでまるで喧嘩したてのような顔をしていた。
「俺たち今機嫌悪いんだよね。どかねえと痛い目見るぞ?」
やっぱり喧嘩をしてきたのかもしれない。
痛い目にはあいたくない。
でもどくわけにはいかないよ。
「い、嫌です」
「お前には関係ねえだろうが!」
僕の正面に立っていた金髪の人が僕の顔を掴んでぐいぐいと押してくる。ほっぺたが痛い。
「友達だから関係あります……!」
「は? お前がこの子たちの友達なの?」
「は、はい……」
それを聞いて男の人たちが笑い出した。
「あはははは! こんな真っ白なもやし野郎より俺たちの方がいいじゃん! ひ弱な坊やとはお別れして俺達と遊ぼうよ!」
「お断りします」
という声が後ろから聞こえたと思ったら、次の瞬間僕の側頭部をかすめてものすごいスピードのペットボトルが金髪の男の人の顔めがけて射出されていた。
「いでぇ!」
見事顔面の中心に直撃したその人は僕の顔を放し両手で鼻を押さえた。
うずくまる男の人を見てしばらく呆然となり、起きた事態を飲み込めたところで残りの二人が楠さんを睨み付けた。
「てめぇ……! 何しやがる!」
「ペットボトルを投げやがったんですけど。見て分からないんですか? ああ、ペットボトル初めて見たんだ。これだから髪の毛を染めている奴は……」
はぁやれやれ、と。
なんだか、今の発言にはここにいない色々な人が含まれているような気がする。
「こいつ……!」
僕の右にいた焦げ茶色の人が楠さんに手を伸ばした。僕は慌ててその人の体を押して距離をあける。
「ふざけんじゃねえよクソガキ!」
「ふざけてません!」
焦げ茶色の人に叫んだ僕。その直後、左に立っていたライトブラウンの人に殴られてしまった。僕は無様に砂浜に倒れ込む。
「佐藤君!」
二人の叫び声が聞こえた。
「うう……」
うう、と唸ってみたけれど、あまり痛いとは思わなかった。今殴られてみて初めて気付いたのだけれども、僕は人に殴られ慣れてしまっているみたいだ……。そう言えば、最近を振り返ってみると沢山殴られてきた気がする。全然嬉しくないよ。
「てめえ」
焦げ茶色の人が僕の髪の毛を掴んで無理やり立たせる。
「い、いたい!」
髪の毛を引っ張られるのは慣れていないよ!
「邪魔だコラ!」
そう叫んで男の人が振りかぶった。
殴られてしまう! ……のは嫌なので僕は先ほど倒れ込んだ時に握った砂を焦げ茶色の人の顔めがけて投げつけた。お姉ちゃんに砂かけられていてよかった。とっさに握ることができたよ。ありがとうお姉ちゃん。
目をこするために僕の髪の毛から手を離した焦げ茶色の人。
「こ、このクソガキ! 何しやがる!」
「す、砂を投げつけやがったんですけど?!」
しまった! ついつい楠さんと同じことを言ってしまった!
「ざけんな!」
当然のごとく僕の発言は火に油を注ぐことになったわけで。
「てめえ!」
と横からライトブラウンの人の声が聞こえた。
僕はとっさにもう片手に握った砂を投げつけてしまった。
うまく顔にヒットし後ずさるライトブラウンの人。
に、逃げられるかな?!
しかし僕らが逃げたすのより先に金髪の人が痛みから復帰してしまった。
「こいつ……!」
鼻を押さえてうずくまっていた金髪の人が立ち上がり僕のお腹に前蹴りを放ってきた。
「うっ」
物凄い衝撃で後ろに飛ばされる僕の体。しかし後ろに立っていた楠さんがそれを受け止めてくれた。
う、うう……、む、胸が当たっています……。
大きな胸がクッションとなったのかななどとそんな変態的なことを一瞬考えたけれど今はそんな状況ではないとすぐに気付く。
金髪の人も、焦げ茶色の人も、ライトブラウンの人もみんな持ち直し再び僕らを取り囲んでいるのだ。
「殺すぞクソガキ!」
「ごごごごめんなさい!」
「許すわけねえだろうがぁ!」
背中にしがみついている楠さんと僕の右手を握る三田さんと一緒に縮こまる僕。情けないよ!
「ブッ飛ばす!」
「ま、待ってください!」
と言っても待ってくれることなんてあるわけもなく、金髪の人が僕との距離を詰めて殴りかかろうとしてきた。
「うわああああ!」
このままでは殴られてしまうけれど、後ろに二人がいるから避けられないよ! 女の子を背負って攻撃を受けそうになるなんてマンガみたいな状況に陥るとは思ってもみなかった! 実際に遭遇してみたらとっても困る状況だね!
などと思っていると、楠さんが言った。
「佐藤君ミサイル!」
「え?」
何?
よく分からなかったので聞き返すために振り返ろうとした僕は次の瞬間ものすごい勢いで金髪の人めがけて突っ込んでいた。説明なんて必要ないと思うけれど一応説明するならば、楠さんが僕を思いっきり突き飛ばしたのだ。
手を離す三田さんと僕を突き飛ばしたまま手を伸ばしている楠さんと前のめりで金髪の人に向かう僕。
「うげぇ」
偶然か楠さんが狙って突き飛ばしたのか、どちらかは分からないがうまい具合にカウンターで男の人の鳩尾に僕の頭が入った。
金髪の人もろとも倒れ込み、その上であやまった。
「ご、ごめんなさい」
許されるわけが無かった。
「どけクソが!」
足で僕の体を押し上げる金髪の人。物凄い力で僕は再び楠さんに受け止められた。うう……。む、胸が……! などと考えている状況ではない!
金髪の人を弱らせることはできたけれど大きく状況が変わっている訳ではない。
どうしよう……。
「くぁwせdrftgyふじこlp!」
全く聞き取れない叫びで三人が襲い掛かってきた。
「う、うわああああああああ!」
情けないことに叫び声を上げているのは僕だけだった。
目は閉じたらダメだ。どうなるか分からない状況なのだから、一瞬でも目を離したらダメだ。僕の後ろには友達がいるんだから。
迫る三人。動けない僕。今度は楠さんも僕突き飛ばすことも無く背中にしがみついていた。
誰か助けてくれないかな。
慣れたと言っても殴られるのは嫌だよ。
神様がいるのなら、助けてほしいな。
友達だけは助けてほしい。
みんなには痛い思いをしてほしくない。
だって--今日は楽しい海水浴なのだから。
迫るこぶしと天に祈る僕。
神様。
……。
……どうやら。
神様はいるらしい。
いつの間にか僕の目の前から三人とも消えていた。
「……え?」
一瞬とは言わず、しばらくの間何が起きたのか分からなかった。
どこに行ったのか見てみると、斜め前で三人が折り重なった状態で倒れ込んでいるのを発見した。
「なんで俺に突っ込んでくるんだよ!」
一番下のライトブラウンの人が怒鳴る。
「俺じゃねえよ!」
金髪の人が叫ぶ。
「あいつに押されたんだよ!」
焦げ茶色の人が指さす。
その指の先に立っていたのは楠さんのお兄さんだった。
「てめえ何しやがる!」
「押しやがったんですけど。それにお前たちこそ何をしていたんだい」
いつもと変わらない調子でお兄さんが言った。
ここからは早かった。
驚きの強さであっという間に三人を追っ払ってしまったのだ。
かっこいいし、優しいし、力も強いなんて。何故こうも楠さん家はスペックが高いのだろうか。
無傷で追い払った後、「佐藤君大丈夫?」「大丈夫です」「二人は大丈夫?」「大丈夫です」等々お約束のやり取りを終えた僕らは、すぐにビニールシートへ戻った。
だって、みんなお腹を空かせているからね。