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キョーハク少女  作者: ヒロセ
第四章 僕らにとってのハッピーエンド
128/163

実の無い話だからこそ

「ねえ佐藤君。私の嫌な噂とか聞いたことない?」


「え?」


 僕が楠さんの言うことに従うことになってからしばらくして。床に座りお茶を飲んでいた楠さんが、ベッドの上でぼけっと窓の外を眺めていた僕に聞いてきた。


「楠さんに限ってそんな噂立つわけないよ」


 僕は知っている。楠さんはみんなに慕われる素敵な人なのだから悪い噂なんて立たない。嫉妬されることはあるだろうけれど、火のないところに煙は立たないという様に火が無いのだから悪い噂なんて立たないよ。

 などとちょっと恥ずかしいことを思ったけれど、そんなことは自明の理らしい。


「私に限ってそんな噂立つわけないのは当然のことだけれども、市丸百合に限ってはそんな噂立てるのは当然の事だから聞いているんだよ」


 市丸さんが変な噂を立てていないかどうかを聞いていたようだ。


「そんな噂聞いたことないよ? 市丸さんが楠さんの悪い噂を流すわけないよ」


 これだって自明の理、だよ。説明するまでのない事だ。

 しかし、深く考えることも無く簡単に答えを出してしまった僕が気に入らないのか楠さんが気分を害したようすで僕を睨み付けてきた。


「妙に市丸百合を庇おうとする姿勢がみられるけど君は市丸百合の何を知っているの」


「そこまで深く知っている訳じゃないけど、市丸さんがそういうこと言わないっていうのは何となく分かるよ」


「どうして」


 相変わらず睨み付けられている。言葉を間違えた時は罰ゲームが待っていそうだ。

 僕は慎重に言葉を選ぶ。選ぶほどのボキャブラリーも選択肢も無いけれど。


「だって、二人は親友、なんでしょ?」


 親友という二人の関係。それだけが僕の選べる言葉で、それこそが自明の理と言い切れるほどの証拠だ。


「誰がそんなこと言ったの?」


 しかしその前提が違えば。当然答えだって違ってくる。


「えっと、やっぱり違うの?」


 そうなのかもしれないとは何度か思ったけれど……。


「違うとも言ってないでしょ」


「……えっと……」


 結局どっちなのかは分からない僕だった。

 でも僕は疑うことなんてつまらないのでプラスの方を答えとして選ぶことにした。

 二人は親友だよ。

 ……多分。

 絶対とは言い切れない自分がもどかしい。

 でも二人が親友だと思う理由はあるんだよ。

 楠さんは本当に正直な人で、好き嫌いをはっきりと言うからね。

 クラスのみんなには八方美人として接していると言われるかもしれないが、そういうことじゃなくて。こう言ってしまうのは自分のことを良く言っているようであまり言いたくないけれど、楠さんの本当の姿を知っている僕らには正直な感情をぶつけてくれる。

 その楠さんが市丸さんのことを話す時に『嫌い』と一言も言っていないので嫌っていないはずだ。

 これさえあれば僕は間違えない。

 ……多分。


「こんなつまらない話よりも楽しい話をしようか」


 楠さんが始めた話なのに……と思ったけれど言えない。僕だって楽しい話がしたいから。


「部活中さ、有野さんと小嶋君の元気が無いんだけど何か知ってる?」


「……えっと……」


 この会話の内容じゃあ一っつも楽しさを見出すことが出来ないよ。


「元気ないかな?」


 こんなどうしようもないごまかしをしたって意味が無いのに。


「明らかでしょ。テンション普通どころかテンション低いし。部活中に触れることを躊躇うほどだよ」


「まあ触れる勇気が無い私が悪いんだけどね」と珍しくと言ってはなんだけれど自信なさげに呟いていた。


 その自信の無さがひとつ前の話題を引っ張り出してくる。


「それってさ、やっぱり私の嫌な噂が原因だったりするのかな?」


「そんなことないよ」


 自信の無い楠さんを見たのは初めてなような気がする。

 楠さんと過ごしたすべての時間を覚えている訳ではないので言い切ることはできないけれど、珍しい事は間違いない。

 自分に自信があって、その自信に見合う実力を持っていて、その実力をみんなに認められていて。

 きっと僕だって楠さんの様に何でもできる人間だったら自分に自信が持てたんだ。それに比べて僕はどうしようもない……。何か一つでもあるのかな……?

 いや今はそんなことどうでもいい。

 今は楠さんと話しているんだ。自分についての問答なんてどうでもいい。どうでもいいなんて言葉では足りないくらいどうでもいいことだ。


「私の嫌な噂が流れているんでしょ。だからあの二人テンションあがらないんでしょ」


「違うよ。絶対に違うよ」


「どこの誰が流したか分からない嫌な噂を真に受けて、有野さんや小嶋君は私といるのが嫌だということでしょ。そうに決まっているよ」

 考えていることはネガティブだけれど、それでも自信たっぷりな楠さん。それはダメなことだと思う。誰も喜ばないよ。


「だからそんな噂ないってば」


 もしかしたらそんな考えが漏れてしまったのかもしれない。

 楠さんが不快を露わに僕に言う。


「え? なに? ちょっとキレ気味なの? 君はキレないことで有名だったのに。よりにもよってこの私に対してキレたの?」


 大変だ。誤解を解かなければ。


「僕キレてないですよ?!」


 必死に誤解を解こうとした言葉は楠さんの心に届かなかった――


「うわ、うわ。今時それは無いでしょ……」


 ――と言うかモノマネのモノマネなのだと勘違いされた。


「え? あ、そうじゃなくて、違うんだよ?!」


 弁明に次ぐ弁明。僕必死だね。

 キレたとかキレてないとか以上に、モノマネのモノマネをしたということについての誤解を解きたいと思っている僕は自分勝手なのかもしれない。

 だが、誤解を解くまでも無く楠さんは僕が真似をしたわけではないと分かっていたらしい。


「まあすぐにそういうものに結び付ける人間はどうなんだって私も思うよ。誰しもが流行に乗るもんだと勘違いしやがって本当に困るよね」


 まさに今だ。


「確かに、普通のワードを言っただけなのに誰かの真似だと言われるのはなんだかアレだよね」


「アレって何」


「え、その、嫌だというか、心外だというか」


 あれ? これまずい事言った気がする。


「へえ。つまり今私に対してそういうことを思ったわけだ。すごいねえ佐藤君。すごいすごい。本当にすごいよ」


「待って楠さん! 帰らないでお願い! 今のは間違い!」


 怒って立ち上がろうとする楠さんを引き止める。

 今のは自分でもびっくりするくらいの失言だったね。


「帰って欲しくなければどうして有野さんが元気ないのか教えてよ」


 立ち上がり、少し上から僕を見る。

 睨み付けている訳でもなく、威圧している訳でもなく。

 自分が勝手に感じたことをそのまま真っ直ぐ何も考えずに受け取るのならば、すがりつくような助けを求めるような。

 きっとこれは楠さんにとっては重要な意味を含んだ質問なのだろうけれど、だからと言って雛ちゃんが元気のない理由をいう訳にはいかない。


「……少なくとも、楠さんが心配するようなことは無いよ」


「やっぱり知ってるんだ。正直に言って。一体どんな噂が立っているの。怒らないから」


「噂なんて立ってないよ。本当にそんなの聞いたことないよ」


「ならどうして有野さんは落ち込んだ様子で部活をしているの?」


「僕はその理由を言うわけにはいかないけど絶対に大丈夫だよ。楠さんに悪い噂が立つわけがないし、誰かが楠さんに対して悪い噂を流すわけもないし、そもそも楠さんに悪い噂が立っているとしても雛ちゃんや小嶋君が距離を置くなんてことは無いよね。だから絶対に大丈夫」


 少しでも僕は楠さんの不安をふきとばすことができたのかな。

 そうだったら、嬉しいけれど。


「……ふーん……。これまでずっと仲の悪い私と有野さんの関係を見てきたのに、それでもなおそう言えるんだね。すごいすごい。二人の信頼関係にお姉さんはお腹いっぱいだよ」


 もう楠さんは普通に見える。一見、普通に見える。

 僕の言葉がその『一見』を作るのに役立ったのならここにいる意味があった。


「雛ちゃんが僕を信頼しているかどうかは別にして、僕は雛ちゃんのことを信頼しているから当然のことだよ」


「……はいはいはい」


 どうでもよさそうに視線を天井に向ける楠さん。


「それと同じで楠さんのことも信頼しているから、悪い噂なんて立たないって思っているんだよ」


 これは、面と向かって言わなくてもよかったかも。

 恥ずかしいし、言葉にする必要が無かった気がする。


「当たり前でしょう。悪い噂の立つ原因は私じゃないの」


 僕の恥ずかしい言葉に特別なツッコミを入れることをしなかった楠さん。流してくれてよかった。

 けれど、今言った言葉はちょっとだけ気になる。


「それは、市丸さんが……っていうこと、だよね……?」


「あの子そういうところあるから」


 そう言って、ポスンと腰を下ろした。

 仲が良いからこそ言えるのか、仲が悪いから言えるのか、プラスなのかマイナスなのか僕にははっきりとわからない。

 最近の楠さんは分からないことだらけだ。

 市丸さんとのこと、沼田君とのこと、僕らのこと。

 この間までは、結構分かっているつもりだった。

 自信過剰かもしれないけれど思い上がりかもしれないけれど、クラスで一番楠さんのことを分かっているんだと思っていた。それくらい友達であるんだと自信を持っていた。

 けれど、なんだか分からなくなってしまった。

 多分そう思い始めたきっかけは、沼田君と付き合い始めたことや市丸さんがやってきたことが関係しているんだと思う。

 もしかしたら、分からなくなったと思っているこれはただの嫉妬で、楠さんは遠いところに行ってしまったのだと思いたいのかもしれない。そう思って自分を守ろうとしているんだ。

 そうなのだとしたら、友達のことが分からなくなってしまったと思っているのは勝手な思い込みで僕の周りは何ら変わっていない。

 そうだといいけれど。

 そう思えるのならば幸せなのだろうけれど。

 なにぶん、分からないのは確かな事実なもので。

 今の僕には仮説しか立てられないや。

 色々な『多分』を『絶対』に置き換えるにはもうちょっと時間がかかりそうだ。


「よし。じゃあ行こうか」


「え、どこへ?」


 突然過ぎてどこへ行こうとしているのかさっぱり分からない。想像もつかない。しかし楠さんはさも当然だという風に僕に言う。


「部活に決まっているでしょ」


「学校に行くの?」


「まさか」


 まさからしい。本当に分からないけれど、これは僕の察しが悪いからではないよね。


「じゃあどこへ?」


 分からないことは聞かなければ。

 楠さんは答える。あっさりと答える。


「有野さんの家」


「……えっ」


 ……やっぱり僕には、最近の楠さんが分からないみたいだ。

 




 場面は変わらず僕の部屋。


「これだけ近くに住んでいるのに有野さんの家に行くのって初めて」


「あ、そうなんだ」


 何となくそんな気はしていたけれど。


「君はどう? 結構行くの?」


「うん。程々に」


 頻繁にという訳でもないので程々にが適切だろう。


「程々にねえ。あの名物お兄さんとは? 家にいるよね」


 名物お兄さん……。

 雛ちゃんと國人君の兄妹は文化祭で一躍有名になった。雛ちゃんは嘆いていたけれど僕としては何となく誇らしい。本当に、何となく。


「多分いると思うよ。あ、そうだ。雛ちゃんの家に行く前に雛ちゃんに電話しなくちゃ」


 そういう約束だった。もしかしたら雛ちゃんは家にいないかもしれないのでその確認をしなければ。


「別にいいんじゃない? 行ってみていなかったらいなかったで」


「そうかもしれないけど、連絡しろって言われているから」


「ふーん。じゃあ私が電話してみようかな」


「えっ」


「別に驚くようなことじゃないでしょ」


「あ、うん」


 そうなのだけれども、仲が悪いとも思っていないけれども、電話をかけることも全く不自然ではないけれども、それでも少しびっくりするよ。

 そういう訳で楠さんが携帯電話を取り出しパパッと電話をかけた。


「あ、もしもし。元気? いやね、別に大した用事じゃあないんだけどね。うん? いや休みだよ。え? そうそう佐藤君と一緒。よく分かったね。そんなに怒鳴らないでよ聞こえているから。耳がやられちゃうよ。でね。それでね。今から有野さんの家に遊びに行こうかなって思っているんだけどいい? え? そう今からすぐ二人で。……あーはいはい。じゃあ今から向かうね。はいはいはい。じゃ」


 雛ちゃんの声は全く聞こえてこなかったけれど、どうやら来てもいいと言われたらしい。

 楠さんが携帯をしまい立ち上がった。


「じゃあ行こうか」


「うん」


 なんだかんだで、久しぶりな気がするよ。




 歩いて二、三分。もしかしたらもっと短いかもしれない。とりあえず僕の体内時計では二、三分。楠さんと話しているうちにいつの間にか雛ちゃんの家の前にたどり着いていた。

 着くや否や楠さんがインターホンを鳴らし到着を知らせる。


「これでいなかったら佐藤君罰ゲームね」


 そう言って楠さんが笑う。


「罰ゲームは嫌だけど、いないわけがないよ」


 事前に電話をして確認しているのだから。これでいなかったらびっくりだよ。

 当然インターホンから雛ちゃんの声が聞こえてきた。とりあえず罰ゲームは免れた。よかった。


『はいはい』


「有野さん? 私私。この私が来てあげたよ」


『……』


 プツッという音が聞こえ、それから十秒もしないうちに玄関が開いた。割と強めに。


「何の用だよ」


 門柱に隠れて雛ちゃんの姿が見えないけれど何やら機嫌がよろしくない。このまま隠れていたい気分だ。


「遊びに来たんだけど」


 玄関に立つ雛ちゃんと門の前に立っている僕ら。その距離は二メートルくらい。多分。そこに漂う空気が張り詰めた……という訳でもないけれど変な空気が漂っているような気がする。

 とりあえず姿を隠したままと言うのは失礼かと思いひょいと顔を覗かせてみた。


「お前遊びに……って優大?! なんで優大がここにいるんだよ!」


「え?! 存在の否定ですか?!」


 僕はここにいるべき人間ではないらしい! 少し悲しい!


「どうして若菜と一緒にいるんだって聞いてんだ!」


 え?


「えっと、雛ちゃんさっきまで寝てたとか……?」


 寝ぼけ頭で電話と取ったからあまり話が頭に入っていなかったのかな?


「はぁ? もう昼過ぎてるだろ。寝てるわけないだろ。……え、なに? 髪乱れてる? それとも顔に変な跡でもついてんのか?」


 慌てて顔や頭をぺたぺたと撫でる雛ちゃん。

 その不安を楠さんが拭い去る。


「一切乱れてないよ。いつも通り有野さんっぽいよ」


「意味わからん。じゃあ優大はどうして私が寝てただなんて言ったんだよ」


「えーっと、さっきの電話の内容を、あまり覚えていないみたいだったから、寝てたのかなって思って……。ごめんね」


「はぁ? 電話ってなんだよ」


「え? さっき電話、したよね?」


「はぁ? 誰が誰に」


「楠さんが、雛ちゃんに……?」


「電話なんて来てねえよ」


「えっ」


 雛ちゃんがポケットから携帯を取り出し確認している。


「来てねえよ」


「えっ?」


 僕は驚きを隠そうともせずに楠さんを見た。

 楠さんは全く悪びれた様子も無く僕らに種明かしをしてくれた。


「あれ嘘」


「えっ?!」


 突然のプチドッキリに僕らはと言うか僕は少しついて行けない。


「どうして嘘ついたの?!」


 驚きながら解説を求めている僕を叱るように楠さんが言う。


「うるさい。女の嘘には黙って騙されるのが男の仕事なの。女装癖があるとはいえ君も一応男でしょ。細かい事は気にしないでよみっともない」


「いや、その、僕は女装癖持っていないし僕が困るわけじゃあないんだけど、家主の都合とか気にしないのは……どうなのかな」


 いなかったらどうするつもりだったのだろう。あ、雛ちゃんが家にいない場合は僕が罰ゲームを受けていたんだったね。なら僕も困るから嘘はつかないでもらいたかった。


「大丈夫大丈夫。有野さんに用事なんてあるわけないよ」


「失礼なこと言うな。……まあ、暇だったけど……。つーか、てめえらなんで二人で一緒にいるんだよ。若菜お前沼田と遊びに行けよ」


「私が誰と休日を過ごそうが関係ないでしょ。さ、外で立ち話もなんだから家に入れてよ」


「……ほんっと勝手な奴だな……。まあ、いいけど」


 突然の来訪だったからか、快くとはいかなかったものの僕らは雛ちゃんの家にあげてもらうことが出来た。





「それで有野さん。ずっと気になっていたんだけど一体何に悩んでいるの?」


 雛ちゃんの部屋につきすぐに聞く楠さん。悩みを解決するために雛ちゃんの家に来たんだね。とっても優しい。

 しかしこんなことは考えたくないけれど、ただ単に僕の言った『楠さんの悪い噂なんて立っていない』という言葉が信用できなくて直接雛ちゃんに確認しに来たのかもしれない。


「別に悩みなんてねえけど」


 二人が部屋の端と端に座り会話を始める。雛ちゃんが窓の傍で楠さんはドアの傍。僕はどこに座ろうかと立ち尽くしていた。


「だろうね。悩みのなさそうな顔してる」


「殴っていい? いいよな」


 どこに座ろうか迷っていたけれど火花を散らす二人をみてその間に座ることに決めた。


「佐藤君じゃないんだから私は殴られても喜ばないよ」


 突然視界に入ってきたからか、僕を例に出してきた。


「お前優大を何だと思ってるんだよ」


「奴隷のM。略してドM」


 奴隷じゃないしMじゃないよ。


「じゃあお前は『どうしようもないS』略してドSだな」


 どうしようもないことなんてないけれど、楠さんは紛う事なきSですね。


「そんな有野さんは『どちらかと言えばズルい』略してドズルだね」


「ズルくねえよこの野郎。つーかドズルってなんだよ」


 僕は分かるけれど何も言わない。


「それで、ザビ野さん」


「誰がザビ野だ。つーかザビってなんだよ。どこから来たんだよ」


 僕は分かるけれど何も言わない。


「ひょっとして、ひょっとするとさ……、最近私に対して何か嫌な感情を持ってない?」


 やっぱりそれが気になってここへ来たみたいだ。何をそんなに気にしているのだろう。

 不安そうにする楠さんに対して、雛ちゃんは安心させるように――


「はぁ? むしろお前に対していい感情なんて持ったことねえけど」


 ――安心させるように――


「最近も何もずっと嫌な感情持ちっぱなしだし現在進行形で結構憎いわ」


 ――これが雛ちゃんの愛情表現だ。ま、間違いないよ!

 まあ、そんなことは改めて言うまでも無く分かっているようで、楠さんはさらに聞く。


「それとは別に」


 この楠さんの様子を見て雛ちゃんも真面目な問いなのだと気付いたらしい。


「それとは別に? 意味わからん。別にそれだけだよ」


 ハッキリと言葉にはしていないけれど、何も悪い感情を持っていないと言うことだ。


「ホントにホント?」


 念入りに確認作業をする楠さんに違和感を覚えたのか雛ちゃんが詳しく聞こうとする。


「しつこいな。何が言いてえんだ?」


「誰かから変な事吹き込まれたとか、そういうこと」


 市丸さんから、とは言わなかった。


「? 本当に訳が分かんねえわ。誰かから何を吹き込まれようと、私は見たものしか信じねえよ」


 本当に分からないと言った様子で首を傾げる雛ちゃんを見て楠さんもやっと納得したようだ。


「……ふーん。有野さん格好いいね」


 本当に格好いいよ。

 雛ちゃんが褒められたことにより顔をしかめる。


「お前が褒めるとか気持ち悪いな。本当にお前どうしたんだ? 寝不足か?」


 寝不足だと褒めたくなるのだろうか。初耳だ。


「男らしかったから格好いいって言っただけだよ」


「……よく考えたら別に褒められてねえな。全然嬉しくねえわそれ」


 僕も女装を褒められても全く嬉しくなかった。雛ちゃんはそれと同じような感覚を覚えているようだ。それならば確かに全く嬉しくない。


「恥ずかしがらないでいいよ。有野さんは格好いいって層から絶大な人気を誇っているよ。擬似BLだってね」


「よく分かんねえけどやっぱり褒めてねえよな」


 むしろ喧嘩を売っていると言われても仕方がないですよ楠さん。


「褒めてるよ。割と」


 もしかしたら素直に褒めることに抵抗があったからこういう風に褒めたのかもしれないね。


「割と、ねえ……」


 納得できないといった顔をしたけれど、怒ることはしなかった。

 まあ、とにかく。楠さんが不安から逃げ出せたのなら満足だ。僕が役に立っていたのか堪らなく疑問だけれども。


「そんなことより、ちょっと二人に聞きたいことがあるんだけどさ」


 まだ何か悩み事があるらしい。楠さんがこんなにもたくさんのストレスを抱えて過ごしていたのに僕は気付けなかった。申し訳なさでいっぱいだよ。


「なんだよ改まって」


「改まりもするよ。こんなこと誰にも相談したことないんだもん」


 わざわざこんな前置きをするなんて、先ほどの悩みよりも重たい相談事のような気がする。

 緊張のせいか、僕と雛ちゃんは顔を見合わせたあと姿勢を正し楠さんの質問に備えた。どんな質問だろうと最善の答えを出したい。


「この前さ、つけ麺屋さんに行ったんだ。辛いたれにつけるつけ麺屋さん」


 その始まりを聞いて伸びていた僕の背筋が曲がった。

 この質問は全く重たくないただの雑談かな?


「つけ麺がおいしいと評判のお店でね、そこで私は暖かいつけ麺を頼んだわけ。麺の上にもやしが乗っかっていて、横には白ネギとメンマと半熟卵と申し訳程度に添えられたチャーシュー二切れ。ラーメンの汁なしみたいな感じかな」


 ここまで聞いて僕の肩から完全に力が抜けた。

 この質問はまったく重くないただの雑談だね!


「その値段は、つけ麺小が麺半玉で七百円。つけ麺中が一玉で八百円。つけ麺大が麺一玉半で九百円」


「で?」


 雛ちゃんもこの話に重要性を見出してはいないようだ。


「おかしくない?」


「何が」


「なんで小と中の差が百円しかないの?」


「はぁ? どういうことだ?」


「半分の量の麺しかないのに、どうして百円しか変わらないの?」


「そう言われると、確かにおかしな気がしないことも……」


 ただ心の底からおかしいとは言い切れない。


「明らかにおかしいでしょ。佐藤君がハンバーガー屋さんに行って百円のハンバーガーを頼みました。するとそのハンバーガーは半分だけしか出てきませんでした。いくら出す?」


「えーっと、五十円?」


「何言ってるの。そんな誰かの食べかけみたいなハンバーガー一銭も払わなくていいよ」


「あはいそうですね」


 現実世界だと払わないけどそこはたとえ話ということでリアルに考えなくてもいいと思いますそんな口答え出来ないけど。


「そんなことよりつけ麺の話だよ。おかしくない? 麺の量が半分だよ? だったら値段も半分くらいにしてもいいでしょ」


 うーん?

 答えられない僕に変わり雛ちゃんが答えてくれた。


「そんな簡単にはいかねえだろ。野菜とか卵とかチャーシューだって結構値段するんじゃねえの? 若菜が頼んだつけ麺はハンバーガーで例えるとセットみたいなもんで、麺半分ってのはハンバーガーが半分になっただけでポテトやら飲み物はそのままの大きさってことだろ? それだとセット料金からハンバーガー半分の五十円しか引かれてなくても文句ねえよな」


 なるほど。それなら大中小の値段に差が無くても何の不思議もないね。


「えー。なら野菜と卵とお肉で六百円ということ? 野菜が大盛りなわけでもないし、チャーシューだって大きい訳でもない。それに六百円出すのはちょっと抵抗があるなぁ。六百円なら普通のラーメンが食べられるよ」


「たれ代だってあるじゃねえか」


「あぁ、そっかそっか。すっかり忘れてた。じゃあ野菜達の値段を大したことないと考えると、六百円の内たれ代が結構な割合を占めているということだね。……え? じゃあもしかしてあのたれって相当高いの? 飲まなきゃいけないの? つけ麺のたれって飲むものだったの?」


「別に飲まなくてもいいだろ。誰が強要したよ」


「でもそれだと、ハンバーガーセットを頼んでポテトをちょっとだけ食べて残りのポテトをゴミ箱に捨てているのと変わらないんじゃない?」


「じゃあ飲めばいいじゃねえかうるせえな」


「あんな辛い物を飲めだなんて有野さんとってもドズル。あ、間違えた。とってもドS」


「ドズルはもういいんだよ。たれ代がもったいないって言うんだったらたれ少なめにしてもらって安くしろって言えばいいだろ」


「何そのみみっちい行為。そんなことするのはクレーマーと同じだよ」


「だったら値段設定に文句言うんじゃねえよ! なあ?! 優大もそう思うよな!」


「え、あ、そうですね」


 突然振られて驚いたけれど二人の間に座っているのでいつかは来るような気がしていた。


「何佐藤君。ザビ野さんの言うことならなんでも頷いて君にはプライドというものが無いの?」


「プライドらしいプライドは持ってないけど、これに関しては雛ちゃんの言うことが正しいような……」


 正しいとしても、楠さんとしては気に入らないようだ。ジト目が僕に向けられる。


「出ました幼馴染びいき。そうだよね、佐藤君の好きなアニメや漫画でも大抵幼馴染はいいポジションにいるもんね。やっぱり接している時間が長い分贔屓しちゃいたくなるよね」


「なんだかよく分からないけど、漫画とかの幼馴染って結構酷い目に遭っているよ?」


「つまり有野さんは酷い目に遭って然るべきだということだね」


「そんな話してねえだろうが! っていうかしてないよな優大!?」


 いつの間にか僕との距離を縮めていた雛ちゃんに胸ぐらをつかまれるような感じで肩を掴まれた。


「してないしてないしていません!」


 酷い目に遭って然るべき人なんて僕の周りにはいないよ!

 必死な僕を見て雛ちゃんが手を離してくれた。ちょっと怖かったなんて思ってないよ。


「でもやっぱり値段設定には納得できないな」


「じゃあお前は一体どうしたいんだよ。文句ばっかり言ってその上あれは嫌これは嫌言いやがって」


「うーん。まあ、たれ代が高くて麺の値段が大したことないというのは今理解したけど、麺半玉とか選べるのならたれ半分とかも選べた方がいいなとは思ったね。麺が半分ならそれほどたれいらないでしょ。むしろ普通に食べてもたれ大量に余るし私は飲みたくも無いんだから、最初からたれの量を調節できた方がよくない?」


「……まぁ、だな」


「たれが値段の多くを占めていると仮定したらの話だけど、たれの量を選べないっていうのはとんだ抱き合わせ商法だということになるんじゃないかな」


「かもしれねえけど、商売なんだから我慢しろよ」


「そうだね。私はもう行かないけど」


 楠さんのようにもう行かないという人が出てくるかもしれないと考えたら、今言ったような抱き合わせ商法的な値段設定は間違っているのかもしれない。僕が経営している訳ではないので僕が心配するようなことではないけれど。


「高い値段と言えば、宅配ピザだろ。あれなんであんなにたっけえんだろうな」


「ピザって高いの? 僕頼んだことないからよく分からないんだ」


「……え、マジで?」


 愕然とされた。


「うん」


「なんで?」


 そんなに珍しい事かな?


「ピザに限らず僕宅配してもらったことがないよ」


「マジかよ……って思ったけど、まあ優大はそうか。料理できるもんな。頼むような機会がねえか。若菜はどうだ? 宅配してもらうことあるだろ?」


「ピザはあるかな。パーティー……なんて呼べるほど大掛かりな物じゃないけど誕生日とかクリスマスとかみんなで集まって食事したりするときに何度か頼んだね」


 よく考えたら僕はみんなで集まってパーティーをしたなんて記憶ないや。ちょっと寂しい。


「でも日常生活でピザ食べる事ってあまりないんじゃない?」


「親がいない時とか食うだろ」


「そこは自分で作ろうよ」


「うるせえな。面倒くせえだろ」


「面倒くさいというよりも作れないんでしょ」


「バカにすんな。簡単なもんくらい作れる」


「どうだか」


「お前は本当にムカつくな。つーか、前から思ってたけどお前はなんでまた学校でそのふざけた態度隠し始めたんだ? 学校で優しく話しかけられるの気持ちわりいんだけど」


 まさかその話題になるとは思ってもいなかった。僕もずっと気になっていたことだし詳しく訳を聞けるのならば聞きたいけれど真面目な話になりそうな気がするので少し憂鬱だ。


「そんなことよりもピザだよピザ」


 楠さんもその話題を避けたいようで安心。しかし雛ちゃんはどうしても訳を聞きたいらしい。


「話し変えるんじゃねえよ」


「変えてなんかないでしょ。戻しただけ」


「そうだけどもうピザなんてどうでもいいんだよ」


「またまた有野さんそんなこと言っちゃって。食べるの大好きピザ野さんとしてはいかにして安い値段で多く食べられるかを常日頃から考えているんでしょ。いいよ好きなだけピザの話して。ふと思ったけどピザとザビって似てるね」


「だからザビがなんなのか知らねえし。……まあ、学校とそれ以外で態度変える理由言いたくないってんなら別にいいわ。そもそも興味無かったわ」


 言いたくないのだと察したようで、雛ちゃんはそれ以上突っ込んで聞くことをしなかった。


「有野さんの興味はピザと佐藤君だけだもんね」


「違……うこともないか。ピザはどうでもいいけど優大はどうでもよくないからな」


「え。ありがとうございます?」


 よく分からないけれどお礼を言ってしまった。ここでの感謝は正しかったのかな? まあ、いいか。


「はぁー。何も食べてないのにお腹いっぱいだよ。むしろ吐き気すら覚えるよ」


「お前が言い出したことだけどな」


「まあそうだね。じゃあ次は有野さんが言い出したことについて話そうか」


「私が言い出したことってなんだよ」


「ピザの値段が高すぎて宅配してもらったにもかかわらずその場で脅して安くさせたっていうお話」


「そんな話してねえし、改めて再開するほどの話でもなくね?」


「そう? 有野さんの言いたいこと結構分かるから有野さんと同じようにピザ業界に文句を言いたいなと思っていたけど」


「私は別に文句言いたいなんて言ってねえよ。高いなってだけで別に物申したいわけじゃねえよ」


「えっ、納得してるの? あれ明らかにおかしいでしょ?」


「宅配料が入ってるんだから仕方ねえだろ」


「いやいやいや。それにしても高すぎるでしょ」


「だったら自分で取りに行けよ。二割引きとかされるだろ。二千五百円のピザだったら五百円も割引される。ほら、時給分くらい安くなるじゃねえか。高い金払いたくなけりゃあ自分で取りに行けよ」


「何言ってるの。五百円割り引かれても二千円って、安くなったとはいえ高い事には変わりないでしょ」


「ピザ一枚って結構量あるんだから二千円くらいするだろ。二人で食えば一人千円じゃん。普通だろ普通」


「某ファミリーレストランのピザはワンコインで一枚食べられるし、スーパーで生地買ってきて自分で作ってもワンコインで作れるでしょ。半分しか食べられないのにお札を出すって、どうなの?」


「作ってもらう人件費とかワクワク料とか入ってるんだよ。買ってから食うまでの間なんかワクワクするだろ」


 エキサイティング料が発生するなんて、ピザってすごい。


「毎日のようにピザを食べている有野さんのお兄さんみたいな人は宅配に慣れてしまってワクワクしないでしょ。でも別にワクワク料が割引されるわけではないのでその言い分は却下します」


「兄貴は別に毎日ピザ食ってねえよ!? なんだその偏見は! つーかお前はごちゃごちゃうるせえなぁ! つけ麺同様食いたくなけりゃあピザ食うな! ピザトースト食って満足してろ!」


「まあそうだよね。それに、私みたいに文句を言う人がいてもやっていけるということは大半の人はその値段で満足しているということだしね。お金持ちの人の食べ物なんだねピザは」


「……なんだ。やけにあっさり引き下がったな」


「だって食べる物だし私達には選択できるからね。納得できないものは選ばないという選択があるんだからそれを選べばいいだけのことだよ。選べないものだったらぶーぶー言うところだけどね」


「選べないものってなんだよ。んなもんがあるのか?」


「あるけど、まあ言わないでおくよ」


「なんだそりゃ……」


 呆れる雛ちゃんに対して、楠さんは楽しそうに笑っていた。

 本当に、楽しそうに笑っていた。

 久しぶりに見たような自然な笑顔で、何に対してか分からないけれどとにかく僕はホッとしていた。普通に考えれば今日ずっと悩んでいた楠さんが笑ってくれたことに対する安心なのだろうけれど違うような気がした。


「こういうくだらない話ができるって、とっても幸せなことだよね」


 しみじみと。

 楠さんが言った。

 ストレートに幸せだと話す楠さんはなんだか珍しい気がして、よく分からない高揚感のようなものを覚えた。


「その為に私の家に来たのかよ……」


 嫌がっているように言う雛ちゃんも笑顔で、少なくとも今この場にいる僕たちには何の悩みも無かった。

 ただ幸せだった。


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