第3話:逃走と絶望──「非常識だ」と告げる婚約者
命からがら逃げ帰った美咲。 翌朝、スマホには婚約者からの着信の嵐が。
「心配してくれているのかも?」 そんな淡い期待は、第一声で粉砕されます。
常識が通じない相手との対話は、ここまで消耗するのか。 ハンカチ(または壁を殴るためのクッション)をご用意の上、お読みください。
タクシーの運転手さんに「お客さん、足元が……」と心配されながら、私は這うようにして自分のマンションへ逃げ帰った。
オートロックを抜け、玄関の鍵を二重にかけ、チェーンまで掛けてようやく、私はその場に座り込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
手の震えが止まらない。
鏡を見ると、首筋には赤い発疹が浮き出ていた。直接食べてはいなくても、あの空間に充満していた蒸気と、飛び散った破片が肌に触れたせいだ。
急いでシャワーを浴び、抗アレルギー薬を飲む。
薬が効いてきても、心臓のバクバクという音だけは、朝まで消えることがなかった。
──スマホを見るのが怖かった。
何十件もの着信履歴。すべて『大野悠真』という名前。
恐怖で電源を切っていたスマホを、翌朝、恐る恐る起動する。
ピロン、ピロン、ピロン。
通知音が連続して鳴る。
留守番電話のメッセージやLINEが次々と表示される。
私は心のどこかで、期待していたのかもしれない。
『大丈夫か?』『ごめん、俺たちが間違っていた』『病院には行ったのか?』
そんな、人として当たり前の気遣いの言葉を。
けれど、画面に表示された最新のメッセージは、私の淡い期待を粉々に粉砕した。
『昨日の態度は何だ? 社会人として非常識にも程があるぞ』
……え?
私の目がおかしくなったのだろうか。
「非常識」? 誰が? 私が?
呆然としていると、スマホが震えた。悠真からの電話だ。
私は深呼吸をして、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『おい美咲! やっと出たな!』
受話器の向こうから、怒鳴り声が響いた。心配の欠片もない、純度100%の怒りだ。
『お前、自分が何したかわかってるのか!? 挨拶の席で暴れて、母さんたちに失礼なこと言って、裸足で逃げ出すなんて……俺、恥ずかしくて顔から火が出るかと思ったよ!』
「……悠真さん。私、殺されかけたのよ?」
私が低い声で遮ると、彼は鼻で笑った。
『まだそんなこと言ってるのか? アレルギーなんて気の持ちようだ、って母さんも言ってるだろ。実際、昨日のカニは朝獲れで、特別なルートで仕入れた……』
「新鮮なら死なない、なんて医学的根拠はないの! アナフィラキシーは最悪の場合、呼吸困難で死に至るの! 昨日も発作が出かけてたの、見てなかったの!?」
叫ぶように訴える。
けれど、壁に向かって話しているような無力感が私を襲う。
『大げさなんだよ、お前は!』
悠真がさらに大きな声で怒鳴り返してきた。
『母さんが夜中まで泣いてたんだぞ! 「せっかく美咲ちゃんのために準備したのに、あんなひどいことされるなんて」って。姉ちゃんも「あの子は情緒不安定なんじゃないか」って心配してる。俺の家族を傷つけて、お前、何とも思わないのか?』
プツン。
私の中で、何かが完全に切れた音がした。
この人は、私の命よりも、母親の涙の方が重いのだ。
私が呼吸困難になろうが、肌が腫れ上がろうが、母親が「悲しい」と言えば、私が悪人になるのだ。
──ああ、無理だ。
この人と家族になるということは、私が死ぬまでこの「殺人未遂」に付き合わされるということだ。
「……もういいわ」
『あ? なんだよ、謝る気になったか? 今すぐ実家に来て、土下座して謝罪するなら……』
「婚約、解消しましょう」
私の言葉に、電話の向こうで息を呑む気配がした。
『は……? お前、何様で……』
「私の命を守ってくれない人とは結婚できません。さようなら」
電話を切ろうとしたその時、悠真が冷ややかな声で言った。
『……そうかよ。こっちから願い下げだ。親の好意を踏みにじるような女、うちの敷居は跨がせない』
「それは良かったです」
『ただな、会社には覚悟して来いよ? お前みたいな非常識な人間、俺が上司に報告してやるからな』
一方的に電話が切れた。
ツー、ツー、という電子音が虚しく響く。
上司に報告?
私たちが同じ職場であることを利用して、私の立場を悪くするつもりだろうか。
確かに、彼は営業部のホープで、外面はいい。あちらが「被害者」として振る舞えば、私は「婚約者の実家で暴れた頭のおかしい女」に仕立て上げられるかもしれない。
ふと、テーブルの上に視線をやる。
そこには、昨日会社でもらった花束を飾るつもりで用意していた、空っぽの花瓶があった。
命からがら逃げ出した私は、あの美しい花束さえも、あの忌まわしい家に置き去りにしてきてしまったのだ。
祝福の象徴だった花は今頃、カニの死骸と共にゴミ箱に突っ込まれているのだろうか。
「……会社、辞めよう」
私は決意した。
もう、あの会社にはいられない。婚約破棄となれば、どちらにせよ居づらくなる。
何より、あんな男と顔を合わせたくない。
私はパソコンを開き、『退職願』の作成を始めた。
悔し涙がキーボードに落ちる。
どうして被害者の私が、逃げるように去らなければならないのか。
でも、これで終わりじゃない。
彼が「上司に報告する」と言ったのなら、受けて立とう。
最後の挨拶くらい、きっちりさせてもらう。
私は震える指で、退職理由の欄に書き込む文章を考え始めた。
これは、ただの退職ではない。
私の尊厳を守るための、最後の戦いだ。
「母さんが泣いてたんだぞ!」 ……知らんがな。
読者の皆様の声を代弁しておきました。 自分の婚約者が死にかけているのに、母親の機嫌を優先する男。これ以上の「無理物件」はありません。
さて、彼は最後に余計なことを言いました。 『会社の上司に報告してやる』
自ら墓穴を掘りに行きましたね。 彼は忘れているようです。アレルギーの診断書が会社に提出済みであることを。そして、上司がまともな常識人であることを。
次話、いよいよ反撃開始です。 会社を巻き込んだ公開処刑(話し合い)が始まります。 スカッとする展開が待っていますので、ぜひ第4話へお進みください!




