第10話(最終話):静かな解決──美咲の新しい日常へ
長い戦いが終わりました。 かつては「命がけ」だった食事の時間。
でも今の美咲の目の前にあるのは、山盛りのカニでも、無神経な婚約者でもありません。 アレルギーを理解し、尊重してくれる「当たり前」の優しさです。
どうぞ、最後は温かい気持ちで。 彼女が本当の幸せを掴む瞬間をご覧ください。
「──乾杯」
グラスが軽く触れ合う澄んだ音が、店内の落ち着いた照明に溶けていく。
金曜日の夜。私は都内の隠れ家的なビストロにいた。
目の前に座っているのは、転職先の先輩である高橋さんだ。
穏やかな笑顔が似合う彼とは、仕事でペアを組むうちに自然と親しくなり、今日はこうして初めての食事に来ていた。
「料理、大丈夫そうかな? お店の人には伝えてあるけど」
メニューを開きながら、高橋さんが気遣わしげに尋ねてくる。
予約の際、彼は真っ先に私のアレルギーのことを店に確認してくれていた。
「はい、ありがとうございます。シェフの方がわざわざ挨拶に来て、『甲殻類は一切使用していませんし、調理器具も分けています』って言ってくださったので」
「そっか。よかった。万が一があったら大変だからね。……怖かっただろう? 以前、大変な目に遭ったって聞いてたから」
彼の言葉には、少しの軽んじる響きもなかった。
「大げさだ」とも「好き嫌いだろう」とも言わない。
私の命に関わるリスクを、自分のことのように慎重に扱ってくれる。
──ああ、これが「普通」なんだ。
私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
かつて、あの地獄のような食卓で、私の恐怖を嘲笑った人々とは違う。
私が求めていたのは、高級なカニでも、広い家でもなく、ただこの「当たり前の尊重」だったのだ。
「……美咲さん?」
「あ、すみません。ちょっと、嬉しくて」
私は涙をごまかすように微笑み、運ばれてきたサラダを口にした。
野菜のシャキシャキとした食感が心地よい。
喉が詰まるような恐怖も、吐き気も、ここにはない。
◇
食事を終え、駅への道を並んで歩く。
夜風はもう冬の匂いがするが、隣を歩く彼の存在のおかげか、寒さは感じなかった。
ふと、スマホを見る。
ニュースサイトの片隅に、地方の物流倉庫で起きた小さなトラブルの記事が出ていた。
もちろん、悠真のことではない。けれど、彼が今いる場所も、きっと寒くて孤独な場所なのだろう。
風の噂では、悠真は左遷先でも「俺は本来こんな場所にいる人間じゃない」と周囲を見下し、完全に孤立しているという。
義母と義姉は、荒れ果てた家で今も責任を押し付け合い、罵り合う日々を送っているらしい。
義父は若い愛人を作って逃げたとか、そんな話も聞いた。
かつて「新鮮なら死なない」という歪んだ理屈で、私を追い詰めた彼ら。
皮肉なことに、彼らの人生こそが今、腐敗し、崩れ落ちていっている。
彼らがどうなろうと、もう私の知ったことではない。
憎しみすら、時間の経過と共に風化し、ただの「過去の教訓」へと変わっていった。
「美咲さん、来週の休みなんだけどさ」
高橋さんが、少し照れくさそうに頭をかいた。
「もしよかったら、映画でも観に行かない? 気になってる作品があるんだ」
私は立ち止まり、彼を見上げた。
街灯に照らされた彼の表情は、優しくて、誠実だ。
この人と一緒なら、きっと穏やかな時間を積み重ねていける。
私は深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。
肺いっぱいに満たされる、澄んだ夜の空気。
喉に何の違和感もない。息ができる。生きていける。
「はい、喜んで」
私は彼に、心からの笑顔を向けた。
あの日の命がけの逃走劇は、決して無駄じゃなかった。
私は自分の足で逃げ出し、戦い、そしてこの平穏な場所へと辿り着いたのだから。
私の新しい人生は、ここからまた始まる。
美味しくて、安全で、幸せな日々が。
(完)
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
「新鮮なら大丈夫」という狂気から逃げ出し、美咲が自分の人生を取り戻せて本当によかったです。
皆様の応援のおかげで、無事に彼らを地獄へ送ることができました。
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最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
また別の物語でお会いしましょう!




