プロローグ
無意識と対話しなければ、人は永遠に外界の影響に翻弄される。 — カール・ユング
◆
終わりが終わってしまう
最も美しい瞬間
スタッフロールをぼんやり眺めている気分
終わってほしくない
そう願うのは、いつぶりだろうか
少し夢でも見ていたのだろうか?
まだ微睡んでいるまぶたをゆっくり開けていく。
「………んっ!?」
彼は思わず飛び起きる。そして辺りを見回す。
火がくべられた小さな暖炉、品の良さそうな絨毯、そして――
「目が覚めたようだな」
突然の女性の声。
反射的に、声のするほうへ顔を向けると、部屋の奥でうすぼんやりと照らされた顔が、こちらを伺っていた。
「めが、さめたようだな」
驚きのあまり固まっていると、その女性は同じ言葉を、ゆっくりと強調するように繰り返した。
その声色は冷たく、敵意すら感じるほどだった。
「ええ…そのようです、ね…」
答えを探るかのように、彼は答えた。
実際、目が覚めているのかも定かではない。暖炉、絨毯、うず高く雑に積まれた分厚い本、暗くてよく見えないが奥には何やら実験道具のようなものまである。彼の知っている日常とはかけ離れ過ぎていて、まるでまだ夢の中のようなのだ。
「そうか……で、立てるか?」
女性は少し前のめりに、頬杖をして訊く。
彼は少し慎重に、ゆっくりと立ち上がり、ええ、と短く応える。
それなら――と、彼女は前のめりの姿勢を戻した。そして彼の後方を手のひらで指し、
「出口はそちらです」
と。
――え?
あっけに取られた彼は、まだ整理のつかない頭で、のそのそと促されるまま部屋の扉の前に立つ。
なじみのない扉の形状だったが、これだけはわかる。この扉が玄関口で、開ければ外なのだと。
ドアノブに手をかけつつ、隣の窓をのぞく。外はすっかり夜。先ほどまで雨が降っていたのだろう、窓にには水滴が付き、部屋の薄明りをキラキラと映していた。
「あの……」
ドアノブにかけた手を放し、戸惑いながら振り返る。
しかし、被せるように、
「ああ、礼は結構だ。雨も上がっているのだろう?どうぞ」
と、本でも読んでいるのだろう彼女は、目線を落としたままそう応えた。
しかし、彼も引くことは出来ない。こんな訳の分からない状況で、しかも夜で、どうやら衣服以外持ち合わせていないなかで、この家を出るなど無謀過ぎる。
まずは状況整理が必要だ。それには時間と、出来れば誰か話の出来る相手が欲しい。そしてこの家には、辛うじてその条件が揃っている。安全を確保できそうな壁と屋根、暖かい暖炉、話の出来る相……手かどうかは保留だが、とにかく最善策がここにある以上、安々と身を引けない。なんとか場をつないで糸口を探さないと。
「いえ、それが……」
その言葉に、彼女は落としていた目線を上げた。
「どうやら、忘れ物があるようで……」
「忘れ物?なんだ?」
「そうですね……帽子、でしょうか?」
「帽子?……私が拾った時にはすでに被っていなかったぞ」
「そうでしたか……では、鞄、かも……?」
「鞄も、身につけてはいなかったな」
「そうなんですね……そう……あとは……」
所持品を確認するような仕草をしつつ、彼は何とか場を持たせようとしたが、
「君は、何一つ、ここに忘れ物はない。君は確かに、私が発見した時と、なんら変わりない状態だ。安心してくれ」
そのはっきりとした冷たい口調に、彼は喉を詰まらせる。では、と再び出口を手のひらで指され、再び彼女は目線を本へと落としてしまった。
――少しの静寂。
その静寂は、彼女にとっては一瞬で、彼にとっては永遠に感じた。
その一瞬で永遠の静寂の中、彼は詰まらせた喉を無理やり開き、
「すみ、ませんが……」
と消えそうな声で言うと、彼女は小さなため息を一つし、面倒くさそうに視線を彼にやる。
「飲み物を、いただけませんか?」
「………………………………はぁ……」
その彼の提案に彼女は、心底面倒くさそうにため息をした。
***
(正直、本当に飲み物を出してくれるとは思わなかったな)
木のカップに注がれた白湯を眺めながら、彼はそう思った。
冷たい物言いをする人だが、決して悪い人ではないのだろう。
先ほどの会話から、どうやら彼は彼女に助けられている。雨も降っていたのだろう、乾いた泥がべっとりついている。きっと乾くまで暖炉の前で寝かせてくれたのだろう。
しかし、その暖炉の前。敷かれたカーペットがまくれ。泥やらで汚れた床を綺麗に避けていた。きっと寝かせる前にまくったのだろう。
なんだか、少し優しさを疑ってしまう。
そして決定打は――先ほどの出来事だった。
***
「飲み物を、いただけませんか?」
飲み物を乞う彼にため息をしながらも、彼女は立ち上がり飲み物の用意を始める。その立ち上がりざまに、彼を暖炉の方へと、あごで誘導する。
彼は誘われるまま、先ほどまで寝ていた暖炉の前までやってくる。
テーブルを挟んで、そこそこ高級そうなソファが左右に二脚。
泥を避けるようにめくられたカーペットを恨めしく見つつ、右側のソファに腰掛けようとしたときだった。
「おい!」
突然の怒声で驚き、思わずひざが伸びる。
声の主を見やると、彼女はまたあごで何かを指し、彼を促そうとしている。
ゆっくりあごの示す先を見ると、何やら木箱が一つ。
座るなら、その木箱だ――そんな圧を彼は感じた。
***
そして今は、その高級そうなソファを恨めしく見つつ、木箱に腰掛けている。
まさに決定打だった。いくら彼が薄汚れていたとはいえ、まるで優しさが無い。
いやひょっとしたら、よほど大切なソファとカーペットなのではないか――
彼は改めてよく周りを見渡した。
薄暗いのでよくわからないが、そう考えれば、確かにカーペットとソファ、テーブルのここ一角だけが高級そうで、他はかなり粗雑というか、お世辞にも質が良いものではなかった。
ふう、とため息をひとつ。白湯を一口、大切にすすり、一旦まぶたを深く閉じる。
(いやいい……根はきっと優しいひとなんだろう。助けてくれたし。うん、そう助けてくれた……)
今からさらに助けてもらおうとする人に対して、憎悪は抱きたくない――彼はなるべくポジティブに捉えるよう意識した。
(さて、それはそれとして……)
この白湯を飲み切ってしまえば、きっと彼女はまた追い返そうとするだろう。
つまりこの白湯が残っているうちに、彼女に話しかけ、自然な対話ができるところまで持って行き、一晩ここで過ごさせてもいいと感じるくらいまでには信用を戴かなくてはならない。彼の主観的な常識なら、わざわざ助けた人間を、こんな夜に外に放ったりしない――このズレに、何か糸口がありそうだった。
強盗や強姦などへの恐怖……は確かにあるだろう。ここは慎重にならなくてはならない。
彼女には秘密があり、それが漏洩することを恐れている……ここも警戒すべき。顔色を伺いながら話を進め、そこに触れていそうなら話題を変えよう。
他には――と考え始めたとき、なんだか急にバカバカしくなった。
(……簡単に考えよう。僕は恩人である彼女を知りたいし、親しくなりたい。それでいいじゃないか)
***
(なんだか、こういう「初めまして、友達になりましょう」的なの、本当に久しいな……いい歳になると、こういった関係を一から作るのは……いや、営業マンとか経営者とかだと多そうだな)
そんなことを薄っすら考えつつ、あまり深く考えないで話のきっかけを、部屋の奥で読書にふける彼女へ振った。
「このソファ、座り心地よさそうですね……」
口から言葉が出てから、嫌味に聞こえたかも、と選んだ話題に少し後悔した。
「ん?ああ……座りたかったか?」
案の定、嫌味に聞こえてしまっていた。
「え?ああいやいや、僕もかなり汚れているようですし、汚してしまっては……大切なものなのでしょう?」
「大切なもの、か……なぜそう思う?」
「高そうですし、なにより綺麗だ」
彼女は少し部屋を見渡す。
「まぁ、この家の中では、多少は綺麗なほうかもな」
少しがっかりしたようなため息を漏らす彼女。彼も部屋を少し見渡す。
「多少……いやかなり綺麗に見えますよ」
そうだな――と彼女は腰に手を当てる。そして意地の悪い笑いを含くませてこう返した。
「そのソファに比べたら、他はかなり乱雑だ」
この瞬間、彼は直感した。いま自分は遊ばれているのだと。思えば、目を覚ました時から、どこか試すような口ぶりが多かったように感じる。
もしくは、人柄を試されているのかもしれない。追い込まれれば、人は本性が出る。いずれにせよ、彼女は今、自分に興味があるのだと。それなら――
「そうですね、少し片付けをした方が良いですよ、急な来客があったら大変だ」
乗ってやろうではないか。取り繕わず、気に入られようとせず――
「……例えば、僕のような」
一瞬だけ間が空く。さあどうだ素の僕はっ――
「…………ふっ」
息が漏れる音が聞こえた。
「ふふっ……っ…はははっ……いや、失礼、くくっ……君のような来客など、二度とあってたまるか……」
今まで感じていた冷徹さや意地の悪さとは違う、優しさのような温かさを彼女に少し感じた。
「いや悪かった。助けておいて、この態度は無かったな……。折角だ、少しお互いの話でもしようか」
そう言い、彼女は立ち上がった。
「紅茶でもいれよう」
***
きっと来客用なのだろう、綺麗なティーカップとソーサーに入れられた紅茶はとても香りが良い。
彼女のカップは、きっと自分用なのだろう。先ほど白湯をもらった木のカップとそう変わらない。
彼女はソファに腰掛け、暖炉の明かりを挟んで少し斜めに向き合う。
では――と、紅茶をすすりながら、今度は彼女から話を切り出していく。
彼は、相変わらずの硬い木箱の上で、彼女の声に耳を傾けた。
***
(座らせてはもらえないんだよな……)
彼はその座り心地の良さそうなソファを軽くつま先で小突く。そしてカーペットを可能な限り丁寧に丸め、借りた毛布のようなものを暖炉の前に敷き、寝床を作った。そして横たわると、安堵感からか急にまぶたが重くなる。彼女――ルナリアは、既に寝室へ入っている。
(ルナリア、さん……か。結局、名前くらいしか聞けなかったな)
お互いの話を、と言っていたにも関わらずルナリアは、自分の名前がルナリアであること、ここは自宅兼ポーション工房であることくらいしか話さなかった。
しかし、彼にとってはよい収穫となった。ここが異世界であることがほぼ確定したのだ。
ポーションなんて、彼の知る世界では実在しない。そしてそれはつまり、いま家に帰ることを考えるよりも、まずはこの世界でどう生きるかを考えた方が建設的であることを示していた。
生活や異文化などの大きな不安を抱えたままの状況下では、パフォーマンスは大きく低下する。それはいずれ近いうちの死につながる。
まずは生活基盤をどうにかし、その上で先のことを考えること――方向性が決まり、少しだけ安堵する。
そして対話の中でもう一つ、分かったことがあった。
――彼は、自分のことが思い出せないのだ。
***
それはルナリアに名前を聞かれた時だった。
少し大げさに答えてやろうと、一呼吸置いて発音しようとした瞬間。
記憶の中に当たり前にあったはずのその名前が、淡雪のように記憶から徐々に消えていく。
心臓が跳ね、どくどくと耳元で鼓動する――
探れば探るほど、もがけばもがくほど、深く沈む底なし沼。
大切なものが消えていく焦りは体温を奪っていくかのように、手足は冷たく凍え、体は震え始めている――
視界が徐々に暗くなり、自分さえも消えて――
(…い…!)
――遠くで、何かが聴こえた。
(…おい…!)
今度はもう少しはっきりと。
「しっかりしろ!おい!」
ルナリアの声で、はっと意識が戻っていく。倒れる寸前だったのか、体は斜めに傾き、まさに木箱から落ちる寸前だったところを、ルナリアが左肩を手で支えてくれていた。手足は未だ冷たく痺れている。それでいて、背中にはびっちょりとした汗の不快感。
「大丈夫か⁉」
大丈夫です、という一言を発するのも怖く、代わりに膝の上で小さく左手をあげた。
まだ熱い紅茶をゆっくりすすると、だんだんと落ち着いていく。
体が持ち主へと戻っていくような重たさと、夢から醒めていくような浮遊感。
きっと冷たい海にでも溺れていたのだろう。
大きく深呼吸すると、ようやく意識がはっきりしていった。
「すみません……もう、大丈夫」
もう一呼吸、大きく。ルナリアは心配そうに顔を覗いている。
「そうか?あまりそうは見えないが……まぁあれだ、今夜はゆっくり休め」
***
記憶喪失、とはこういうものなのだろうか?
傷口を触るように、恐る恐る、改めて記憶を探ってみると、まるでドーナツの穴のように「自分」という記憶がすっぽり無いようだった。
名前、年齢、姿、生い立ち――それらは跡形もない。
しかし、過ごしていたであろう時代、環境、得たであろう知識、知恵――それらは断片的には思い出せる。だが思い出せるところから、個人情報へアクセスしようとすると、ふっと名前の時のようにすり抜けていく。痒いところに手が届かないもどかしさ。しかし――
(この問題の優先度は、多分低いよな……)
そもそも、どうやらここは異世界。自分の過去を知ったところで、周りは自分の過去を知らないので、不便は限定的のように感じる。それよりもやはり明日以降の生活。食わねば死ぬ。死ねば記憶など関係ない。記憶は食えない。であれば、まずは食うこと。生きることが前提で、全てはそこからだ。
***
微睡んでいたはずの瞳は醒めてしまっていた。
ふと、窓からの明かりが気になる。月明かりだろうか。窓が曇ってよく見えない。彼は立ち上がり、少し外の空気を吸うことにした。
静かに扉を開け、外に出ると、やはり雨が降っていたようで、草木や土の匂いが濃かった。
そしてなによりも――
星空が、綺麗だった――
息をのみ、息をするのも忘れそうな、見上げていると眩暈を起こしそうな、そんな星空。
知っている星座は見当たらない。そもそも、これだけの星がみえたら、知っていても見つけられないだろう。
――それは、自分自身と、同じなのかもしれない。
なぜか、そう思った。




