第2話「腹の底の痛み」
語りは新キャラのお嬢様口調中堅ボクサー・ミサキです。なかなか唐突な登場ですが、これから重要な立ち位置になるキャラなのでご容赦ください。
ジムの扉が開いた瞬間、空気が変わった。
誰もがそう思ったはず。もちろん、わたくしも。
その女の子——マツリさん、だったかしら。小柄で、肌は雪のように白くて、髪は栗色のセミロング。まるで絵本から抜け出してきたような、儚げな雰囲気。
でも……彼女の目は、違った。静かに燃えていた。獲物を狙う猛禽のような、音もなく標的を追い詰める、そんな目をしていた。
わたくしの名前はミサキ。このジムでは中堅のボクサー。見た目は、おっとりしていると言われることが多いし、丁寧な言葉遣いをするせいで、お嬢様ぶってると思われることもしばしば。でも、そんなのは見せかけにすぎませんわ。
この世界では、腹の底に何を隠しているかが勝負を分けるの。
でも——あの時ばかりは、わたくし自身、腹の中がざわついてしまったのよ。
「ユリカさんですね?」
その子が、ジムの奥にいたユリカさんにまっすぐ近づいた時、誰もが息を呑んだ。
ユリカさんは、サンドバッグに肘をかけたまま、目も逸らさずに言った。
「……誰?」
「マツリと申します。“フミヤの妹”です」
ざわ、と空気が揺れた。
あの名前を出したことで、場の温度が明らかに変わった。
「兄の、あの日の件。見ました。……私は、貴女を許しません。私と戦ってください」
その言い方は、感情を抑えたものだったけれど……だからこそ、怖かった。
「お、おいおい、ちょっと待って! なに? いきなりバトルモード入ってる?」
間に割って入ったのは、マキさんだった。
赤い眼鏡の奥の目は、相変わらずどこか抜けていて、どんな場面でも深刻にならない人。わたくしは苦手でもないけれど、あの人の空気の読めなさが時々怖くなる。
「いやいや、ほんとに! ユリカは悪くないって! てか、あれはノリっていうか……まぁ、ちょっとやりすぎた感は否めないけど~」
「それが、“悪くない”という判断基準ですか」
マツリさんの声は、礼儀正しく、そして氷のように冷たかった。
その一言で、マキさんもさすがに苦笑いを浮かべていた。
ユリカさんはずっと無言で、ただ相手を見つめていた。
「……今日のところは帰ります。けれど、近いうちにまた参ります。その時、正式に入門させていただきます」
そう言って、彼女は背を向けた。
去っていく背中は、なぜだかとても小さく見えて……だけど同時に、妙な重さがあった。
あれはきっと、重たい覚悟の背中だったのだと思う。
その日の夜、家に帰っても、わたくしの胸の奥はずっとざわざわしていた。
いつもならプロテインを飲んで、筋トレして、シャワーを浴びたら忘れるはずなのに。
でも今日は、ベッドに入っても眠れなかった。
——思い出していた。
あの“罰ゲーム”の夜のことを。
笑いながら、わたくしは輪に加わっていた。
サンドバッグのように膝をつくフミヤさんを見て、腹を抱えて笑っていた。
「まあまあ可愛い顔して、胃液まで出してるじゃありませんの〜」とか、
「男なのに情けないですねぇ」とか、
わざとらしく清楚な口調で冷やかして……まるで舞台の上の役者みたいに。
あの時は楽しかった。
目の前の“標的”が、どんなふうに壊れていくかを観察するのは、正直——“快感”だった。
……でも。
今日のあの目を見てからは、違うの。
彼女の怒りは、まだこちらを向いていない。それはわかってる。
でも……向けられたら、どうなるんだろう。
その時、あの目で見られたら——わたくし、きっと笑っていられない。
次の日、ジムに行ったとき、マツリさんの姿はまだなかった。
だけど、どこかに彼女の影がある気がして、視線を探してしまった。
「フミヤの妹が来るとか、マジで事件じゃん?」
そんなふうに女子たちが笑っているのを聞くと、なぜだか苦いものが込み上げてくる。
……あんなの、わたくしも言っていたはずなのに。
その日、わたくしは一度も鏡を見なかった。
だって、腹筋よりもずっと、“腹の底”が痛かったのだもの。
——ああ、どうして今さら後悔なんて、しているのかしら。
彼女の怒りが、わたくしを見ていないうちに。
このまま、気づかれずに通り過ぎてくれたら。
ほんの少しだけ、そんな虫のいい願いを、心のどこかで思ってしまう。




