第8話「託す拳、繋ぐ想い」
この回だけは、自分で考えたのに自分で泣いちゃうんですよね。
【フミヤ視点】
僕はもう、一度もこのリングに立つことはないと思っていた。
月明かりの差し込むジムの中。誰もいないリングに、僕とマツリだけ。あれほど恐ろしくて、逃げ出したくてたまらなかった場所なのに、今は不思議と落ち着いている。
「お兄ちゃん、手加減してね?」
マツリがグローブを着けながら、そう言って笑った。
いつもの丁寧な口調じゃなくて、こんなふうに砕けた言葉を使うのは、昔から僕にだけだ。小さな妹が、今では僕より頭ひとつ分以上も背筋を伸ばして立っている。
「……そっちが手加減してくれよ」
情けない返ししかできない自分が、少し悔しい。でも、これが現実だ。マツリは強くなった。僕の知っていた、誰より優しくて、泣き虫だったあの子じゃない。
軽くグローブをぶつけて、スパーが始まる。パン、と音が鳴るたびに、僕の身体が自然と後ろに引く。恐怖が、身体に染みついている。拳がトラウマの記憶を呼び起こす。
でも、マツリの拳は違った。冷たくない。痛みもあまりない。手加減してくれてるのが分かる。だけど、その中に確かな芯があった。
「ほんとに……強くなったんだな、マツリ」
「ふふん、当然でしょ? あのユリカをぶっ飛ばすんだもん。……でもね」
一拍置いて、マツリの瞳がまっすぐ僕を見た。
「最初はね、怖かった。あの動画見て、泣いて、悔しくて、どうして私がこんなことしなきゃいけないのって思ったよ。でも……今は違うの。お兄ちゃんが憧れてたボディブロー。私もそれを“握る”のが楽しくなったの」
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。僕のせいで、僕の“弱さ”のせいで、マツリはこんな思いをしてきた。どれだけ怖かったか。どれだけ苦しかったか。それでも今、彼女は拳を握って笑っている。
「マツリ……僕は、ほんとうに……」
「謝らないで」
マツリが僕の胸に、そっと拳を当てた。
「お兄ちゃんのせいじゃない。……私が戦うのは、復讐のためだけじゃない。お兄ちゃんのこと、助けられなかった自分への悔しさ。それに……私自身が、本当に強くなりたいって、今は思ってるから。
だからお願い。お兄ちゃんは、ボクシングから自由になって」
涙が、自然と溢れた。僕は、ようやく分かった。
僕は、もうボクシングをしなくていい。強くならなくてもいい。誰かに勝たなくてもいい。マツリが、僕の代わりに全部を受け止めてくれたわけじゃない。マツリは、マツリの道を選んで、今ここに立っている。
だから――僕は、ようやく言えた。
「わかった、マツリ。……全部、任せたよ」
彼女は、少しだけ泣きそうな顔をして、それでも誇らしげに笑った。




