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第一章

「感情」と「記憶」が証拠になる世界へ


本作『ラスト・シナプス』は、科学ミステリーというジャンルの中でも、特に「人間の内面」を舞台にした物語である。血の匂いが漂う密室も、緻密に計算された殺意も、そして証拠として浮かび上がる“感情のログ”も、すべてが人間の脳という小さな宇宙の中で起きている。


科学は、真実を暴く光となるのか。それとも、人の心を蝕む闇にもなりうるのか。


物語の中心となる「共感記録システム(ERS)」は、フィクションの装いをしているが、現実の科学技術ともそう遠くない位置にある。ミラーニューロンによる共感のメカニズム、脳波から感情を読み取る研究、AIによる行動予測――こうしたテーマは、すでに論文の中で語られ、研究者たちの手によって実験され始めている。


筆者がこの作品を書くきっかけとなったのも、ある神経科学の論文だった。人間は他者の悲しみに「同調」する際、脳の中でまるで自分が傷ついたかのような活動を見せるという。つまり、他人の痛みは「想像」ではなく「再現」されているのだ。


だが、ここに矛盾がある。


では、なぜ“人を殺す”ことができるのか?

共感が、すべての人に平等に備わっているならば、なぜ戦争は起きるのか?

なぜいじめが起こるのか?

なぜ「無関心」という暴力が、存在するのか?


この問いは、医学ではなく、物語によってしか答えられないと感じた。だからこそ、共感を“記録”するという逆説的な装置を物語の中に配置し、それがどのような真実を映し、また隠すのかを描いてみたかった。


伏見怜という存在について


主人公・伏見怜は、元精神科医でありながら、ある事故をきっかけに「自分の感情を感じることができなくなった」という設定を持っている。彼は、他人の感情の微細な兆候を観察する能力に長けているが、それを“共感”と呼ぶことにはためらいがある。なぜなら、自分ではそれを感じることができないからだ。


彼は冷徹な分析者として事件に挑むが、物語が進むにつれて、かつて失われた自分の「感情」にも向き合うことになる。その過程こそが、本作のもうひとつの核でもある。


彼の苦悩は、決して特異なものではない。私たちもまた、日常の中で「自分の感情がわからない」と感じる瞬間がある。悲しいのか、怒っているのか、あるいはただ疲れているだけなのか。人間の心は、思っているほどシンプルではない。


感情とは何か。

記憶とは何か。

それらが人間のアイデンティティにどう関わるのか。

本作を通して、伏見怜と一緒にその謎に近づいていくことを願っている。


「真実」とは何か


本作の舞台となるのは、山間の閉鎖された研究所という、どこか古典的なミステリーの装置である。セキュリティに守られ、外界から隔絶された空間で、人間関係とテクノロジーが複雑に絡み合い、殺人が起きる。


だが、本作で最も重要な「密室」は、物理的な空間ではない。それは人間の「脳内」である。

思考の迷宮。記憶の断片。感情の波形。

そのすべてが真実を囲む壁となり、伏見たちはそれを突破しようとする。


ERSに記録された「恐怖」。

しかし、そこには“誰の顔も記録されていない”。


この矛盾を解く鍵は、科学的なロジックだけでは見つからない。科学とは、あくまで「観察された事実」に過ぎないからだ。本当に重要なのは、「なぜその事実が隠されたのか」という、人間の意図である。


本作の中では、複数の容疑者が登場し、それぞれに過去と動機がある。だが最終的に明かされるのは、「科学に裏切られた者の、深い悲しみと怒り」である。


そして、それこそが最もリアルな“共感”の形であると信じている。


フィクションの限界と希望


本作には、実在の人物・団体・技術がモデルとなっている部分がある。しかし、あくまで本作はフィクションである。現実の科学や技術は、倫理的配慮と慎重な検証のもとに発展しており、決して感情を踏みにじるものではないと信じたい。


だが、フィクションだからこそ描ける「最悪の可能性」もある。

「もしも、感情が記録され、操作されるようになったら?」

「もしも、人の心の中に踏み込むことが、犯罪捜査の手段になったら?」


このような問いを、読者の皆さまと共に考えるために、本作は存在する。


そして同時に、こうした技術の進歩によって「人をより深く理解する」ことができるようになる未来もまた、描いてみたい希望でもある。


伏見怜の旅路は、科学が人間をどこまで理解できるのか、そして理解した先に何があるのかを探る旅でもある。


この物語が、読者の皆さまの中に眠る「共感」というシナプスをそっと揺り動かすことを願って――。



 曇天の下、山間部にひっそりと佇む研究所は、まるで外界から切り離された別世界のようだった。鬱蒼とした森を抜けると、金属とガラスで構成された建物が現れる。冷たく、無機質で、完璧に整っている——まるで感情を拒絶するかのようなその佇まいに、伏見怜はわずかに眉をひそめた。


 数年ぶりに訪れたこの場所は、記憶の奥底にある感覚を呼び覚ます。大学時代の旧友、水野統馬が主任研究者として働いていた国立脳科学技術研究所。今は彼が冷たい死体として発見された、現場でもある。


「こちらへどうぞ」


 無表情な女性警備員に案内され、伏見は施設内のセキュリティゲートを通過する。生体認証と多段階のID確認が行われ、静まり返ったロビーに足を踏み入れると、冷気のような緊張感が全身を包んだ。


「伏見先生、こちらへ」


 彼を迎えたのは、警視庁サイバー犯罪対策課の仁科航平だった。四十代半ば、無駄のない体躯に鋭い眼差し。伏見とは過去にある事件で関わりがあり、相性は最悪に近い。


「相変わらず冴えない顔してるな、仁科警部」


「お前もな。感情がないのは仕様だったか」


「だから、いちいち説明させるなよ。前頭前野の損傷による感情認知障害——診断名は聞いてないか?」


 軽い皮肉とともに交わす言葉には、しかしどこか旧知の間柄ゆえの馴れ合いが滲む。だが、その余裕はすぐに剥がれ落ちた。


 研究所の地下実験室。強化ガラスの向こうに、無惨な姿の水野が横たわっていた。


「死因は?」


「頸椎の骨折。だが争った形跡がない。密室だ。電子ロックも解除された痕跡なし」


「ERSの記録は?」


「これが妙なんだ」


 仁科が手渡したタブレットには、水野の最期の脳波と感情ログが映し出されていた。ピークに達した「恐怖」の波形。瞳孔拡大、心拍上昇、そして直後の急激な沈静化——死。


「恐怖は記録されている。でも、何に対しての恐怖かが不明?」


「ああ。ERSの視覚データには——“誰も映っていない”」


 それが、事件の矛盾だった。


 ERS——Empathy Recording Systemは、装着者の感情と主観的知覚情報をリアルタイムで記録するシステム。外部刺激と感情反応の関連を高精度に記録するが、今回、その視覚記録に“犯人の姿がない”のだ。


「何かが消されている。あるいは最初から記録されていない」


 伏見はそう呟いた。


 ***


 事件当日の状況を把握するため、伏見は施設に常駐する職員への聞き取りを開始した。第一に会ったのは、赤堀千景。ERSの脳波解析AIの開発責任者で、白衣の裾を翻しながら、ガラス張りの廊下を歩いていた。


「赤堀さん、少し時間をいただけますか」


「……ええ。けれど、あなたは?」


「伏見怜。水野とは旧友でした。今回は警察の協力要請を受けて、調査に入っています」


 冷ややかな視線。それでも彼女は頷き、会議室に入った。


「被害者との関係は?」


「職場上の付き合いだけです。彼は……仕事には厳しい人でした」


「論文の件、ご存じないとは言わせません。あなたの成果を水野が横取りした件」


 一瞬、表情が凍る。伏見はその0.5秒の感情のズレを見逃さない。


「……古い話です。私が未熟だっただけ」


 目を伏せたその態度からは、明らかな“怒りの残骸”が読み取れた。だがそれは、彼女が犯人だという証左にはならない。


 伏見は次に、赤堀の使用していた端末のアクセスログを確認した。


「AIログに痕跡がある。“消去された行動履歴”……?」


「ごく短時間だが、ERSのAI部分に直接アクセスしたログがある。しかも、ユーザー操作履歴が消去されている。手動でやったならかなりの技術者だ」


 仁科が言う。


「彼女しかできない処理だ。だが、それが殺人とどう結びつくかは、まだ断定できん」


「赤堀は“疑わしき者”としては優秀すぎるな。むしろ、ミスリードの匂いがする」


 伏見の目は細められた。彼が重視するのは、表情ではなく“非言語的な微細な兆候”だ。赤堀の仕草、目線、話の間合い——そこに、計算された嘘の形跡はない。だが、無意識的な矛盾がいくつかあった。


「ERSに誰かが細工をした。赤堀がそれを隠そうとしていた可能性はあるが、動機が決定的じゃない」


 ***


 次に面会したのは、被害者の元恋人、林繭子だった。


「水野さんは……最近ずっと何かに怯えていた気がします。夜中にひとりでERSの部屋にこもったり」


 伏見は言葉を遮らずに彼女の言葉に耳を傾けた。


「何かを隠していたのでは?」


「わかりません。ただ……『ERSは完成したら人間を壊す』って、彼が言ってたんです」


 壊す。誰を? なぜ?


 林の手が震えていた。伏見はそれを見逃さなかった。だが、それは恐怖か、後悔か、それとも別の感情か——彼自身の“感じられない心”では、それを確かめきれない。


「ERSは、人の感情を覗けるが、覗かれた側がどうなるかはわからない」


 彼の言葉に、林は目を伏せた。


 ***


 その夜、伏見は研究所の一室で、ERSの再解析に取り組んでいた。AIアシスタント「ルカ」が画面に浮かぶ。


『伏見さん、ERSログに異常な“共感断絶パターン”が検出されました』


「共感断絶……?」


『通常、恐怖反応時にはミラーニューロン活動が活発になります。しかし、水野統馬の脳波にはそれがない』


「つまり、彼は“誰かの感情”をまったく認識していなかった……?」


『そう解釈できます。まるで、相手が“存在しない者”であったかのように』


 伏見の背筋に、ぞくりとした感覚が走る。感情を感じられないはずの彼に、それは“感覚”として確かに残った。


 犯人は、存在しない?


 あるいは、存在を——“消していた”のか?

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