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*1*


 僕は、あと何時間後かには25歳になろうとしていて、すでにイタリアン・ロースト・コーヒーは、ぬるくなっていた。


 東京に出てきて丸3年になる。僕は、ファッション誌を見ながら長くなった髪の毛をくしゃくしゃした。窓ガラスに写る自分のシルエットを見て、ボブ・マーリーのポスターを思い出した。


『隣座ってもいい?』

そう言ってきた女の子は、僕が答える前に隣に座った。彼女は、僕の席のななめ後ろを陣取っていた3人組の1人だ。


『髪型変えるの?』

そのあと、彼女はいくつか質問をしてきたが、僕は適当に答えていた。初対面で相手にタメ口を叩く人間は信用できないが、何となく耳は傾いていた。そして30分後には、2人でこの喫茶店を出ることになるなど知る由もなかった。


 相変わらず、彼女は僕に質問攻めを続けていたのだが、やがて僕の興味のある話にぶち当たると、僕もついつい喋ってしまった。彼女も要領が良いので、その話をどんどん広げていった。彼女は小柄で、髪は短く、歳も同じくらいではないかと思えた。育ちが良いということはないけれど、少なくとも悪い感じはしなかった。


『髪の毛切ってあげようか?私、美容師やってたんだ』


『会って30分も経たない男の髪の毛を切るなんて、普通の神経じゃないね。本気で言ってるの?』


『いいよ。お金もいらない』

何か裏がある、そう思ったが、彼女に興味がわいてきたのでお願いすることにして店を出た。彼女の友達であろう2人が笑いながら手を振っている。火曜日だが池袋はいつものように混雑していた。


『家でカットするから』


『家はどこなの?』


『雑司ヶ谷。歩いていこうよ』

彼女はそう言い、前を歩いた。彼女は、美容師の学校に通ったあと美容院で働いていたが、今は辞めてしまったらしい。明治通りを歩きながら、家に着くまで色々話した。美容業界の裏話やタブーも教えてくれた。


『そう言えば、名前、何て言うの?』


『山本』


『私が聞いてるのは名字じゃなくて名前よ』


『龍之介』


『ふうん。私は柊』


『ひいらぎ?』


『うん。柊』



*2*


 彼女の部屋は、アパートの二階だった。


『お邪魔します』

そう言って中に入ると、やはり興味深いものが溢れ返っていた。

部屋には写真が貼り詰めてあり、隙間の白い壁には直接クレヨンで落書きがされていた。テレビもラジオもないけれど、音楽は聴けると言って、彼女はステレオコンポの電源を入れた。スピーカーからはエアロスミスが流れてきた。彼女は、部屋の隅に脱ぎ捨ててあったズボンとパンツとブラジャーを片付け、無造作に置かれたニコンの一眼レフを丁寧にケースにしまった。


『しばらくゆっくりしててね』

そう言って、彼女はキッチンで料理か何かを始めた。


 変なものを除けば、本当にシンプルな部屋だった。僕は、待っている間、壁の写真を見ていた。風景や動物の写真の他に、原発反対と書かれたプラカードを持った群衆の写真やホームレスの写真まで様々だった。


『何か飲む?』


『じゃあビールある?』

もう彼女に対して遠慮なんかいらないと思った。


『ビールは私が飲む分しかないから駄目』

そう言って、ワイルド・ターキーと氷の入ったグラスを持ってきた。彼女が先に飲んでていいと言うので乾杯もせずに、ひとりで飲み始めた。ジョー・ペリーのギターを英語のリスニングテストのように注意深く聴いたのは初めてかもしれない。皿を両手に彼女が戻ってくると、そこには茸のスパゲティが盛られていた。


『茸、大丈夫よね?』


『大丈夫だけど、そういうことは作る前に聞いた方がいいと思うよ』


『冷蔵庫にこれしかなかったの』

ありがとう、いただきますと言って2人でスパゲティを食べた。彼女はビールを飲み、僕はワイルド・ターキーを飲みながら。


 彼女にいろいろな話をした。

小学校から高校まで野球をやっていたこと、

反抗期に学校の先生をノイローゼにしてしまったこと、

父が自分で古タイヤに交換したパジェロが高速道路でバーストし一家全員死にかけたこと。

彼女は、だいたい腹を抱えて笑いながら僕の話を聞いていた。


 彼女も、いろいろ話してくれた。

子どもの頃に両親が離婚したこと、

美容師をやめて今働いている花屋のこと、

近いうちに猫と暮らそうと思っていること・・・


『龍之介くんは、いくつなのかしら』


『あと少しで25になる。24時になればね。柊ちゃんは?』


『私も25よ。私はこの前の2月に25になったの』


『じゃあ、学年ではひとつ上になるね』


『今一緒にいるのに、そんなくだらないこと言わないでよ。何よ、学年って。私とあなたの誕生日は2ヶ月しか変わらないのよ。例えば、あなたに8月生まれの"同学年の"ガールフレンドがいたとしとても、あなたと私の誕生日の方が近いのよ。でも、学年というまとめ方で分けられちゃうの。理不尽だと思わない?』


 僕は頷いた。

『同じ辰年だしね』


彼女は、ピアニッシモをくわえた。



*3*


 しばらくして、彼女の眠たそうな様子に気付いた。


『休めば?』

と僕が言うと、彼女は立ち上がり、部屋の四隅に置いてあるロウソクにマッチで火をつけた。テーブルの上にも一本のロウソクを置いた。


『いつも夜は電気を点けずにこうしているの』

そして、彼女は壁に向かってサカダチをした。スカートは地球の重力によってめくられて、顔が見えない。僕はその奇妙な光景を黙って見ていた。5つのロウソクの灯が壁の写真に反射して思っているより明るい。


『時々こうして、頭に血とか酸素とか栄養を強制的に送ってやるのよ』


『君は、いささか頭がおかしいんだろうね』


『そうかもしれないね。でもあなたも他人のこと言えないのよ』

そして彼女はサカダチをやめた。テーブルに戻って来てビールを飲み、血が上り赤くなった顔に頬杖をつき僕を見ている。


『その髪は癖毛なの?』


『あのさ、押入れにあるハミングバード弾かせてよ』


『勝手に人の部屋の押入れの中を見たのね?』

彼女は、そう言って1弦が切れたハミングバードを持ってきた。


『何か歌ってよ』

彼女が言った。


『今から歌作るよ。どんなのがいい?』


『いつもどんな歌を歌ってるの?』


 僕は少し考えて、

『世の中や、ある特定の人達に暴言を吐き続ける歌かな』

と言った。


 彼女は嬉しそうに笑って

『やってみてよ』

と言い、エアロスミスのボリュームを下げた。そして、僕は適当に言葉を選びながら、世の中や、ある特定の人達に暴言を吐いた。


 彼女は、笑っていた。僕もだんだん楽しくなってきて、ビートルズやニールヤング、ビリージョエルの歌も歌った。



*4*


 やはり眠たくなったのだろうか、彼女は憂鬱そうな顔をした後で、僕に背を向け二種類の錠剤を飲んだ。何の薬なのか、気になったが、触れないことにした。そして、彼女は寝てしまった。


 退屈になった僕は、薬の正体を突き止めようと、薬箱をこっそり開けた。

やはり二種類の薬が入っていたが、そこまでにしておいた。色々なことを知りすぎるのは、必ずしも良いこととは限らない。


 僕は、氷が溶け薄くなったワイルド・ターキーを流し台に捨て、勝手に冷凍庫から新しい氷を持ち出し、再びワイルド・ターキーを注いだ。


 エアロスミスを呼び戻し、冷静になった。

――僕は、いったい何をしているんだろう?――


 知らない(柊には悪いが少し頭がおかしい)女の子の家に来て、色々な話をして、ウヰスキーを飲んで、暴言を吐いて、今、彼女はそばで寝ている。そもそも、彼女が僕のボサボサになった髪の毛をカットするというからここに来たのだ。


 5つのロウソクに目を配り、窓から外を眺めた。月が部屋を照らしている。僕はグラスを傾けた。


 彼女の寝息が聞こえてくる。お世辞にも上品とは言えないが、明るくて楽しいし顔も可愛い。そして、何より変わった女の子だ。


 スピーカーからは"スウィート・エモーション"が流れている。僕は、もうすぐ25歳になろうとしていた。



*5*


 朝8時の雑司ヶ谷の街は雨に打たれていた。いつの間にか寝てしまったらしく、僕は知らぬ間に25歳になっていた。彼女の用意した朝食(トースト、目玉焼き、サラダ、ヨーグルト)を食べた。朝から24時間営業のスーパーまで行って買いものをしてきたと彼女は言った。


『今日は、お婆さんに会いに行く日なの』


『ふうん』


『どうする?一緒に来る?』

寝起きで頭がボーっとしている上に、いきなりそんなことを訊かれた僕は、考えるふりをしながら黙り込んだ。


『つまらない男ね』

彼女が言った。


『昨日の夜だって、こんなに可愛いお姫様が横で、すやすや眠っているのに、あなた何もしなかったでしょう?ほんと、つまらない男ね。それでどうするの、一緒に来るの?』


『行くよ』

少し癪に触った僕は、吐き捨てるように言った。

誰に祝ってもらうでもない今年の誕生日だが、一応、休みにしてある。


 彼女の服を借りることにした。僕はたくさんある中から色褪せたドアーズのシャツとチェック柄のズボン、そして深緑のボクサーパンツを選んだ。このボクサーパンツは普段誰がはくのだろう。



*6*


『あのさ、昨日も言ったけど今日は誕生日だから、変なことに巻き込まないでね』


『あなたが言う変なことってどういうことなのかしら』

そんなやりとりをしながら家を出た。たまたま傘が2本あったらしく、僕たちは別々に歩いた。


 彼女は、昨夜のことを全く覚えていないようだ。

実のところ、僕は彼女に対して色々なことをした。眠っている彼女の身体を触った。裸にもしたし、耳たぶも噛んだ。けれども、彼女は起きなかった。眠っているふりをしているだけかも知れないと思って、目を無理矢理あけた。近所迷惑だけど耳元でギターを掻き鳴らしもした。それでも彼女は起きなかったのだ。変な薬を飲んで死んでしまったんだと思ったが、呼吸はしていたので、再び服を着せてそのままにしておいた。


『私、雨の日って嫌いじゃないわ。雨に打たれている街並みも好きだし、花や草木なんて生き生きしてくるの。その後しばらくしてからお日様は出てくればいいのよ』



*7*


 彼女が立ち止まったのは、霊園の入り口だった。中まで道が続いている。墓石や供え物に、雨が降り注いでいた。


『少し休もうよ』

彼女が言った。濡れたベンチをタオルで拭いて、座った。彼女は、自分の傘をたたみ、うつむきながら僕に寄り添った。霊園の中には僕たちしかいないのかも知れない。


『さっき言ってたお婆さんに会いに行かなくてもいいの?』

沈黙を破ったのは僕だった。


『教えてあげようか』

彼女は答えた。


『教えて欲しい』


『お婆さんは、この道を行った先にいるの。そして、そのお婆さんというのは、わたしの父と母と姉の魂を奪った人物なの。つまり殺したということよ』


『君の家族は、そのお婆さんに殺されたということ?』


『まぁ、そういうことかな。ごめんね、うまく説明できなくて』

彼女の言っていることや、お婆さんとの関係など、僕にはさっぱり理解できなかった。


 彼女は立ち上がると、僕の手を引っ張りながら、歩き出した。その、お婆さんがいるという方向に向かってだ。



*8*


 道の先には話のとおり、例の"お婆さん"が立っていた。

黒ずくめの格好に長い黒髪、傘もささずにいる。けれど、なぜか"お婆さん"は雨に濡れてはいない様子だった。


『お婆さん、こんにちは』

彼女は微笑みながら言った。


『元気かい、柊』


『うん。いろいろあるけど、なんとかやっているよ』


『ところで、その男の子は誰だい?』


『まぁ、ボーイフレンドかなぁ』

彼女は少し笑いながら言った。


『はじめまして、山本龍之介です』

そう言うと、

"お婆さん"は、僕の目をじっと見てきた。まるで、心の中まで覗かれているような気がしてきた。思わず目をそらしてしまいそうになる。


 お婆さんと柊は、他愛もない話をしていただけだった。僕はずっと黙って2人の会話を聞いていた。



*********



どれくらい時間が経ったのだろう。耳を立てて聞いていた話の内容は全く覚えていないし、お婆さんの顔も思い出すことが出来なかった。雑司ヶ谷霊園のはずだったが、そこには何度も訪れたことのある夏目漱石の墓はなかった。風景が思い出せない。あの場所は何処で、あの時間は何だったのだろうか。歪んでいたのだろうか。それとも僕がまだ知らないだけなのだろうか。



*9*


『イタリアン・ロースト・コーヒーふたつ』

彼女は、そう言うとひとり、席に座った。少ししてから、僕はふたつのコーヒーカップを水平に保ちながら、彼女の待つ席へと向かった。


『なんか久しぶりな気がするけど、昨日もここにいたのよね』


『そうだよ。昨日僕はこの喫茶店で、ひとりでイタリアン・ロースト・コーヒーを飲んでいた。そしたら、変な女の子が声をかけてきたんだ』

彼女は、少し笑いながら、目を細め僕を睨んでいる。


 窓に目をやると、どうやら雨は上がったようだ。今日は誕生日だと言うことを忘れそうになる。僕は25歳になったのだ。


『あのお婆さんなんだけどね、家族を殺したというのは本当なの。あの人は、わたしを傷つけようとする人間を消し去って、わたしを守ろうとするのよ。そうやって物事を解決しようとするの』


『大変な事情がありそうだね』


『わたしの家庭は、色々問題があってね。一番悪いのは父なの。信じられないくらいの借金をつくって、どうにもならなくなったの。それなのにお酒飲んで仕事しないし。それで、母は必死になって働いてたわ。でも、ふっと嫌になったんだろうね、そんな母も、いきなり何もしなくなった。そしたら、だんだん痩せていってね。辛かったんだろうね、麻薬中毒になっていたの。もう廃人よ。見てられなかったわ』

彼女の手は少し震えていた。


『姉はね、新興宗教に入って生活が滅茶苦茶になったの。それで――』

そこまで聞いて僕は話を続けようとする彼女を止めた。彼女はうつむくとため息をひとつついた。


『君と知り合ってしまった以上、君を不幸にするようなことがあれば、僕も君のお父さんやお母さんやお姉さんと同じようになるかもしれないのかな』


『知らない』

彼女は、クスッと笑ながらイタリアン・ロースト・コーヒーを飲んだ。


 傷つかずに生きていくことはできないし、他人を傷つけずに生きていくこともできない。彼女の言うことが、お婆さんの話が本当かどうかはわからないが、少なくとも、とんでもない女の子と関わってしまったと思っていることには間違いない。


 彼女と一緒にいることによって、僕は破滅してしまうかもしれないし、人生が短くなるかもしれない。もしかしたら幸せになるかもしれない。でも、それでもいいような気がしてくる。先のことを考えれば考えるほど野暮なのだ。


『その髪は癖毛なの?』


『早くカットしてくれないかな。昨日からずっと待たされてるんだけど』


『ごめんごめん、行こっか』

コーヒー代を払い店を出た。


 昨日と同じ道だ。けれど、昨日とは全く別の世界を生きているようだ。

 雨は既に上がっていた。湿気が髪の毛をうねらせている。


『カットするの久しぶりだから手が錆び付いてるかもね』


『無茶苦茶になってもいいよ。何でも似合うから』

25歳になった僕は偉そうに言った。


 雨のせいで風が少し冷たいが、西から射し込む夕日がそれを和らげてくれる。そんな4月の空気を感じながら、僕たちは雑司ヶ谷のアパートへと帰っていった。




Fin.

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