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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【短編】公爵閣下のぐだぐだなる夜食

作者: 真波潜

BL作品ですが、直接的な行動描写はありません

「腹が減ったな」


 パルミヤーナ公爵邸の執務室に低い声と夏の夜風がそっと広がった。それを合図にペンが紙をひっかく音と、紙を捲る規則的な音が止む。


 声の主はフェリオ・バルミヤーナ公爵その人。

 黒檀の髪は綺麗に切りそろえられ、毎朝きっちりと後ろに撫でつけ整えられている。

 今は何度目かのフェリオの魔の手によりくしゃくしゃに乱され毛先が顔にかかっていた。これでシガレットでも噛んでいれば花街の女が黄色い悲鳴をあげること間違いなしな色気だが、生憎彼は非喫煙者である。


 自宅の執務室、しかも深夜労働のため、上等な上着はとっくに身体を離れてソファを彩り、放り投げられた形のまま皺になっていた。広い肩や胸板の堂々たる体躯を薄手で上等なシャツ一枚が覆っている。


 三十をいくつか過ぎた年齢だが、人の上に立つ者の威厳は彼に限って言えば年頃に関係なく備わっていた。王宮にも出仕する身、普段から狐や狸と対等に化かし合いもこなす。

 しかし今はその威厳も鳴りを潜めている。

 意志の強そうな眉の下、紫水晶の瞳が分かる人間には分かる程度に疲労の色を浮かべているせいだろう。

 今日も今日とて王宮とタウンハウスの両方で激務に追われ、時計の短針は頂を超えて既に二周目に入っている。


「閣下の夕食から既に6時間経っております。何か軽食を用意させましょう」


 執務室の左右、壁一面にある造り付けの書棚の前に四つずつ並んだ補佐官用の机の一つに座って、書類を仕分けていた男。

 フェリオと共に一緒に残って書類に目を通していた彼が、腰に提げた懐中時計を見て答える。


 ほとんど白に近いプラチナブロンドは深夜だというのに(公爵と違って)品よく整えられ、背中に落ちる前に首の後ろで一つに括られている。怜悧な青い瞳を和らげるよう、金属フレームの眼鏡をかけており、顔の造作や肌の張りからしてまだ二十代半ばに見える。

 服装は多少の乱れがあるが(公爵とは違って)上着はしっかりコートラックに引っ掛けられていた。もちろん、皺などできていない。


「いや、この時間に働かせるのもな」

「そう思うのならばご自分が率先して常識的な時間にお休みください」


 さすが、この時間に働かされている本人は小言のキレが違う。公爵は疲れた声を発する口を一度閉じ、視線を部屋の中にさまよわせた。もちろん、そちらには気を逸らすようなものは何もない。

 夏の湿気った生ぬるい風の温度が二度ほど下がったように錯覚する正論を逸らすこともできず、フェリオは綺麗に机にダウンした。が、数秒もすると起き上がった。


「ダメだ、空腹すぎて気絶もできん」

「まだやるにしても休まれるにしても、まずは腹ごしらえですね」


 それには大いに賛成した側近……ジェルマン・ロイホード子爵の腹から、タイミングよくグゥという返事も出た。

 実際は、ごががぎゅるぐごごご、程度の轟音で、本人の口より自己主張が激しい。

 

「いつもの、いきますか?」

「わかってきたな、ジル。その腹の化け物もすっかり私に飼い慣らされたようだ」

「これは元々うるさいものなので、自惚かと愚考いたします」


 ジルと呼ばれた彼は涼しい顔で机の上に散らばった書類を簡単に片づけ、窓を閉める。

 フェリオもインクの蓋を閉め、記入していた書類の上に文鎮を置いた。

 この程度の軽口はお互い様で、二人は連れ立って執務室近くに誂えたキッチンに向かう。


 本来ならばお茶を淹れるための場所だったが、続き部屋を空けて丸ごとキッチンに改造されているのだ。

 その元凶……原因は、公爵本人にある。


 このフェリオという男、公爵の身分にありながらも使用人のキッチンに忍び込んでは料理をするという悪癖があった。

 貴族の、しかも男性がキッチンに入るという事自体褒められた事ではない。

 そのうえ使用人の仕事を奪っているとも言われかねない。彼は料理をする時間に、もっと国や領地に関するあれやこれやの仕事をする義務があると言ってもいい。


 しかし、フェリオはその悪癖を改めることはなかった。十代の頃に騎士団に入り兵役に従事した際、一般兵が野営で料理をしていたのを見て、そしてまたその味がいたく気に入って、それ以来料理にハマったのだ。公爵邸で働く使用人にその兵士が恨まれていることは公然の秘密である。彼の個人情報は、一応ジェルマンが責任をもって秘匿している。


 そして、ジェルマンも最初は猛反対していた。見つけ次第執務室に引きずっていき、使用人に簡単な軽食を持ってくるよう言いつけていた。

 フェリオが夜食を頼むのは、大抵今日と同じく深夜を周ったころ。

 たしかに夜中に起きて夜間勤務する使用人はいるのだが、厨房を扱える者は眠っている。食事を用意するというのは、朝から晩までの激務であり、毎日の事でもない夜食のために一人余らせておくのはもったいないのだ。


 そんなわけで、平民育ちで自宅の簡易なキッチンで料理をしてきた使用人が、慣れない公爵邸の最新設備で料理を作ると、これはもう奇怪なものが出てきた。


 そもそも、レシピというものが浸透していない。使った事がない調味料や食材も山のようにある。むしろ、それが殆どと言ってもいいだろう。

 パンと根菜を洗って丸ごと煮込んだスープ。ウインナーをみじん切りにして炒めたものを水で煮たスープ。サラダ用の葉物野菜をちぎってチーズと水で煮込んだスープ。スープにすればなんでも食べられる、という庶民の台所事情(字のまま)が如実に表れた結果である。


 さすがにこれはジェルマンも口を閉ざし、フェリオは使用人のキッチンに入り浸るようになった。


 さて、公爵閣下その人の執務室と使用人用のキッチン。これがだだっ広い公爵邸の中でどのような位置関係にあるかは想像に難くないだろう。

 つまり、そうして金が物を言い、執務室近くの部屋を改装して出来た公爵専用キッチンというものが出来上がったのである。


「さぁて、今日は何が残っているのかな」

「夕食は牛のステーキにテールスープと牛尽くしでしたね」

「いいものがあるな」


 公爵邸の本来のキッチンでその日に使い終わったあまりの食材が、このフェリオのキッチンに運びこまれている。使用人が口にするには量が少ないため、公平を期して大抵は庭師が肥料にしていたものだ。

 まだ食べられるそれを少量と、日持ちのするパン、各種調味料、そしてチーズや日常的に使う野菜。そういったものがこのキッチンの食糧庫に入れられている。


 フェリオが手に取ったのは牛肉の細かすぎるコマ切れ、それからテールスープの液体が入った瓶詰。

 今日は卵を使う料理があまりなく、卵もいくつか置いてある。

 そこにトマトが二個、常備されている玉ねぎとパンも抱えて、フェリオは調理台まで運んできた。


「今日はスープですか?」

「いや、粥だ」


 ジェルマンはちゃっかり着席している。以前、手伝おうとナイフを握った際、見事に自分の指まで刻みそうになって以来フェリオから調理禁止を言い渡されているのだ。


 フェリオは気にした様子もなく、瓶から移したテールスープの入った鍋を魔導コンロの一つで弱火で温め、もう一つのコンロにフライパンを置く。

 台所の調理器具の高さもフェリオの背の高さに合わせられているので、苦も無さそうだ。


 調理台で玉ねぎの根と頭を切り皮を剥き、トマトはフォークで刺してスープを温めている火で皮を焦がす。

 どちらも綺麗に洗って皮を剥いたあと、トマトは簡単に刻んで、玉ねぎは細かく刻んで皿に避けた。

 フライパンに火を入れるとバターをひとかけら落とし、そこに玉ねぎを入れるとジュワッと水分が弾ける音があがった。ついでにジェルマンの腹からも大きな音が鳴る。


「いつ聞いてもいい音ですね」

「ジルの腹もな。いや、それ、そんなうるさいのに聞こえているのか?」

「耳はいい方なので」


 フライパンの上で木匙を躍らせながらフェリオが懐疑的な声をあげると、平然と言い返してくる。

 生意気だが、それを許される関係なのだ。フェリオの方が「そうか」と言って黙った。


 玉ねぎがキャラメル色に染まり、そこに牛のコマ切れ肉が投入される。肉から赤身に火が通る甘さのあるふくよかな香りと脂が溶けてフライパンの上に広がっていく。

 この牛肉、焼いて塩をしたものがフェリオの夕飯だったのだが、もしかしたらその時から夜食に使おうと思っていたのかもしれないと、香りを嗅いだジェルマンは楽し気に働く背中を懐疑的な目で眺めてしまった。

 おかげでお零れに預かれるのだからと、幾分か疑いと呆れを含んだ視線を外して首を振る。


 玉ねぎがしっかり甘い香りに代わっていたのもあって、肉の脂と馴染んでなんとも食欲を刺激する。

 隣のテールスープの蓋がことことと踊り始めたので火を一旦止め、フライパンの中に今度はトマトの刻んだものを投入。フェリオの手は休まる暇もなく、ジェルマンの腹の音も同じく休まることをしらない。


 トマトに火が通り、赤い果肉から出た水分で酸味のある香りがたってくると、塩と胡椒をフライパンの中に入れる。

 ちなみに、この胡椒は十年程前全国的な栽培に成功したため値段は安価だ。魔導師様々、とミルで削るたびにフェリオは内心褒めたたえている。


 しっかりと味付けたフライパンの中身をテールスープの鍋に落とし、再度火をつける。今度は中火で。

 スープも具も温まっているのですぐにふつふつと気泡を吐きだしはじめた。

 フェリオはそこにパンをちぎって落とし、スープの中でどろどろになるまで煮溶かす。スープを吸ったパンは、形を大幅に変えて、ある程度の塊が浮いているような有様になった。スープのかさはほとんどなくなり、どろっとしたパンの粥が鍋の半分程にできあがる。


 最後に卵を二つ、鍋の上から落としてどろどろになったパンを上に乗せ、一度強火にして白身を固めると、フェリオは深みのあるグラタン皿を二つ取り出してそこに盛り付けた。卵の黄身を崩さないようにするのがポイントらしい。


 二つ並んだ赤みのある粥の皿に、最後はチーズをナイフで薄くそぎ切りにして乗せると、粥の熱でとろりと溶ける。調理台の上にタバスコと乾燥したバジルの粉末の入った瓶をスプーンと一緒に並べてジェルマンの目の前に座った。


「完成ですか……!」

「あぁ、恵みに感謝を」

「感謝を」


 フェリオは先に祈りを捧げたが、スプーンを皿に落とす前にじっと向かいに座ったジェルマンに視線をやる。


 いつもは抜け目なく隙もない彼は、もう目の前の薄赤色の粥にくぎ付けだ。

 そっと銀色のスプーンを差しこみ、中に埋まっているほとんど生の卵を崩す。


「わぁ……」

「くっ……」


 いつもは涼やかな瞳がおもちゃを前にした子供のように輝く。赤い粥の中に、鮮やかな黄色が混ぜ込まれた。チーズも一緒にスプーンに乗せて、ジェルマンは息をふきかけてさまし、大きな口で掬った分を一息に頬張る。

 その瞬間、ぱっと頬に赤みがさし、子供のように手足を動かしたいのを堪えてテーブルの上に行儀よくおかれていた左手が左右にすいすいと動く。


 ――もうフェリオはダメだった。

 ジェルマンの、この姿があまりに可愛くて、先程から肘をついた右手の中に自分の顔を隠して肩を震わせている。スプーンは一切動いていない。皿からは熱気が湯気と共にどんどん逃げているというのに。


「うまいか? ジル」

「えぇ! すっごく! あぁ、閣下、温かいうちに食べませんと。ほら、早く、美味しいですよ」

「……ぐ、あぁ、そうだな」


 普段のあの嫌みっぷりはどこに行くのか、それとも、普段は基本空腹で機嫌が悪いから飯時じゃないとこんなジェルマンは見られないのか。フェリオの中の謎は深まるばかりだが、言われた通り自分でもスプーンを皿に落として一口。


 溶けたパンは食感を失いテールスープの味に染まっていたが、小麦の香ばしさをしっかりと口の中で主張する。食べるスープと言っても過言ではない程、スープの味が口中に広がって幸せだ。

 一口噛めばトマトや玉ねぎの酸味と辛味が舌を刺激するが、チーズと卵が柔らかに包んで甘みが強く仕上がっている。

 牛のコマ切れはそこに力強い獣の味わいを添えており、物足りなさを補っていた。


「うん、うまいな」

「えぇ、本当に。おかわりはありますか?」

「あるぞ」


 作った本人も満足のいく味だと勢いよくスプーンを動かそうとしたら、目の前の側近は既に三分の二程食べ終わっている。

 一応鍋の中にはパンを4つ落とした。四人前だ。このままでは、三人前はジェルマンの腹に吸い込まれていくことになる。


(それもまぁいいんだがな)


 細身で華奢に見える目の前の側近は、いわゆる大喰らいなのだ。給与の使い道を聞いた時には、大体が食費に、と言っていた気がする。その分、衣類や小物の物持ちがいい。


 この目の前の彼と毎日の食事を一緒にするには、国に例外を作る必要がある。

 そのためには最終的な決定権を持つ国王に『なんでも願いを聞かせることができる』状態を作らねばならない。そのために、大領地の経営だけでも忙しい中、わざわざ宰相なんて仕事もフェリオはやっている。


 とりあえずは、二人きりの夜食で今は満足しよう。

 ジェルマンの腹の音を聞くのも止めるのも、今はフェリオだけの楽しみなのだ。


「閣下、おかわり!」

「はいはい。……私の分には手を出すなよ」

「――わかっております」


 無邪気に差し出された皿を受け取って立ち上がったフェリオは、ジェルマンに背を向けて鍋にもう一度火を入れる。

 その唇が、うっすらと微笑んでいるのを、ジェルマンはキッチンの窓越しに見ていたのだが……それはまた、いずれかの夜食時に明らかになることである。

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