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8 領地での暮らし



 この屋敷を建てた初代当主の名を冠したというヒース(ホール)に来て既に半月以上が過ぎた。


 上司というか先輩というか、前任者である会計士のゴードン・キングは気難しそうな顔つきとは裏腹に、とても気のいいおじさんだった。

 仕事は丁寧に教えてくれるし、わからないところがあれば更にわかりやすく教えてくれる。家庭教師(ガヴァネス)として人にものを教える立場にあるリュネットは、そのわかりやすい説明の仕方にただただ敬服した。

 ゴードンはゴードンで、理解の速いリュネットを気に入ったようだった。いい子を連れて来てくれた、とマシューにわざわざお礼状まで書いたというのだから、逆に恥ずかしくなってしまう。


 本気で会計士の勉強をしてみないか、と勧められたが、自分には向かないことだと思っていたし、家庭教師の仕事をまだ続けたいとも思っていたので、やんわりと断った。その答えにゴードンはとても残念そうだったが、優秀な助手を得たことには変わりないので、仕事を教えるのはとても楽しそうだった。

 恰幅のいい体格を揺らし、大きな声で笑うゴードンのような男性には初めて接するが、不思議と苦手には感じず、リュネットは彼のことがとても好きになっていた。


 他のメイドや従僕達もみんないい人達で、リュネットはこの屋敷での生活にとても満足していた。

 これでマシューに二度と会わないで済むのなら、ここで働き続けてもいいとさえ思い始めていたが、彼が雇い主である以上そんなことは無理だし、後任の人が決まったらリュネットは用済みになってしまう。

 以前の紹介状は破かれてしまっているし、次の仕事を探すときは難航しそうだな、と感じつつ、今日も帳簿の数字と睨めっこを始めた。




「エレノアさん、今ちょっと手は空いてる?」

「ええ、空いているわ」


 帳簿整理はだいたい週に三日のペースでやっていて、あとの二日は帳簿の付け方の講義をしてもらっていて、土曜日と日曜日は休みになっている。そのどれも一日中ということではないので、空き時間は練習も兼ねてハワードの手伝いをさせてもらっていた。

 今日の午後はそのどの予定もなく、先日届いたメグからの手紙に返事を認めたので、郵便局まで行こうかと考えていただけだったので、比較的暇だった。


 よかった、と声をかけて来たハウスメイドのミーガンが笑った。


「今からみんなでカーテンの補修をやるんだけど、手伝ってくれない? ちょっとだけでいいんだけどね」


 リュネットがメグの女学校時代の同級生で、一番の親友であることは知られているようだが、彼女自身が貴族の娘だとは知られていない。メグの関係から客人扱いを受けているらしい程度のことは伝わっているのだが、それが変な嫌味や差別に繋がることもなく、ミーガンは年齢の近さもあってか、気安く接してくれるので嬉しい。


「ええ、いいわ。でも私、お裁縫はあまり得意じゃないのだけれど」

「ほつれているところをちょちょっと縫うだけだから大丈夫よ」


 それならなんとかなりそうだ。快く手伝いを了承した。


「作業するのに大広間を借りたから、そっちに来てね」

「わかったわ。これ置いて来たらすぐに行く」


 借りていた会計士の手引き本を部屋に置いて、言われた通りに大広間に行くと、屋敷中のカーテンが外されて集められているようだった。これはさすがに、たった四人のハウスメイドで補修するのは時間がかかりそうだ。


「ほつれがあったのだけ運んだのよ。今日中に終えたいところね」


 手伝わせて悪いわね、とメイド頭のサラが溜め息をつきながら苦笑した。


「大変そうね」


 重いカーテンを一枚取って適当に腰を下ろし、呆れたように呟く。ほつれた部分を探してみると、確かに何ヶ所か見つかった。小さくてあまり目立ちはしないが、気づいてしまうと確かに気になるところだろう。


「去年はマーガレットお嬢様のご婚約のことでロンドンだったし、その前はヨークシャーのお屋敷に行かれていたし、今年はこちらにいらっしゃると思うのよねぇ。だから今のうちに直しておこうって、ハワードさんが」


 隣に腰を下ろしたミーガンが呟く。

 誰のことかはすぐにわかった。ここの領主であるマシューのことだ。

 四月頃から十月頃までの議会招集に合わせて都に集まる貴族達は、その社交シーズンを終えると領地に戻って過ごす。マシューはここ何年か別の領地で過ごしたり、用があってロンドンに起居続けていたりしたらしく、アドベントシーズンにこちらに戻って来ることは、三年振りくらいになるらしい。


 ふぅん、と適当に相槌を打ちながら、糸巻の中からカーテン地に近い色のものを選んで小さな針孔に糸を通す。するりと一発で通るとちょっと嬉しくなる。


「来週のマーガレットお嬢様の結婚式が終えられたら、すぐにアドベントだものね。旦那様がいらっしゃるなら、今年は賑やかになるかしら」


 もう来週にと迫っているメグの結婚式が終わると、十一月も終わり、クリスマスへ向けての準備が始まる。


「エレノアさんは初めてよね。ツリーの飾り付け一緒にやろうね!」


 楽しげに笑うミーガンはリュネットのひとつ下の十七歳だが、こういう行事が大好きらしい。実家では大きな木に飾り付けなどしなかったのだが、この屋敷では裏の森からもみの木を伐り出して来て飾り付けるので、気分が高揚するのだとか。

 そうね、と頷きながら、ちらりとリタへ視線を向ける。彼女は黙々と針仕事を進めていた。


(侯爵がいらっしゃるとなると……)


 ここに到着した夜の出来事を思い出し、不快な気分が込み上げてくる。またあんなことをするつもりなのだろうか――自分には関係のないことだけれど、また廊下とか、人目につくところでやられるのは勘弁して欲しい。

 あの日以来、リタの顔をまともに見ることが出来ない。会話も必要最低限で、どう接すればいいのか気不味い思いを一方的に抱いてしまっているのだ。


「こちらでしたか、ミス・ホワイト」


 僅かな苛立ちが縫い目に出かけたので慌てて気持ちを落ち着けようとしていると、ハワードがやって来た。


「来週のロンドン行きの件で、旦那様からお手紙が届いていますよ」


 縫い目に集中していた視線を上げると、封書が差し出される。宛て名はハワード宛だったのだが、どうやらリュネット宛ての手紙も同封されていたらしい。

 手を止めて受け取り、中身を確かめさせてもらう。

 内容は、来週の結婚式に参列するのにあたり、今週末に迎えに来る、というものだった。


(子供じゃないんだから、ひとりでロンドンにくらい行けるわ)


 二年前にロンドンに出て来たときだって、ひとりで列車に乗って来たのだ。切符だってちゃんと自分で買えた。迎えに来てもらうほどに旅慣れていないわけでもない。


「どうかなさいましたか?」


 憂鬱そうな表情をするリュネットの様子に目を止め、ハワードは心配そうに尋ねた。よくないことでも書かれていたのだろうか、と気にしているようでもある。

 リュネットは首を振った。


「週末に迎えに来てくださるおつもりのようなので、お断りしたくて……。今から返信して間に合うでしょうか?」

「そうですね。日数的には少し際どくも感じますが、今日中に郵便局に持って行ければ、間に合うと思いますよ」


 今日は火曜日だ。三日あればなんとか届くだろうと願いたい。


「わたしが持って行きましょうか? 少々用事がありまして、これから村に行こうと思っていましたので」


 そう提案するハワードは、コートを羽織って外出の出で立ちだ。出ようとしたところに郵便配達人が来たのだろうか。

 申し訳なく思いながら繕い物を中断させてもらい、部屋に戻って急いで断りの手紙を書き上げる。文章は簡潔に『大変嬉しいお申し出ですが、お断りします。申し訳ありません。一人で伺えますので、お迎えも必要ありません』というものにした上に少し字が雑になってしまったが、急いでいるので仕方がない。封をして、書き慣れたロンドンのカートランド邸の住所を綴り、今日持って行こうと思っていたメグ宛ての手紙と一緒に持って部屋を出た。


「使い走りをさせて申し訳ないのですけれど、こちらも一緒にお願いしてもよろしいですか?」

「はい、大丈夫ですよ。では、確かにお預かりしました」


 懐にしまってにっこりと笑うと、ハワードは出かけて行った。

 見送ってから大広間に戻ると、カーテンはまだまだ山のように積まれている。


「そういえば、エレノアさんはマーガレットお嬢様の結婚式に参列なさるのよね」


 戻って来たリュネットにミーガンが笑顔を向ける。無邪気な様子に悪意は感じられなかったので、そうよ、と頷きながら針を手にした。


「いいなぁ。結婚式って素敵よね。貴族の方のお式なら招待客もいっぱいで、きっとすごく豪華で、すごくすごく素敵なんでしょうねぇ」

「そうね。ドレスのデザインは見せてもらったけれど、とても素敵だったわ」

「いいなぁ」


 ミーガンはうっとりと溜め息を零す。どうやら結婚することに憧れているというより、結婚式に憧れているようだ。

 丁度リュネットがこちらに来た頃にミーガンの従兄弟が結婚式を挙げたらしく、そのときの様子を楽しげに語り出す。口がよく動くのに、手も休まずに動いているのでたいしたものだ。サラがお喋りを窘めようと目を向けたが、作業が滞っている様子もないので黙殺しているのがすごい、と裁縫が苦手なリュネットは感心した。


「縫い物は得意なの」


 次のカーテンを取りに行ってミーガンは笑う。本当は仕立て屋になりたかったのだが、大きな街に出ないと仕事がないので、実家から近いお屋敷でメイドとして働き出したのだという。

 そうなの、と頷いて聞きながら、リュネットもようやく一枚目の作業を終えた。


「私はお裁縫は苦手だわ。刺繍の方がまだ得意かも」


 女学校時代に裁縫のやり方の基本は習ったが、そもそもが貴族の子女の為の学校だったので、嗜みとして刺繍の方が重要だった。それ故に、ちょっとした巾着を縫うくらいは出来るが、それ以上の縫い作業は得意ではない。服など縫えるわけもなかった。

 そういう事情から繕い物はあまり得意ではないので、家庭教師として勤めているときに子供達の繕い物を任されたときは、本当に大変だった。そんな苦労も懐かしく思い出しながら補修を進めていく。


 陽が暮れる頃にはなんとかすべての補修を終え、あとは従僕とその見習い達に吊るすのを任せ、夕食までの間、暫しの休憩時間となった。


「お疲れ様でした。よかったらどうぞ」


 お茶の支度をしていると、戻って来たハワードが焼き菓子の袋を差し出す。ミーガン曰く、それは村にあるオズボーンという雑貨屋で売られている菓子で、とても美味しくて人気らしい。貰ってみるとドライフルーツとナッツの入ったクッキーで、甘さと香ばしさが丁度よく、確かにとても美味しかった。


「そういえば、エレノアさんってまだ村に行ったことないんじゃない? 今度のお休みにでも一緒に行かない?」


 同じくクッキーを食べていたメイドのアニーが微笑んだ。

 言われてみればそうだ。二度ほどゴードンの家に行ったことはあるが、こちらに来てから日が浅いこともあり、まだいろいろと慣れていないので屋敷から外出したことがほとんどない。


「私、土曜の午後が半休なんだけど……ロンドンに行くのはいつにするの?」

「日曜の礼拝が終わってから発とうかと」

「じゃあ、土曜日空いている? 出かけましょうよ」

「えっ、私も行きたい!」


 予定を立てようとしているとミーガンが口を挟んだ。アニーが「あなたの休みは月曜でしょ」と呆れたように言うと、それを聞いていたハワードがにっこりと微笑んだ。


「では、土曜の午後は、皆さんで休むということでどうでしょうか?」

「いいんですか?」

「ええ、たまにはいいでしょう。今年のクリスマスは久しぶりに忙しくなりそうですし、前倒しのご褒美ということで」


 他の使用人達にも伝えて来よう、とハワードが立ち去ると、ミーガンとアニーは大喜びだった。

 ハワードはこういう采配が上手いのだ、とサラが笑う。普段は仕事に対して厳しいが、常に厳しい態度を取っているわけではなく、適度に手綱を緩めてくれる。その絶妙な具合に、若いながら信頼を勝ち得ているのだという。


 休暇の話を聞いた従僕達も休憩室に集まって来て、わいわいと楽しげに盛り上がり始める。こういう空気にはあまり触れたことのなかったリュネットは楽しく思いながら、いくつも挙げられる休日の過ごし方の提案に頷き返した。


「リタも行く?」


 黙ってお茶を飲んでいるリタに、ミーガンが声をかける。


「村には行くけど、実家に顔を出すつもりよ。祖母の具合がよくないそうなの」

「そうなの? 大変ね」

「もう七十も過ぎているのだから仕方ないわよね。覚悟だけはしているわ」


 何処か諦観した表情で吐息を零し、肩を竦める。

 大往生だろうと親しい人が亡くなるのは悲しいことだし、それが迫っているかも知れないとなると、歯痒い思いと同時にもっともっと悲しい気持ちになるのではないだろうか。リタの心中を思ってリュネットは少し落ち込んだが、当のリタはあまり気にしていない風だった。

 土曜の午後は従僕達が馬車を用意してくれるので、みんなでそれに分乗して行くこととなった。楽しみね、とミーガンが笑うので、リュネットも頷いた。




 待ちに待った土曜日は、生憎の空模様だった。幸いにも雨は降ってはいないのだが、雲はどんよりと厚く、風も冷たい北風が吹いている。

 寒い、寒い、と口々に言いながら馬車に乗り込み、笑い合いながら村へと向かった。

 道中では、普段あまり喋ることのないキッチンメイド達との会話も弾み、リュネットはとても楽しかった。


 村に着くと、ミーガンに腕を引かれ、まずは雑貨屋のオズボーンに向かう。

 中心地から少し入口寄りにある雑貨屋は、オズボーン夫妻が切り盛りしていた。店主が二十代半ばほどの若夫婦なのは、数年前に先代が亡くなり、焼き菓子作りを担当している母親が裏方に回ってしまったかららしい。


「見かけない人がいるね」


 店番をしている店主のサイラスがリュネットに声をかける。会釈をすると優しく微笑み返された。


「あら、本当だわ。新しい人ね」


 商品の補充をしていた妻のリリーが振り向き、こちらもリュネットに微笑みかける。


「会計士のゴードンさんのお手伝いにいらしたの。エレノアさんていうのよ」

「女の人なのにすごいのねぇ。私なんて、うちの帳簿つけだけで嫌になっちゃうのに」

「後任の人が決まるまでの中継ぎなんです。本来は家庭教師をしているんですけど」

「あら、そうなの? どっちにしても賢いんだねぇ!」


 リリーは明るい人だった。お腹が随分と大きいところを見ると、もうすぐ子供が生まれるらしい。

 困ったことに双子みたいなのよねぇ、と笑うリリーの話を聞きながら店内を見て回っていると、奥の一角は村人の手作り小物の販売コーナーになっているようだった。編んだミトンや帽子もあれば、木彫りの鍋敷きもあり、刺繍されたハンカチもある。どれも細部まで丁寧に作られていて、思わず感心してしまう出来だ。

 あなたも刺繍ハンカチを置いてもらえば、とミーガンに言われ、それも面白そうだと思う。ただ、売り物に出来るほど上手に仕上げられないと思うので、やんわりと遠慮した。


 店主夫妻と喋りながら三十分ほど過ごし、リュネットはラベンダー色の生地にカモミールの刺繍が綺麗な手鏡入れを買い、ミーガンはお気に入りの焼き菓子を二袋買い込んだ。

 また来てね、と言うリリーの見送りを聞きながら、続いてミーガンの希望で布屋へ向かう。ミーガンには今年七歳になる妹がいて、今度の休みのときにぬいぐるみを縫って帰る約束をしていたのだという。


「前にお金持ちのお嬢さんが持っていた熊のぬいぐるみみたいなのが欲しいらしいんだけど、上手く出来るかなぁ」


 色とりどりで素材も様々な布地を前に、ああでもない、こうでもない、と真剣な表情をしているミーガンは、すっかりお姉さんの顔だった。一人っ子の上に今は家族もないリュネットは、そんな彼女がとても羨ましかった。


「ぬいぐるみにお洋服でも着せるなら、私、刺繍しようか?」

「本当? 嬉しい。妹も喜ぶわ」


 ようやく生地が決まり、目玉替わりのボタンも見繕い終えて店を出ると、しとしとと霧雨が降り始めていた。


「あ、いたいた! 雨が強くなる前に帰るぞ!」


 空を見上げて困惑していると、従僕見習いのピーターが走って来る。見当たらないので捜しに来てくれたらしい。

 三人で急いで馬車のところまで走って戻り、肩掛けを頭からすっぽり被って雨避けにする。この時期の雨は霧雨でも酷く冷たさを感じるので辛い。戻ったら温かいお茶を飲もう、などと笑い合っているうちに馬車は走り出し、村をあとにした。


「なんか私の買い物にばかりつき合せちゃって、ごめんなさいね」

「ううん。大丈夫」


 リュネットは元々あまり買い物というものに積極的ではない。昔からメグに付き合ってよく出かけるが、いつでも自分の買い物は必要最小限だったし、自分の意思で出かけることはほとんどなかった。

 ミーガンが楽しそうに買い物をしている様子に、メグと出かけた日々のことを思い出し、それだけで満足感が心の中を満たしてくれていた。いい休日だった。


「そういえば、リタは?」


 別行動を取っていたアニーも休日を満喫したらしく、買い物の袋を雨から庇いながらあたりを見回した。言われてみれば、こちらの馬車にも、もう一台の方にも見当たらない。


「少し遅くなるから、自分で帰るってさ」


 手綱を握るピーターが肩を竦める。

 ああ、と誰からともなく納得したような声が漏れると、なんだか微妙な空気が漂った。

 よくわからないリュネットは不思議そうに首を傾げたが、なんとなく訊くような雰囲気でもないので、黙っておく。


「男と会ってるのよ」


 リュネットの気配を察したらしいアニーが呟いた。驚いて思わず眉を寄せる。


「ご病気のおばあ様のお見舞いに行ったんでしょう?」

「そうかもね。でも、まあ、遅くなるときは、だいたい男と会ってるのよ。あの子」


 何処か呆れたような調子で零されるアニーの言葉に、リュネットはますます眉根を寄せるが、聞いている誰もが一切異を唱えない。

 事実なのか、とリュネットは耳を疑った。

 不意に蘇って来るのは、マシューが言っていた『互いに割り切った関係』という言葉だ。

 そんな女性がいるわけがない、とマシューのことを軽蔑していたリュネットだったが、リタにまさか他にも相手がいるとは思わなかった。


「こんな話、お嬢さんにすることじゃなかったわね」


 アニーは苦笑して首を振り、ごめんね、と謝った。リュネットは首を振った。


「悪い子じゃないんだけどねぇ……」


 呟くアニーの口調はなんだか心配そうな調子だった。

 確かにリタは口数も少なく、仕事も早くて丁寧だ。たまに失敗をするミーガンのことも上手くフォローしている様子も、今までに何度か見かけたことがある。そんな彼女をメイド頭のサラも信頼しているのは、仕事が違うリュネットにもわかった。

 ミーガンもリタのことは知っていたらしく、黙り込んでいる。


「ま、お屋敷の中で問題を起こさなきゃ、なにしてくれたって私は構わないんだけどね」


 霧雨に濡れて湿り気を帯びた睫毛を擦りながら、アニーは笑う。リタは仕事面は優秀だし、自分達に迷惑がかからなければ、素行がどうだろうと気にしたくないのだ。


 リュネットは困惑した。そんなことを好きでしている女性がいるとは思いたくなかったし、複数の男性と交際関係を持ち、身体の関係まであるだなんて、それではまるで娼婦のようだ、と気分が悪くなってきた。

 リタはいい人だとわかっているのに、どうしてもそういう行動が許容出来ない。そんな自分にうんざりしつつも、そういうことをするリタの行動にもうんざりした。


「エレノアさん、大丈夫?」


 余程顔色が悪かったのか、ミーガンが心配そうに声をかけてきた。

 大丈夫、と微笑んで答えるが、気分はちっとも落ち着かない。

 これで明日からロンドンに行き、たった数日間のこととはいえ、またマシューと何度も顔を合わせる日々が始まるのかと思うと、溜め息しか出て来ない。困ったものだ。

 親友であるメグの結婚式というとても喜ばしく素敵なイベントを前にしているというのに、リュネットの心はくだらない理由から、今日の空模様よりも嫌な色に沈み込んでいた。




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