4 空白の時間
今から二年と半年ほど前。
同級生達は実家に戻って社交界へと入り、花嫁修業をしながら結婚相手を探すことになるのが大半で、特に必要とはされなかった卒業試験だったが、職業婦人となることを決めたリュネットは、その実力を示す為にも必要なのだと試験を受けた。
良家の子女に勉強を教える家庭教師は、基本的にどの教科も修得している必要があった。
リュネットは国語も数学も歴史もしっかりと学んで理解を深め、上流階級には必須とされるラテン語にフランス語、ドイツ語も覚え、用意された試験をクリアした。
厳しく恐ろしい教師達だったが、リュネットの才覚を認め、紹介状を用意してくれることを約束してくれた。
ただ、知識はあっても人に教える経験のなかったリュネットに、教師達は親心からか少し経験を積むようにと諭し、卒業後のひと月ほどは学校に残り、授業風景を見学していくことを提案してくれた。リュネットは喜んでその言葉に従い、学校にしばらく残ることにした。
覚えているわ、とメグは頷いた。
リュネットの試験が行われたのは学期終わりまで少し間のある春のことで、そこから度々、下級生の授業風景の見学に行っていたのだ。静かにしているから、とメグも何度かついて行ったことがあり、受講生でない立場から授業を見聞きすることに新鮮味を感じたものだ。
何度かそうしたことを繰り返しながら卒業の日を迎え、寄宿舎を去るメグを学校の外まで見送りに来てくれた。二人は抱き合い、またいつか会おうと誓い合い、笑顔で別れを告げた。
屋敷から迎えに来た馬車に乗り込んだメグを、いつまでも手を振って見送ってくれていた――あれがリュネットを見た最後の姿になっていたのだ。
教師達に言われた通りに授業風景を見学することで、生徒に教えるやり方を学んだリュネットは、秋口には学校を去り、ロンドンへと出て来た。
職業斡旋所を訪ねると、幸いにもすぐにダルトン家への就職が決まった。
ダルトン家は織物の貿易をしている商人で、八歳になる一人娘の為に家庭教師を探していた。主人夫妻に面談したあとに半月ほどの試用期間を経て、本採用となった。
娘はあまり勉強に乗り気ではなく気難しい性格の子だったが、根気強く話していくうちに少しずつ心を開いてくれるようになり、勉強にも真面目に取り組むようになってくれた。その変化は教師として初めて感じる喜びとなり、今でも大切な気持ちとなっている。
そのダルトン家には、十月の半ばくらいから五月までの約半年を雇ってもらった。
解雇された原因は、マシューが調べた通りだ。
ダルトンのご主人がリュネットに言い寄るようになったのは、年が明けた頃からだった。
初めは娘の修学状況についての話題だった。どれくらいのことを理解し、どんなことを学んでいるのか、親としてはこういうことも学ばせて欲しい等の話をされた。それ以降、よく話しかけられるな、と思いつつ応対していたのだが、だんだんとおかしな状況になり始めていたのに気づいたのは、随分経ってからのことだった。このことに関し、リュネットは己の無知さと鈍感さに後々後悔することになる。
娘と夫人が出かけた日の午後、頼まれていた繕い物をしていたリュネットの許に、ご主人が姿を現した。
作業を続けていい、その間少し娘の話をしよう、と言われ、繕い物を続けながらいつもの修学状況の報告になった。そのあたりまではいつものことだったので、まったく疑問を抱かなかった。
繕い物がひと段落し、糸を切って針を抜いたところで、そこにいる筈のご主人が黙り込んでいることに気がついた。針を針山に戻しながらふっと見遣ると、彼はじっとこちらを見つめていた。
どうかしたのだろうか、と思いつつ首を傾げると、彼は立ち上がり、つかつかとリュネットの許にまで歩み寄って来た。
いきなり腕を掴まれ、ぎらつく目つきで「ミス・スターウェル」と呼びかけられたときの肌が総毛立つような感覚は、今でもはっきりと覚えている。
引き寄せられ、唇を奪われそうになった。突然のことに恐怖が走り、目の前の雇い主を突き飛ばした。その抵抗が彼のなにかに触れたようで、今度こそ力づくで襲いかかって来られた。
そんなことになるとは思わなかったリュネットは悲鳴を上げ、手足を滅茶苦茶に動かして暴れ、相手は雇い主だというのに、思いっきり殴る蹴るをした。頬に爪を立てて引っ掻いたし、きちんと整えられた髪を掴んで引っ張ったりもした。とにかく必死だった。
リュネットは性的なことに関してほとんど無知だった。それでも、今の自分の状況が、とても危険なものであることだけは本能的に感じられた。
大人しそうな外見のリュネットがそんなに抵抗してくるとは思っていなかったらしく、ご主人は焦ったようだ。いろいろなにか言ってきていたが、必死なリュネットにそんな声は届かない。
そこへ夫人が帰宅した。
泣きながら暴れている家庭教師と、それに覆い被さる夫の姿を見て――彼女は、リュネットの頬を叩いた。
「人の夫を誘惑するなんて、なんてふしだらな娘なの! そんな人間に大切な娘の教育を任せることなんて出来ません!」
リュネットは茫然としたまま、なんの反論の機会も与えられず、そのまま屋敷を追い出された。
どうしよう、と途方に暮れながらも、ひとまず職業斡旋所に向かった。そこには宿泊施設があり、職を探している少しの間は泊めてもらえるからだ。
しかし、紹介状のないリュネットの職探しは難航した。実家もなく身元もはっきりとしないので、なかなか採用にまで至らないのだ。
仕方なく、元の女学校に連絡を取ってみることにした。
訪ねて行くとやはり心配されたと同時に、数日前に来客があったことを聞かされた。リュネットは飛び級をして卒業してしまったが、本来ならまだ在学している筈だったので、それを訪ねて来たらしい。
相手はノースフィールド伯爵家の使用人で、相続のことで大事な話があるので、お嬢様に至急連絡を取りたい、という話だったという。
葬儀を終えたときにドナルド一家に家督その他のすべてを相続され、既にその問題は片付いてしまっている筈だ。今更なにを相続するのか、と疑問に思ったが、わざわざ連絡を取るのも嫌で悩んだ末に教師達に相談してみた。
教師達は数日待つように告げ、いったいどういうことなのか探りを入れてくれると言った。しかし、丁度入れ違いでロンドンに向かった使用人が、ダルトン家にはリュネットはいなかった、と苦情を言いに来たのでその必要はなくなった。
嘘を教えたのか、と詰め寄られたのを幸いに、こちらでも行方を探してみるから、よければ事情を教えてくれ、と頼むと、知っている範囲で教えてくれた。マシューの雇った探偵の報告書にあった口の軽い使用人というのは、この者のことと思われる。
曰く、先代の遺言で、リュネット自身にしか相続出来ないようにされている遺産が見つかり、その手続きの為に連絡を取りたいという事情らしい。
それならばきちんと連絡を取るべきではないか、と考えているところに、実家に帰省していた後輩が「変な噂を聞いた」と告げに来た。
ドナルド・スターウェルが、息子とリュネットを結婚させる、と社交界で吹聴しているらしい。
たまたまそれを聞いた後輩の姉が、あなたの先輩のことではないか、と言って来たのだという。リュネットの名前は少し変わっているので、別人のこととは思えないということだ。
それを聞いたリュネットは、すぐに学校も暇することにした。寄宿学校に捨てるように放り込んだくせに今更関わり合いを持とうなどと冗談ではない。
エレノア・ホワイトの名前で新しい紹介状を用意してもらってロンドンに戻り、髪を染める薬剤を用意して姿を変えた。この頃からメグとの連絡を絶つことになった。
しばらく簡易宿を渡り歩いて様子を見つつ、新しい職場を探したのが、去年の盛夏の頃だ。
そして程なくして見つかったのが、ヒース男爵家の次男と三女の家庭教師の職だ。
ヒース家には前妻の息子という二十四になる長男がいて、これがとても好色な青年だった。連日朝まで飲み歩き、娼館に通うことも多々あり、いつも派手な化粧の女性達の肩を抱いて遊び歩いていた。
十歳ほどの子供達の相手をしているリュネットにはまったく関わりのない存在だったのだが、まだ若い女というだけで、その長男の標的となったらしい。
ダルトン家での教訓から、リュネットはその男と二人きりになるような状況は避け続けた。子供達の傍にいて、そうでなければメイド達と針仕事をし、決して一人になるような隙を見せないように気を配った。
逆にそれがいけなかった。
ヒース家の長男は、若い分血の気が多く、幼い頃から嫡男として甘やかされてきたこともあり、ダルトン家の主人のように理性的ではなかったのだ。
生徒である弟妹達の前で油断していたリュネットを羽交い絞めにし、そのまま人気のない部屋の中へ引きずり込もうとしたのだ。
兄の行動に恐怖し泣き叫んだ子供達が、他の使用人達を呼んで来てくれ、間一髪のところでリュネットは彼と引き離された。
しかし困ったのは、この長男と、生徒達の母であるヒース男爵の後妻が、ただならぬ関係であったことだ。
秘密の恋人であった義理の息子が、年若い家庭教師に手を出したことを知った男爵夫人は、リュネットを激しく糾弾した。それは当主であるヒース男爵にも伝わり、息子を誘惑したふしだらな女として蔑まれ、最終的には解雇される運びとなった。
春の声がまだ少し遠い時期に再び職を失ったリュネットは、また職業斡旋所に戻ることになる。今回は紹介状を用意してもらえたが、どうなるか――と意気消沈しつつも、前向きに次の仕事を探すことにした。
あまりにも短期間で仕事をクビになるので、斡旋所の職員にどう思われているかと不安を抱いていたが、職場環境が悪かったり、雇い主と合わずに辞めたりと、失職している家庭教師の女性は意外にも多かった。リュネットと同じような目に遭って辞めて来たという人も何人かいた。
そんな女性達と励まし合ったり、必要な情報を交換したりしながら、職探しを続けていた結果、二ヶ月ほどでようやく次のホルス男爵家へと繋ぎがつけられたわけだ。
ここまでの期間で、髪色を変え、偽名を名乗っていたことで、ドナルド一家に見つかることもなく、なんとか平穏に過ごせてはいた。新しい職場も決まり、生徒となるそこの家の娘達は素直で可愛らしく、順風満帆だと思えていたのだ。
しかし、つい四日前のことだ。今までの家と同じようなことがあった。今度の相手は庭師の青年で、随分と馴れ馴れしくはあったが親切な男だったので、油断していた。後ろから抱き締められて唇を奪われたが、抵抗して殴りつけた。当たり所がよかったのか悪かったのか、よろけた拍子に傍の塀に当たり、彼は歯を一本欠けさせたらしい。
庭師が呻いている隙に逃げ出して事なきを得て、このまま静かにやり過ごそうと思っていたのに、今朝になって突然解雇を言い渡されたのだった。
ここまでゆっくりとだが一気に話し、リュネットは静かに溜め息を零した。
「これが、今までにあったことです」
すっかり冷めてしまった紅茶に手を伸ばそうとすると、横からメグに抱き締められた。
「ああ、リュヌ……可哀想に。そんな苦労をしていたなんて!」
「メグ……」
抱き締めて来た親友は涙を零していた。
そんなメグの背中を抱き返しながら、マシューの方を見た。彼は黙ったまま組んだ指先を見つめている。
「侯爵」
リュネットは静かに呼びかける。
「これがすべてです。その報告書と相違がありましたか?」
尋ねると、いいや、とマシューは首を振った。そうして、膝に肘をついて僅かに屈むような姿勢を取ると、組んだ指先を唇に押し当ててなにかを考え込むような表情になる。
なにも言われないのならば答えることはない。
メグの涙を拭いてやろうとハンカチを探すが、生憎持ち合わせがなく、袖口を引っ張り上げて代わりにする。メグは少し申し訳なさそうな顔をしつつも、リュネットが優しく拭ってくれるのに目を閉じて委ねた。
「こういう言い方をすると、腹を立てるかも知れないが」
メグの肩を抱いてあやすように叩いていると、マシューが静かに口を開いた。
「よく何事もなく、純潔のままでいれたものだ」
「お兄様っ!」
兄の物言いにメグが金切り声を上げる。リュネットはそれを静かに制した。
彼の言いたいことは尤もだ。自分でも運がよかったとしか思えない。
「お疑いですか?」
とても恥ずかしいことだが、別に疑われても仕方がない。とっくに純潔を奪われていてもおかしくないような状況だったのだから。
マシューは肩を竦める。
「いいや。処女かそうでないかの反応くらいわかるよ」
どういう反応のことだろう、と疑問を抱くが、そこを深く追求するつもりはない。そうですか、と頷くだけに留めた。
メグは兄の失礼な言動に腹を立てたようだ。涙に濡れた切れ長の目を吊り上げ、自分とよく似た面差しの男を睨み据える。
「私の大切な親友に対して、そういうことを仰らないでくださいませ。いくらお兄様でも軽蔑しますわよ」
妹の怒りに対し、マシューはすぐに非を認めた。
「悪かった。謝るよ」
きっちりと頭まで下げられたので僅かに面食らうが、彼は元からこういう人だった。身分に見合って態度はだいたい尊大だが、自分の非は素直に認めて謝罪の出来る人で、その部分はリュネットも好感を持っていた。本心から反省しているかは別のようだが。
頭を上げてくれ、と断り、リュネットはもう一度溜め息を漏らした。
「図々しいお願いだとは思いますが、侯爵が今ご存知のことも、少しお話頂けないでしょうか?」
ノースフィールド伯爵家のことに関しては、リュネットより多くの情報を持っていそうだ。その情報は今のリュネットには必要なものであり、是非にも教えてもらいたいものだ。
いいよ、とマシューは応じた。
「――と言っても、僕もまだそんなに多くの情報を持っているわけじゃない。調査は継続中でね」
元々はリュネットの行方を探す為に雇った探偵だったが、その調査の過程でノースフィールド伯爵家の妙な動きが判明したので、そちらの方も追加で調査依頼をしているところなのだ。
探偵からの報告と、マシュー自身が社交界で見聞きした話を合わせた程度の情報しかないが、それでもいいのか、と尋ねられ、リュネットは大きく頷いた。
代替わりをしても、相変わらずカートランド家とスターウェル家に接点はなく、ドナルド達から直接話を聞いたわけではないが、リュネットが耳にした後輩の話というのでだいたい当たっている。
リュネットの父である先代ノースフィールド伯爵は、まだ若いながらも定期的に遺言書を更新するような慎重な人で、亡くなる前にも新しい遺言書が作成されていたらしい。
男系相続の家督のことは別として、妻子に幾許かの財産がきちんと残るように書かれた遺言書が弁護士の許に預けられていたのだが、ドナルド達はそれを半ば無視し、自分達に都合のいいように扱ったらしい――というのは、探偵からの報告だ。
その中に、リュネット自身の手にしか受け取ることが出来ないように仕組まれた財産があった。それを相続するにしても、処分するにしても、リュネット本人のサインが必要になるというものだ。それは法的な効力を持った遺言で、それ故に今まで凍結されたままになっていたらしい。
家督を譲るべき男子のなかった先代は、残される妻子が不遇な目に遭わされることを想定していたかのように、そうした遺言がいくつも残されていたようだ。
今年の春になり、息子であるジョセフがリュネットと将来的に結婚するという噂を耳にするようになったのと同時に、探偵からの報告で、何故そんな話が出て来たのかを詳しく知ることになった。それが今年の春先のことだ。リュネットの後輩の話だとそれはもう随分と前から語られている話のようなのだが、スターウェル家と特に親交のなかったマシューの耳に入るまでにそれだけの時間差があったようだ。事情通というほどではないが、それなりに広く情報を集めているというのに知らなかったとは、情報が進退に大きく左右する社交界に於いて、これは大きな失態だと感じた。
探偵からの報告と、社交界での噂話を合わせて考えると、リュネットに残されていたのは少しの金銭と、ちょっとした不動産らしいということだ。嫁入りのときの持参金によいだろう、というのが遺言だったという。
つまりその遺産を手に入れる為に、リュネットとジョセフを結婚させようというのだ。
愛する従兄弟である先代の忘れ形見であるリュネットと、現当主の嫡男が結婚することは体面的にもいい、という話らしい。確かにその通りだ。リュネットと結婚すれば、昔から陰でいろいろ言われていることを黙らせることも可能だろう。
当事者であるリュネットの了承を得ないまま、まわりから固めてしまおうとしているのか、近々婚約をするつもりだとまで言っている。それはさすがにマシューも直接耳にした。
肝心のリュネットが行方知れずだというのに、いったいなにを言っているのだろう、と思って探りを入れてみた。メグに行方を探すように頼まれていることもあったので、居場所を知っているのなら幸運だ。
しかし、尋ねてみても答えは曖昧だった。
結局彼等が答えたことは、リュネットとは近々婚約し、数年内には結婚するつもりなのだが、現在彼女は少々病んでおり、保養地で静養させている――ということだった。
それが嘘であることはすぐにわかった。当時のマシューは、リュネットがダルトン家を解雇され、再び職業斡旋所の門を叩いたところまでは把握していたからだ。
「僕が信頼性のある情報として知り得ているのは、これくらいだよ」
報告書を封筒にしまい直しながら、マシューは話を締めた。
それだけでも今のリュネットには十分だった。
結局また遺産の話なのだ。七年前に終わったことだとばかり思っていたのだが、そう簡単な話ではなかったということだ。
もう放っておいて欲しかった。リュネットから思い出もなにもかも取り上げておいて、凍結された遺産も欲しいから会いたいと言われ、会ったら会ったで結婚まで迫られるのかと思うと、眩暈を通り越して吐き気がしてくる。
以前のリュネットは、特に男性を嫌いだと思うこともなかったが、この二年ばかりの間に起こったことといい、ドナルド達の身勝手な行動といい、嫌悪感でいっぱいになる。気持ちが悪い。
リュネットが女だからいけないのだろうか。親もなく、家もなく、後ろ盾もない無力な年若い女だから、こういう事態になってしまっているのだろうか。
イライラするし、胃のあたりがムカムカして来る。
「……さて。話はこんなところでいいかな」
眉間に皺を刻み込みながら無意識に胸のあたりを握り締めていると、もうお開きにしよう、とマシューが平静と変わらぬ声で言った。
それもそうだ。リュネットは尋ねられたことには答えたし、マシューも答えてくれた。これ以上はなにもすることがない。
「夕食までにはまだ時間があるね。二人で庭でも散歩してくればいい」
懐中時計を開いて確かめたマシューは、妹達にそう言った。
「お兄様は?」
話を聞いているうちに涙の止まったメグは、小首を傾げた。先程の暴言にはもう怒っていないようだ。
「僕は仕事がある。ちょっと用を済ませたあとは書斎にいるから、なにかあればおいで」
立ち上がると妹達の座るソファの前に来て、固く握り締められて色の白くなってしまっているリュネットの拳に手を伸ばした。ハッとして身構えるが、彼はその拳を解いて手を添わせると、腰を折って紳士らしく口づけた。
「ではまた。夕食の席で」
挑むような目つきにドキリとする。無意識に身体を後ろに引く。
そんなリュネットの仕種にふっと微笑みを零し、メグには頬を寄せて軽くキスをしてから立ち去った。
閉まる扉を見送りながら、昔はこんなことしなかったのに、と思った。
そういえば、紳士が淑女にするように手の甲に口づけをされたのは、今日が初めてだった。ホルス男爵邸に迎えに来たときに、まるで脅迫するような目つきだというのに、紳士らしく慣れた仕種で手の甲への口づけを贈って来たのだ。
(大人扱いをされている、ということかしら……)
マシューの唇が触れたところが変な感じだ。軽く触れただけなのだから、特に変なことをされたわけでもないのに、なんだか落ち着かない。
だからマシューは苦手だ。




