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侯爵様と家庭教師  作者: 秋月 菊千代


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37 家庭教師の告白


 日付が変わって少しした頃、マシューとバーネットはアリスティドを伴って帰宅した。

 事前に客間の用意は申し付けてあったので、遥々海を越えてやって来たリュネットの又従兄弟は、暖かい部屋ですぐに休むことが出来た。


「なにからなにまでお世話をかけて申し訳ない、カートランド侯爵」

「なにを仰いますか。お呼びしたのはこちらの方なのですから、これくらい当たり前のことですよ」


 そう答えながら、彼の目許がリュネットに似ていることに気がついた。

 同じ又従兄弟でもジョセフとはまったく似ていないのに、アリスティドとはほんの少し似ている。面白いものだ、と思う。

 客人のもてなしは従僕達に任せ、マシューも休むことにする。


「お前も長旅ご苦労だったな、バーネット。こちらのことはいいから、もう休め」

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きます」


 疲れた顔など見せたことのない従者にも、さすがに今回のことはかなり無理をさせたらしい。自室に下がろうと踵を返した横顔に珍しく疲労の色が見えた。

 主人の帰宅を待っていたサンダースから外出後の報告を受け、マシューも寝支度にかかることにする。リュネットが連行されてからの一週間以上、なんだかんだとまともに眠っていなかったので、自分のベッドが恋しくなった。


 しかし、部屋に戻る前に、リュネットの顔を見ておきたい。

 マシューが出かけて少しした頃に目を覚まし、付き添っていたジュヌヴィエーヴや見舞いに来たメグと話し込んでいたが、いつもと変わりない様子だった、とサンダースから報告を受けたので安心はしている。だが、やはり自分の目で様子を見ておきたい。

 マシュー達が帰宅する一時間ほど前に寝室に入ったという話だったので、一応のノックは控えめにした。ポリーやモンゴメリが見たら、未婚の女性が寝入っている寝室に入るなんて非常識だ、と叱られそうだが、今夜は目を瞑ってもらいたい。


 嘗ての末妹の部屋は、枕元の小さなフェアリーランプだけが灯され、薄暗く静かだった。

 そっとベッドの傍に立つと、安らかな寝顔をしているリュネットの姿があった。その様子にマシューは安堵し、腰かけて頬に触れる。

 抱き締めたときにも感じたが、拘留されていた間に随分痩せたようだ。元々ふくよかな方ではなかったが、頬はもう少しふっくらと娘らしい丸みを帯びていた気がする。

 頬骨の形をなぞり、目尻に親指で触れると、リュネットが微かに眉を寄せた。


「――…侯爵……?」


 薄っすらと目を開けたリュネットが、こちらを見下ろしているマシューの姿に気づく。


「起こしてしまったね、ごめん」

「いいえ……。お戻りなさいませ」


 何度かゆっくりと瞬き、眠気を追い払う。


「今、何時くらいですか?」

「そろそろ一時を回るところだよ」

「随分遅かったんですね」


 ほう、と溜め息を零して起き上がろうとすると、マシューに止められる。


「寝ていていいよ。顔を見たらすぐに出て行くつもりだったし」


 そう言って微笑みながら頬を撫でられたので、リュネットはなにも言わず、その手に自分の手を添わせた。相変わらずひんやりとしている。

 無言で見つめ合う格好になり、しばらくして、マシューが照れたように苦笑を浮かべた。


「どうしたのかな、リュネット? 今日は随分と甘えてくれるんだね」


 今までのリュネットだったら、こういう雰囲気を嫌がっただろうし、頬に触れる手も払い除けていたかも知れない。けれど今夜のリュネットは大人しい。マシューのことを受け入れてくれているようだ。

 そうですね、とリュネットは頷き、そっとマシューの方へ手を伸ばした。それに気づいたマシューがもう片方の手でその手を取る。そこへリュネットが指を絡めてきた。


「侯爵」


 寝起きの所為なのか、リュネットの様子がなんだかおかしい、と見つめていると、囁くような微かな声で呼びかけられる。


「なに?」


 絡められた指先を撫でながら、マシューは微笑んだ。


「あなたが好きです」


 さっきと同じように微かな声でリュネットは囁いた。

 マシューは静かに目を瞠る。

 たった今聞かされた言葉が信じられなかった。返す言葉が見つからずにリュネットを見つめ返すと、彼女はマシューの手の下で頬を赤く染めていた。


「――…きみからそんな言葉を聞けるなんて、夢でも見ているのだろうか」


 今までの経緯があるので、悲しいことに、嬉しいと思う気持ちよりも、驚きと疑いの方が勝っている。

 リュネットは恥ずかしそうにしてマシューの手を離し、耳の方まで赤くなった顔を毛布で隠した。


「リタが、手紙を届けてくれて」


 毛布に隠れながら小声でもそもそと喋り始める。うん、とマシューは頷いた。


「とても嬉しくて」

「うん」

「すごくあなたに会いたくなって」

「うん」

「…………」

「リュネット?」


 言葉を途切れさせたリュネットを怪訝に思い、毛布をそっと引き剥がす。思ったよりも抵抗なく捲ることが出来た毛布の下からは、涙に潤んだリュネットの瞳が現れる。

 驚いているマシューの目の前で、その涙はぽろぽろと零れ落ち始めた。


「あのまま、あなたに会えなくなるのではと思うと、恐くて……」


 留置所に入れられたときまでは平気だった。きっとこれはなにかの間違いで、すぐに解放されるものだと思っていた。けれど、翌日から始まったハウス警部のしつこい尋問に、だんだんと心が萎れて行くのを感じていた。何度も同じ問答がなされ、ときに恫喝され、逆に猫撫で声で優しく諭され、いろんな方向からリュネットを追い詰めていくハウスの尋問は、本当につらかった。

 まだ頑張れる、もう少し頑張れる、と自身を鼓舞しているとき、ふと気づいてしまった。他の拘留者には面会人が来ている様子なのに、自分のところには誰も会いに来てくれていないことに。

 リュネットが捕まったことは、きっとハワードがメグにも知らせてくれていると思っていた。それなのにメグも来てくれなくて、他の誰も来てくれない。


 自分が犯した罪状というものを信じられてしまっているのだろうか、と不安になった。

 部屋の中を捜索されているときはリュネットを庇ってくれていたハワードだったが、盗品である宝石が見つかり、もう信じてくれなくなったのだろうか。彼が信じてくれなくなったら、きっとお屋敷に勤めている他の人達も疑っているに違いない――そう考えたら、留置所の中にいることが恐くなってしまった。


 不安に圧し潰されかけていたときに、ようやくマクガイヤが面会に来てくれた。それがどれだけ嬉しかったことか。

 あともう少し頑張ろう、と懸命に気を張っていたところにマシューからの手紙を渡され、嬉しくて堪らなかった。マシューがまだ変わらずに自分のことを思ってくれているとわかり、リュネットは折れそうになっていた心をなんとか奮い立たせた。

 それでも恐かった。ハウスの尋問は延々と続いていくし、夜は眠れないし、この先どうなるかもわからなくて、どうしようも出来ない状況が恐かった。


「僕はここにいるよ、リュネット。きみの目の前に」


 あとからあとから流れ落ちる涙を拭ってやりながら、マシューは訴えかける。

 はい、とリュネットは頷き、起き上がった。


「こんなことを言うのは、どうかと思うのですけれど……」

「いいよ、言って。それできみが安心出来るのなら、なんでも聞くから」


 躊躇いがちに零される言葉を拒絶せず、マシューはすぐに頷く。つらい目に遭って不安定になっているリュネットを落ち着かせられるのなら、どんなことでも聞いてあげたかった。

 リュネットは震える手をマシューの方へ向け、僅かに唇を噛み締める。


「抱き締めて頂いても、よろしいですか?」


 マシューは頷く一瞬すらも惜しむように腕を伸ばし、リュネットの腰を掴んで引き寄せ、膝の上に抱き上げた。

 目の前の首筋に額を寄せ、リュネットは目を閉じる。彼の温もりと香りに頭の天辺(てっぺん)から足の爪先まですっぽりと覆われたような心地になり、細く嘆息した。

 薄手の寝間着に包まれたリュネットの背中は、明らかに骨が浮いていた。昼間に再会したときより着ている生地が薄い所為で、浮き出た肩甲骨や背骨の感触までもがよくわかる。


 半月ほど前に彼女を抱いたとき、痩せてはいたが娘らしい丸みがあり、吸いつくような肌質の柔らかい肢体だった。それなのに、今はこんなにも骨張っている。それが痛ましくて堪らなかった。

 昔からあまり太らない様子だったが、食が細いことを抜きにしても、脂肪や筋肉がつきにくい体質なのだろう。だからメグよりも非力だし、ほっそりとしている。


「これでいいかい?」


 掌に背骨の感触を確かめながら尋ねると、はい、とリュネットは頷く。


「ごめんなさい。お疲れでしょうに……」


 彼がリュネットの為に手を尽くしてくれていたことは知っているし、今も警察(ヤード)からの呼び出しから帰宅したばかりだ。疲れているに決まっているので、あまり我儘を言って困らせたくはない。

 それでも、もう少しだけこうしていて欲しかった。

 リュネットのそんな気持ちを察したマシューは、ほんの少しだけ悲しくなり、抱き締める腕に力を込めた。


「きみに比べたら、僕の体調なんてどうということないよ。気にしないで」


 慣れない環境で追い詰められていたリュネットと違い、マシューは慣れ親しんだタウンハウスにいた。資格や伝手を持っていたチャールズ達のように駆け回っていたわけでもなく、屋敷に待機して、調査員や探偵達からの情報の中継地点となっていただけで、体力的にはそこまで疲弊してはいない。だから大丈夫だよ、と伝えると、リュネットは少し安心したような笑みを浮かべた。

 涙はもう止まっている。ほんのり赤くなった目尻に口づけると、リュネットは両手でマシューの顎を捕らえ、その唇に自分の唇を触れさせた。


 マシューは驚いた。今までに何度もキスを交わしたが、彼女からしてくれたことは一度もなかった。

 軽く触れるだけですぐに離れようとする唇を追い駆け、マシューはもっと強く触れ合わせる。それをリュネットは嫌がらなかった。

 躊躇いがちに薄く唇が開き、マシューを迎え入れようとする。その様子を見逃さず、細く開いた歯の間を舌先で広げ、その奥へ舌を絡ませる。リュネットが僅かに吐息を漏らした。

 上顎の内側を舌先で辿り、逃げるリュネットの舌を追い駆けて絡ませると、濡れた音が零れる。リュネットはそういうことがあまり好きではないらしく、頬を赤くして少し嫌がる素振りを見せたが、マシューはリュネットの舌先を引き寄せて甘く噛み、軽く吸って更に深く口づける。だが、彼女は逃げはしなかった。


 微かに喘ぐ声が零れる。驚いたことに、いつもならこういうことを嫌がる筈の彼女は、もっと、とせがむようにマシューの首筋に両腕を回し、震える手で自分の方へ引き寄せる。マシューも思わず、その細い腰を抱く腕に力が籠もった。

 しかし、キスにも不慣れな少女は次第に苦しそうになっていき、時折身体を震わせる。やりすぎたことに気づいたマシューは、名残惜しげに唇を離した。


 はあ、とリュネットは息をつく。苦しげに潤んだ瞳が見つめてくるので、唾液に濡れる唇を親指で拭ってやった。


「……あまり煽らないで欲しい」


 囁き零すと、自覚はあったのか、リュネットは「ごめんなさい」と小さく謝った。

 けれど、離れることはせず、マシューの胸許にそっと凭れ掛かる。

 今夜のリュネットは本当にいったいどうしたことだろう。甘えているというより、誘われているような気分になる。

 出来るならこのまま抱いてしまいたい。しかし、何日も拘留されていたリュネットは弱っているだろうし、あまり無理はさせたくない。その上ここは長い間メグの部屋だった。妹の使っていたベッドの上で、妹が溺愛する親友を抱くことには少し気が引ける。


 そんなことをマシューが考えているとは気づいていないリュネットは、そっとマシューのシャツに指先を這わせ、その手触りに心安らぐような表情をしていた。その仕種もまた、マシューの理性の限界を試そうとしているかのようなものだ。

 恐らくリュネットは、自分が取った一連の行動がマシューにどのような効果を(もたら)せているのか、気づいてもいない。悪気がないのはわかりきっているので、酷い娘だ、と苦笑するしかなかった。


「まだ疲れているんだから、寝直した方がいい。横になって」


 胸許を撫でているリュネットの手を取って指先に口づけ、宥めるように額にも口づける。

 頷いたリュネットは促されるままに毛布の中へ戻り、マシューのことを見つめた。


「侯爵は……」

「きみが寝入るまではここにいるよ」


 ふらりと手が差し出されるので、落ち着かせるように握ってやる。


「それとも、一緒に寝て欲しい?」


 ほんの少し揶揄う調子で尋ねてみると、リュネットはパッと頬を染めた。握っていた掌が僅かに強張るのを感じたが、すぐにその緊張は解け、代わりに握り返される。

 リュネットの唇が震えながら微かに動く。はい、と。

 マシューは苦笑してフロックコートとウエストコートを脱ぎ、タイを解いてシャツを緩めた。




 雨音に目を覚ます。

 部屋の中は薄暗かったが、時刻はもうすぐ六時になるところだった。

 マシューは隣で眠るリュネットを起こさないようにベッドを抜け出し、床の上に投げ出しておいた上着やタイを拾って立ち上がった。


「お早うございます、カートランド卿」


 欠伸を噛み殺しながら部屋を出ると、すぐ傍の窓際で、ジュヌヴィエーヴが微笑んでいた。


「……お早いんですね、レディ・ノースフィールド」


 先程まで隣で眠っていた娘と同じ顔が突然目の前に現れ、マシューは心臓が縮み上がるような感覚になった。あまり驚かせないで欲しい。


「年寄りは朝が早いんですのよ」


 年寄りの雰囲気など微塵も感じさせない楽しげな笑みを向けながら、孫娘の眠る部屋から出て来た青年の姿に素早く視線を走らせる。意外にも情交の痕跡は感じられなかった。

 ほんの少しだけ安堵しながら、もう一度笑みを向ける。


「あまり人のことを言える立場ではありませんから、厳しく言うつもりはございませんけれど……婚前交渉はなるべくお控えくださいましね」


 貞淑さを求められる上流階級に於いて、冷遇されるのも、後ろ指差されるのも、すべては女性の方だ。いくら男性の方に非があったとしても、笑い者になって軽蔑の対象となるのは女性だけなのだ。それがこの国の貴族社会の認識だった。

 ジュヌヴィエーヴは田舎で奔放に育ち、いろいろな面でおおらかだったし、突飛な発想にも至る娘だった。それ故に、ギャレットとの結婚を反対されたとき、彼を押し倒して既成事実を作り、聞く耳を持たなかった家族に突きつけた。


 その後、帰国する夫と共にこちらに渡り、様々な苦労を味わうことになった。

 国が違えば習慣や価値観も違うわけで、最愛の夫にも迷惑をかけてしまったことで、ジュヌヴィエーヴは少しだけ自分の浅慮さを後悔したのももう遠い昔の話だが、社交界の認識がその程度の時間で変わるとは思えない。ただでさえ今まで不遇に生きて来た孫娘にだけは、そういう目に遭って欲しくない。防ぎようのあることなのだから、出来ればそうならずにいて欲しい。


 そんな祖母の心配を感じ取ったマシューは、その気持ちをしっかりと受け止める。


「寝入るまでついていて、そのまま眠ってしまったんです。誤解を与えて申し訳ありません」


 半分は本当のことだ。

 紳士的に謝ると、ジュヌヴィエーヴは頷いた。それ以上追及するつもりはないらしい。


 立ち去るマシューと入れ替わりにリュネットの様子を見に行くと、こちらもきちんと寝間着を着ている。部屋の空気にもおかしいところは感じられなかった。

 本当に一緒に眠ってしまっていただけなのだな、と考えながら枕元に腰を下ろし、ぐっすりと眠っている孫娘の顔を見下ろした。昨日とは打って変わり、幸せそうな寝顔をしている。

 マシューと寝ていた所為なのだろうな、と思うと、なんだか微笑ましく感じる。


「……あら?」


 起こさないようにそっと頭を撫でていると、寝間着の襟の陰になっている場所に小さな痣を見つけた。色が白いので、赤く鬱血したそれは思ったよりも目立つ。

 幸いにも服を着ればなんとか隠れる位置だ。これくらいは仕方がないか、と苦笑し、就寝前に消された暖炉へと向かった。

 朝はまだだいぶ冷える。リュネットが目を覚ましたときに寒くないように火を入れてやり、自分は昨日と同じようにベッドの傍の椅子に腰を下ろし、その寝顔を見つめた。

 孫娘の顔は何時間でも見ていられる。嘗て一人息子であるフェリクスを出産したあとに、乳母や子守りに止められるのも気にせず、夫婦揃って一日中眺めていたように。

 もうすっかり大きくなってしまい、恋をするような年齢にもなってしまっているが、可愛くて仕方がない。離れていた空白の時間を埋めるように、ジュヌヴィエーヴはずっとリュネットの寝顔を見つめていた。


 八時を少し過ぎた頃、メイド達がやって来た。

 カートランド家では社交シーズン以外は八時頃に起床して朝食を摂り、それぞれのことをする決まりになっているのだという。

 メイド達が洗顔用の水の用意や、着替えを出してくれている間に、ジュヌヴィエーヴはまだ眠っているリュネットを揺り起こした。


「起きて。朝ですよ」


 小鳥の(さえず)るような優しい祖母の声に起こされ、リュネットは目を覚ます。一瞬あたりを見回したがすぐになにかに気づいたらしく、小さく欠伸をして誤魔化した様子を目敏い祖母は見つけたが、なにも言わずに微笑んだ。


「ご朝食は如何なさいますか?」


 コルセットを締めるのを手伝ってくれながらメイドが尋ねてくる。


「お嬢様は以前のように、卵とベーコンを少しとスコーンでよろしいですか?」

「はい、大丈夫です。ありがとう」

「奥様は……」

「好き嫌いはありませんの。料理人の方が用意してくださったもので十分ですわ」

「わかりました。そのように伝えます」


 十五分程あれば用意は整うと言われたので、その頃食堂に行くことを承諾する。


「髪はどうする? お祖母様が結ってもいいかしら?」


 着替え終えて髪を梳かしていると、ジュヌヴィエーヴが鏡越しに尋ねてきた。リュネットは少し考えてから、簡単に編んで留めておく。


「あとでゆっくり結います」

「そう?」


 ジュヌヴィエーヴは小首を傾げて笑い、リュネットの前髪を撫でた。


「好き嫌いがないと仰っていたけど、お祖母様が一番お好きな食べ物はなに?」


 話題を替えようと話を振ると、そうねぇ、と祖母は微笑む。


「檸檬のタルトと苦めのショコラが好きだわ」

「! 私も檸檬のタルトが大好きなの」

「あら。小さい頃のあなたは、酸っぱいからって嫌がっていたのに」

「そうなの?」


 記憶にないな、と笑うと、祖母も笑って頷いた。

 やはり十五年の空白は長い。すっかりと知らないことだらけだ。


「……しばらくこちらにいらっしゃるの?」


 リュネットは祖母の手を取りながら少し寂しげに尋ねた。


「そうね。ひと月くらいはいるつもりで出て来たから、もう少しはね」


 しばらくは英国内に滞在して、八年前の息子の死後、領地がどういう状況なのか調べさせてもらう必要がある。それは先々代伯爵夫人としてのジュヌヴィエーヴの責任であるとも言えた。

 リュネットを酷い目に遭わせた憎らしいドナルドの今後のことも気になる。そちらはマシューやチャールズが上手くやってくれるだろうが、あの男には昔からいろいろとされてきた経緯もあるので、自分の目でしっかり確認したいことも山程あるのだ。


 険しい表情をする祖母にリュネットは不安そうな目を向けるが、時間が来たので揃って食堂へと向かう。

 既にマシューとアリスティドが席に着いて談笑していた。


「お早う、リュネット。よく眠れたかい?」


 リュネットの姿に気づいたマシューはすぐに立ち上がり、椅子を引いてくれた。

 頷いて腰を下ろすリュネットの頬に口づけ、まだきちんと結われていない髪に目を留める。


「朝食が済んだら結おうか。今日はどうしよう?」

「お好きなように」


 リュネットは微笑んで答え、マシューも頷いた。

 そんなやり取りを聞いていたジュヌヴィエーヴは、あらあら、と微かに苦笑したが、アリスティドは困惑しているようだった。変な関係だと思ったのだろう。


 それは再訪したメグも同じだったようだ。丁度リュネットの髪を結っている最中に現れたので、兄はいったいなにをやっているのか、と怪訝そうにしていた。

 いつも通りの職務に復帰したバーネットが、そんなメグに「最近いつもこうなのです」と耳打ちすると、思わずにやりとする。自分が気づかないうちに兄と親友はかなり親しい間柄に進展していたらしい。

 あれだけ兄のことを嫌っていたというのに、ふた月程離れている間にリュネットにいったいどのような心境の変化があったのか――昨日報告し合っているときにはなにも言っていなかったのに、とメグはほんの少しだけ腹が立った。


「お兄様ったら、随分と器用でいらっしゃるのね」


 意外だわ、と嫌味っぽく言うと、マシューは口の端だけで笑う。


「まあ、お前よりは、大抵の人間は器用だと思うよ」


 レース編みや刺繍などの手芸全般の腕が壊滅的なことをそう評するので、今度は兄に対して腹が立つ。


「あらそぉ。ふーん」


 最後に毛先をピンで留めて完成したらしい髪型を見て、ますます腹が立った。自分が結ってあげたりするものよりもずっとリュネットに似合っている。憎らしい兄だ。

 微笑んで礼を言っているリュネットの姿を見て、メグは一刻も早く姉達に報告に行かなければならないと思った。これは確実に、二人の間になにかがあったとしか思えない。

 リュネットのあの表情は、逮捕されたところを救出してくれたことに感謝しているとかではない。音信不通だったらしい親戚に再会させてくれたことを有難く感じているわけでもない。もっとなにか、今よりもずっと以前に、親密になるような出来事があったに決まっている。

 マシューに付き従っているバーネットならなにか知っているだろうが、彼が兄の秘密を漏らすとは思えない。


 明日には領地に戻る、という話を聞いたメグは、夕方までいる筈だった予定を切り上げ、昼食前にそそくさと帰って行った。





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