21 聖夜に誓う愛の言葉
初めて会ったとき、リュネットはまだ十一歳だった。
肺炎を拗らせた父の死により家督を継いでから半年ほどが経ち、じきに二十二になるマシューから見たら、身寄りのない彼女は頼りなげな小さい女の子だった。
半年毎の長期休暇で妹と共に遊びに来るリュネットの成長を、五年ほど見守り続けた。その間に学校で多くのことを学び、小さく頼りなげだった少女はしっかりとした意思を持つ淑女へと成長し、自分の足で未来を切り開いていく先進的な女性へとなった。その成長をマシューは楽しく思っていた。
けれど、二年ほど行方不明だった時を経て再会すると、彼女は目を瞠るような美しさを花開かせながらも、以前のような頼りなげな娘に戻ってしまっていた。
卑劣な男達の手に因って荒らされた彼女は、まっすぐに育った筈の強い心を圧し折られ、儚げで、今にも折れそうな頼りない少女へと変えられてしまっていたのだ。その姿は成長と共に開花したその美貌と相俟って、とても危ういものを感じさせた。
そのリュネットを支えていたのは、彼女に残された僅かな矜持だった。それを守ることで彼女はなんとか自活している状態だったのだ。
気を張り詰めさせ過ぎているこのままでは、彼女は自分の振る舞いに因って逆に折れてしまう――そう思ったマシューは、なんとかしてリュネットを守ってやらなければ、と強く思った。
その彼女を更に追い詰めるジョセフの出現により、マシューはリュネットに対して抱いていた自分の気持ちに気づかされた。彼女のことは可愛い末妹の友達で、同じく妹のように感じていたのだが、どうやら少し違っていたことを。
それはマシューにとって意外なものであったと同時に、こうまでもリュネットのことが気にかかっていた自分の心に納得出来るものでもあった。
腕の中に閉じ込めたリュネットの細い背中を抱き締めながら、マシューは滑らかな手触りの彼女の髪に手を伸ばす。
「ねえ、リュネット。顔を上げて。きみの可愛い顔が見えないのは寂しい」
「だったら離してください」
「離したら、きみは逃げてしまうだろう?」
だから駄目だよ、と囁きながらリュネットの髪に口づける。
髪には神経は通っていないのに、彼に触れられたところが、口づけられたところが、熱くなるような気がする。背筋を駆け上って来るなんとも言えないぞわぞわした感覚に、小さく身体を震わせた。
こういうとき、どうするのが正しいのか、リュネットにはわからない。
社交界に出ていれば、男性に迫られたときに上手く躱すにはどうするのが最適か、そういうことも自然に身に着いただろう。けれど、その経験がないリュネットは、マシューの行為にただただ戸惑うことしか出来ないでいる。
恋愛小説でももっと読んでおけばよかっただろうか。シェイクスピアの史劇などは好んで読んでいたが、最近人気のブロンテ姉妹の作品などは読んだこともない。恋の駆け引きすらも知らないリュネットには、女性慣れしたマシューの態度には対応しきれないのだ。
心臓が飛び出してくるのではないかと思えるくらいに、激しくドキドキしている。それが慣れないアルコールの所為だけではないとわかっているが、どうしようもない。
「こんなこと、いけないことです……」
リュネットはなんとか言葉を絞り出す。震えていて情けない限りだが、声を上げないことには相手にも届かない。
「いけないこと? 何故?」
マシューが微かに笑う。
何故、と問われても、リュネットには答えられない。代わりにマシューが問いを重ねた。
「僕は妻帯しているわけでもなく、きみも独り身なのだから、愛を交わすのになんの障害もない。きみの大嫌いな不道徳なことなどなにもしていないよ? それでも駄目な理由はなんだろう?」
「それは……」
問いかけに答えられず、思わず口ごもる。言われてみればなにも問題のない状況だ。
けれど、とリュネットは首を振る。
「私とあなたとでは、身分が違います」
マシューは爵位を持つ貴族で、リュネットは仕事をクビになってばかりいる家庭教師だ。階級制度が根付いたこの国でそんな二人が愛し合うことは許される筈もなく、たとえ許されたとしても、リュネットに与えられるのは日陰者の身だろう。不幸でしかない。
「レディの称号を持つきみと、僕が、身分違い?」
リュネットの指摘をマシューは鼻で笑う。背中に回されている腕の力が僅かに強まったように感じ、リュネットは苦しさから眉を寄せた。
「そんなもの、もう存在しません。あなたがそう呼んでいるだけです」
いい加減離して欲しい。戒める腕の中で身動ぎ、なんとか離してもらおうとするが、相手は細く見えてもやはり男性で、ちょっとやそっとではビクともしない。仕方なく諦めながら吐息を漏らした。
「……どうして、わかってくださらないのですか」
マシューから好意を寄せられること自体は、自分でも驚いてしまうことなのだが、そう嫌な気はしていない。彼のことは一時期でもあれだけ嫌悪していたというのに、一緒にいる時間が増える中で、少しずつだが、自分が思っているよりも強く親しみを感じるようになっていたらしい。
けれど、まわり中に反対され、いろんな人に迷惑をかけるような許されない関係に身を堕とすほどには、リュネットは愚かではない。そんな波乱万丈な人生ではなく、普通の人として、ただ静かに生きていたいだけなのだ。
ここで涙でも流せばいいのだろうか。か弱い乙女のように清らかな涙を零し、震える声で「お離しになって」と哀願すれば、この腕を解いてくれるだろうか。
でもきっと、それはマシューには通用しない。それくらいはリュネットにもわかる。
「ねえ、リュネット。気づいてる?」
相変わらず耳元で囁かれるので、リュネットは身震いする。擽ったい。
なにを、と顔を上げると、ようやく腕に拠る拘束が緩み、こちらを見つめてくるマシューと目が合った。
「駄目だ駄目だと理由をつけているけれど、さっきからきみは、一度として、僕のことが嫌いだから駄目だとは言っていないんだよ?」
ふっ、とリュネットは双眸を瞠る。
そうだろうか。言っていなかっただろうか。
確かに、以前ほどは嫌いだとは感じていない。多少の好感も持ってはいるが、彼の言う『愛』とは別物だと思う。
ああ、と吐息を漏らし、マシューは両手で顔を覆った。
ようやく解放されたリュネットだったが、逆に戸惑ってしまい、身軽に逃げ出すことが出来ない。困惑しながらソファの上をじりじりと後退して行く。
「――…今夜は、きみにキスはしないつもりだったんだけど」
少し距離が空いたところで捕まり、その距離を再び一気に詰められる。
「そこにキッシング・ボウはあるけれど、その力は借りたくない。嫌だったら僕の舌を噛み切ってでも逃げればいい」
戸惑いに揺れるリュネットの瞳に、マントルピースの上に飾られたヤドリギ飾りが炎に照らされて陰影を刻む様子が映り込む。こんなあまり人気のない部屋にも飾っているのか、と使用人達の苦労を思っていると、その視界が黒く覆われる。
圧し掛かって来たマシューの重みにリュネットは眉根を寄せ、声を上げかけた唇を塞がれた。
初めは唇が触れ合うだけだったが、一度僅かに離れると、今度は唇を食べられてしまうのではないかと思えるくらいにすっぽりとマシューの唇に覆われ、引き結ばれたリュネットの唇を温かな舌先が探るように撫で、僅かな隙間を抉じ開けるようにして中に入って来る。リュネットは苦しさから微かに声を漏らした。
背中がソファに当たる。きつく閉じていた瞼を微かに開けると、天井が見えた。ソファの上に倒されたのだ、と気づかされると同時に、宙を掻いた手がマシューの大きな手に捕らわれ、指を絡められて抑えつけられる。
(標本にされた昆虫みたい……)
小さなケースの中にピン留めされている昆虫の姿を自分に重ね、リュネットはなんだかおかしくなってしまった。
今の状況を笑い出したくなってしまったのに、マシューの舌が口の中でリュネットの舌を弄び、その行為に息苦しさが募り、笑い出すより前に咳込みそうになる。眉間に皺を寄せて背筋を撓らせ、嫌々と首を振ると解放されたが、呼吸を整える隙は与えられず、再び唇が重なり合う。
窒息させられてしまいそう――リュネットはマシューの乱暴な口づけに僅かな恐怖を感じ始める。鼻でも呼吸は出来るというのに、そこまで思考が回らない故に、リュネットは更に追い詰められた。
限界を感じ始めて涙が溢れ出したとき、ようやく唇が解放された。
「――……っ、リュネット……!」
名を呼びながら見下ろしてくるマシューの表情に、リュネットは喘ぎながら双眸を瞠った。頬を紅潮させ、いつもきちんとしている前髪すらも乱し、僅かに潤んだ瞳で切なげに見つめてくるマシューなんて、今まで見たこともない。
唾液でべたつくリュネットの唇に指を滑らせ、マシューは苦笑する。
「ねえ、リュネット。どうして抵抗しないんだい?」
「……え?」
きょとんと見つめ返してくるリュネットの表情は、彼女をいつもより幼く見せた。
「僕は期待してしまうよ」
囁いて僅かに伸び上ると、唇にではなく、目尻に唇を触れさせる。溢れていた涙を舌先が掬い取り、その跡に優しく口づける。
指を絡めて捕まっていた左手が持ち上げられ、甲にキスされる。それもまた先程までの荒々しさを感じさせない優しい触れ方で、リュネットは戸惑った。
なにを言われているのかよくわからず、少しおどおどとした様子を見せるリュネットの姿にマシューは苦笑し、手を離した。
「ねえ、リュネット。これが最後だ」
手首が解放されたことにホッとしていると、こつりと額を触れ合わせ、鼻先に吐息を感じる距離でマシューは囁く。
最後、という言葉の意味がよくわからなかった。なにを指して最後と言うのだろう。
リュネットの戸惑う様子を無視するように、彼の手が優しく頬に触れた。
「これ以上抵抗もせず、僕に流されるつもりなら、僕はもう容赦しないってことだよ」
「え……」
「いくら言ってもきみは僕を殴ろうともしない。けれど、僕を受け入れる気はないと言い続けている。きみが本心から僕のことが嫌なら、この手で殴ればいいんだよ。そうしたら、僕はもう二度と、きみに迫ったりしない」
誓うよ、と囁いた目つきが真剣そのもので、今言っている言葉に偽りがないことを知る。
それでもリュネットは困惑し続けたが、痺れを切らしたマシューがリュネットの首筋に手を滑らせて自分の方へ引き寄せると、強引に唇を重ねてきた。
「……っん、……」
思わず吐息を漏らして逸らそうとするが、首のところを抑えられている所為で逃れられない。
けれど、先程までと違ってリュネットの手は自由だ。目の前の頬を引っ叩くことはいくらでも出来る。
この手を持ち上げて、目の前の男の身体の何処でも殴ればいいのだ。頬でも、頭でも、肩でも、腹でも。拳をぶつけられるところを殴れば、彼はすぐにやめてくれる。そういう約束は違えない人だという確信はあった。
それなのに、リュネットの手はピクリとも動かない。
ちょっと手を振り上げればいいだけなのに、なにも出来ない。震えながらマシューのシャツの胸許を握り締めている。
(――…私……何故……)
リュネットの瞳からぽとぽとと涙が零れ落ちた。
マシューの唇がゆっくりと離れて行く。
「リュネット」
茫然と涙を零すリュネットの様子に、マシューは優しく声をかける。
「愛しているよ」
囁かれた言葉を振り払うように、リュネットは震えながら俯いた。ドレスの上にぱらぱらと散った涙が小さな染みを作る。
下を向いてしまった少女の頬に触れ、そっと上向かせる。夜空のような濃紺の瞳は、感情が昂っている所為かいつもより色味が明るく見え、明け方の空のようだった。
「きみのことが好きだ」
まっすぐに見つめながら告げると、リュネットの震える唇が微かに動く。嘘よ、と。
「嘘なもんか。きみを愛している」
どうしてそんな悲しいことを言うのだ、と困ったように言うと、リュネットが首を振る。
「だって、あなたにはリタが……」
その先は言葉にならない。けれど、すべてを言わずとも、マシューにはわかった。
確かにメイドのリタとは身体の関係があったが、それはお互いに割り切った関係だったし、恋だの愛だのというものとはまったくの無縁なものだった。リタもそういったものは求めておらず、お互いに身体の相性がよかったことと、決まった相手がいなかったからそういう関係になっていただけだ。
マシューは深く溜め息を零した。
「彼女とはそういう関係ではないと言っただろう? きみが言うところの、不適切で、ふしだらな関係だっただけだ」
その言葉にリュネットは傷ついたような表情をした。
また大粒の涙が零れ落ちてくる様子に、マシューはどうしようもなくなる。
「きみも知っているだろう? 彼女は仕事を辞めて結婚するんだ、ラリー・クーパーと。僕とはもうそういうことをしたりしない」
リュネットはまだ首を振る。認めないとでも言うのだろうか。
どう答えれば彼女は納得してくれるのか、とマシューは微かに苛立ちを抱く。
リュネットが色恋沙汰や性的なことに対して潔癖であることは薄々感づいていた。雇用先の家で度々襲われかけてきたことが起因となって、男性を忌避し、自分に性的な目を向けられることを厭うているのだ。それは当然の感情だと思える。
その感情をまわりにも向けているが故に、今のように頑なになっているのはわかっているのだが、それでもやはり、キスを受け入れながらも愛情は拒絶するその姿勢が、マシューには理解出来なかった。
どうすればいい、と溜め息交じりに零れた。
「きみが頷いてくれるなら、僕は今後一切、きみ以外の女性には目も向けないよ。当然のことだ。けれど、きみはそれも信じられないって? 僕のことは一切信じてくれないのか?」
「そういうわけでは……」
「じゃあ、どういう意味? 過去に付き合った女性がいることが許せないから、僕の言葉は信じられないってことかい? 僕になにも知らなかった清らかな少年時代に戻れとでも言うの?」
こういう言い方はいけない、と思いつつも、口調に苛立ちが滲んでしまう。
リュネットがやはり表情を曇らせたので、マシューは自己嫌悪に陥った。
「――…頼むから、どうすればいいのか言ってくれ」
俯くリュネットの前で、マシューも頭を抱えた。
清らかな少年であれば受け入れてくれるというのなら、マシューだってその時代に戻りたい。けれどそんなことが無理であるのは変えようのない事実なので、どうしようもないではないか。
「愛していると言い続ければ信じてくれると言うのなら、朝から晩まで何度でも言うよ。手紙にしろと言うのなら、一日に何通でもきみの為に愛の詩を詠むよ。きみが僕の浮気を疑うのなら貞操帯をつけたっていい。僕はきみだけが欲しいんだ」
マシューは床に降りて跪き、ドレスを掴んで震えているリュネットの指先を見つめ、その手を掴んだ。
「信じてくれ。こんな気持ちになったのはきみが初めてなんだ。きみさえ僕のものになってくれたら、他の女性なんていらない。きみだけに僕の傍にいて欲しいんだ」
この懇願にもリュネットは拒絶するように首を振った。マシューは切なくなる。
「きみの気持ちを教えてくれ。僕が信用出来ないだけなのか? それとも、もっと他になにか拒む理由があるのか?」
俯いたリュネットの瞳からはまた涙が零れ始める。彼女の手を握るマシューの手の上に、冷たい雫が降りかかってきた。
「……泣かないで、リュネット」
濡れた頬に手を伸ばし、僅かに上向けさせると、彼女は迷子になった子供のような表情で泣いていた。
涙を拭う為に目許へ手を伸ばすと、彼女は嫌がらずに目を閉じ、マシューの手が触れるのを許した。
随分と涙を流している所為か、色の白い頬は真っ赤になっている。少し痛々しい。
「――…わからないの、です……」
震える唇が微かに声を漏らす。戸惑いを多分に含んで揺れる声音だった。
重たげな長い睫毛がゆっくりと持ち上がると、涙に濡れ、星が煌めく夜天のようになった瞳がマシューへと向けられる。
「あなたのことをどう思っているのか、自分の気持ちが、わからないのです……」
それはリュネットの本心だった。
マシューのことは昔から苦手だったし、もしかすると、嫌いだったのかも知れない。メグの兄だし、長期休暇の度にお世話になるし、いろいろと気にかけてよくしてくれているのはわかっていたので、それなりに敬意は持っていたが、根本的には相容れない人だと思っていた。女性問題でゴシップ紙に載ることを聞くようになると、その考えはますます強くなっていった。
ふた月前に再会したときもそうだ。強引に連れて来るし、用意してもらった紹介状は勝手に破り捨てるし、服を脱がそうともされた。仕事を用意したりして親切にされ、多少は見直しかけたが、女性にだらしない一面を見せつけられたりもした。そんな相手に対して好意など持てる筈もない。
リュネットの気持ちが変わって来たのは、やはり、メグの結婚式の頃からだろう。
ジョセフに腕を掴まれ、恐ろしさに身を竦ませているところを助けてくれた。あの瞬間、リュネットは苦手にしていた筈のマシューの腕に安堵を覚え、縋りついたのだ。
キスをされても嫌だとは思わなかった。驚きはしたものの、嫌悪はなかったのは確かだ。
そうして、この三週間ほどの間、夜のひとときを共に過ごすようになった。
語らう時間はいつしか楽しいと思っていたし、一緒にいるのも嫌ではないと感じ始めていた。嫌悪ばかりだったマシューへの感情が好意に変わってきていたのも事実。
けれど、マシューに「愛している」と言われても、リュネットは受け入れられなかった。
どうしてかはわからない。信じる、信じない、という問題ではなく、理由として挙げた身分差のことでもなく、彼と寄り添ってはいけないのだと心が叫んでいる。
「恐いのです」
喘ぐように自分の気持ちを吐露したリュネットは、両手で顔を覆った。
マシューの差し出す手を取ってしまったら、何処か知らないところへ突き落されてしまうような、そんな不安が心を占める。右も左もわからない真っ暗闇に連れ込まれるのではないかというその感覚は、確かな恐怖だった。
「あなたと添うことが、恐いのです。でも、それが恐いと思っている自分のことも、嫌なのです」
リュネットの告白にマシューは双眸を瞠った。
握り締める手に力を込め、首を振る。
「きみを恐がらせるようなことは絶対にしない。悲しませるようなこともしない。誓うよ」
「侯爵……」
「きみが許してくれるまで、きみには触れない。キスも我慢する」
強い意志を覗かせて誓うが、二人の視線は同時にお互いの手の上に落ちた。
「……手を握るのくらいは許してくれると嬉しい」
しっかりと重なり合った手を見つめながら、マシューは呟いた。
はい、とリュネットは頷く。
マシューはホッとしたように微笑み、立ち上がってソファに座り直した。さっきと同じように並んで座っているが、さっきよりも二人の間には距離がある。
会話が途切れ、図書室の中には沈黙が降りて来る。そっと窓の方を見遣ると、また雪が静かに降り出していた。
マシューは乾杯に使ったワインの残りをグラスに空け、ついっと飲み下す。少し喉が渇いた。
リュネットはふと、髪が乱れていることが気にかかった。さっき押し倒されたときに乱され、ゆるく巻かれていた毛先はもうほとんどまっすぐに戻っている。ちょっとだけ勿体ない気がした。
「……あの、侯爵」
リュネットが躊躇いがちに口を開くと、マシューは意外そうな目を向ける。
「なに?」
「いいえ。あの、つかぬことを伺いますが、侯爵は、私が髪を結うのはお嫌いなのですか?」
その問いかけにマシューは瞬きし、思わず破顔した。
「随分と唐突だね」
「すみません。ちょっと気にかかりました」
再会して早々染めていた髪の色を落とせと言うし、髪型が地味でよくないと文句をつけるし、先日の夜会のときも、今夜も、髪型に注文をつけてきている。ドレスに合わせて云々というよりも、マシューの好みを伝えられているような気がしてならないのだ。
ふっとマシューは柔らかい笑みを浮かべた。
「そうだね。下ろしている方が好きだし、なにより、月の光を絹糸に染め抜いたような、きみのこの髪が好きだ」
そう言って手を伸ばしてきたので、リュネットがハッとして僅かに身を引くが、マシューは構わずに一房手に取る。
「身体に直接は触れていないのだから、許してくれないか?」
そう言って絡めた毛先に口づけた。
許すも許さないも、答えを出す前に触れているではないか。こういう強引なところは相変わらずなのだ。
「結わないのはみっともないかも知れないけれど、きみの髪は風に揺れている方が美しい」
答えながらもう一度口づけると、名残惜しげに手を離した。サラサラと零れ落ちていく自分の毛先を眺めながら、リュネットは心臓がドキドキと大きく脈打っていることを感じる。
思い返してみれば、マシューはなにかとリュネットの髪に触れていたような気がする。好きだったからか、とその行動に納得した。
なんとなく照れ臭く感じて頬が火照り、髪の束を引き寄せて顔を隠す。塗り込まれた香油がふんわりと香り、リュネットは双眸を細めた。
頬が火照ってきたら身体が熱くなったような気がして、そうしたら喉が渇いてきた。みっともなく泣いていた所為で水分が足りていないのかも知れない。
ふと視線を上げると、さっき飲みかけたグラスが目についた。
中身はリュネットの苦手なアルコールだったが、喉を潤すくらいなら問題はないのではないだろうか。
マシューが許すまで触れて来ないと約束してくれたので、リュネットは安心しきっていた。
いつの間にか退室していたバーネットが、呼び鈴の音を聞き留めて戻って来る。
「お呼びでしょうか?」
「ああ、悪いな。毛布を一枚持って来てくれないか」
小声で指示を出すマシューの膝の上で眠るリュネットの姿を視界の端に納め、はい、と慇懃に頷いて退室し、すぐに毛布を抱えて戻って来た。
「お部屋まで運びましょうか?」
毛布を広げて渡しながら、さすがに風邪をひくのではないか、と心配して声をかけるが、いいや、と主人からは苦笑交じりの答えが返る。
「酔っているだけだ。しばらくしたら起きるだろうから、このままでいい」
眠っていて気づかれないのをいいことに、こっそりと約束を反故にし、そっと頭を撫でてやる。リュネットはなにも知らず、幸せそうな表情ですやすやと寝息を立てていた。
「だが、少し暇だな。その辺から適当になにか一冊取ってくれ」
指を振られたあたりの本棚から、厚すぎもせず、薄すぎもしない適当な本を一冊選び取り、主人に渡した。
「……ドービニェとは、随分と皮肉だな」
「いけませんでしたか?」
「まあな。失恋男の詩集だなんて」
「おや。リュネット嬢にフラれたのではなかったのですか?」
苦笑する主人に向けて、バーネットは意地の悪い視線を向ける。マシューは眉間に皺を刻んだ。
まだフラれてない、と小声で抗議するが、バーネットは微かに含み笑いを残して退室して行った。付き合いが長く気心が知れてしまっている故に、時折ああいう軽口を叩く。腹立たしい。
「んぅ……」
膝の上でリュネットが僅かに身動ぐが、まだ起きる気配はなかった。マシューはもう一度苦笑する。
「警戒心剥き出しのくせに、変なところで抜けているんだから、困ったお嬢さんだよ」
やはりいつものように自分の部屋で会わなくてよかった。
ベッドが視界の端に見えていたら、今夜はリュネットを連れ込まない自信はなかった。さっきまでだって、あまりにもリュネットが頑なだから、既成事実でも作ってしまおうか、と凶暴な考えが浮かんでいるところを、本棚に囲まれている状況に冷静さを保たせていたのだから。
危ない、危ない、と首を振りつつ、失恋したときに相手の女性を想って百編もの詩を残したという男の詩集へと目を向けた。




