1 レディ・ガヴァネス
今日はまったく以て厄日としか言いようがない。
まだ朝食の時間にも遠い早朝に激しく扉を叩かれ、文字通り叩き起こされた。開けた扉の向こうに立っていたのは、あまり交流のない奥様の侍女だった。もう既に起きて身支度も終えかけていたのが幸いしたが、そのまま奥様の部屋まで引っ張って行かれ、寝間着姿の当主夫人に怒鳴りつけられた。
辛うじて聞き取れたのは、解雇の二文字だけだ。
あとはいったいなにをそんなに怒っているのかわからない状態だった。自分のなにがいったいそんなにも奥様の逆鱗に触れてしまったのだろうか。
「本当はすぐにも叩き出してやりたいくらいだけれど、あたくしもそこまで非情じゃありませんのよ。紹介状を用意している間に朝食を済ませたら、すぐに荷物をまとめて出てお行き」
解雇の理由を訊けるような雰囲気でもなく、その言葉に従い、今まで雇っていてくれたことに対する礼を口にするので精一杯だった。
また半年と少ししか続けられなかった。前の家も三ヶ月でクビにされたし、その前も半年だけだ。
二年前に女学校を卒業してから、良家の子女に勉強を教える家庭教師という職に就いたが、何故か長続きしない。教え方が悪い――わけではないと思いたい。受け持った子供達はみんないい子ばかりで、授業もきちんと聞いてくれていた。理解も速かったから、授業内容に問題があったとは思いたくない。
このホルス男爵家には十歳と七歳の二人の娘がいて、その二人の家庭教師として雇われていた。下の子はまだ少し落ち着きのない子だったが、二人とも基本的には聞き分けがよく、授業も真面目に聞いてくれていたし、勉強することを楽しんでいるようでもあった。それ故に、仕事にやり甲斐も感じていたので、この解雇は本当に悲しかった。
他の使用人達との関係も悪くなかったと思う。前の家ではメイド達から少し意地悪もされたが、ここの家の人達はみんな親切な人達で、とてもよくしてもらっていた。先程朝食をもらっているときも、既に解雇の話が伝わっていたらしく、心配そうにしてくれていた。
烈火の如く怒っていた奥様だったが、紹介状は手配してくれると言っていたのは幸いだ。紹介状がなければ碌な就職先が見つかることはない。さっさと追い出したいと言うなら、次の仕事先が見つけやすいようにそう酷いことを書くこともないだろうと思いたいし、そうであって欲しい。
すぐに次の勤め先が決まるといいのだけれど、と溜め息を零しながら使い込んだ旅行鞄に荷物を詰め込んでいると、ノックが鳴り響く。ドアは開けてあったので振り返ると、家政婦のミセス・オブライエンが立っていた。
「ごめんなさい。もうすぐ詰め終わりますから……」
「あなたにお客様ですよ、ミス・ホワイト」
てっきり急かされているのだと思って謝ったが、返って来たのは意外な言葉だった。
思わず怪訝な顔になる。このホルス男爵家に勤めていることは誰にも言っていないし、訪ねて来るような知り合いはない筈だ。なにせ自分は、ある事情から偽名を名乗り、別人に見えるように容姿も出来る範囲で変えているからだ。
「応接間にお通ししているから、早くいらっしゃい」
「あの、ミセス・オブライエン」
促す家政婦を慌てて引き留める。
「私、こちらに勤めていることを誰にも連絡していないんです。なにかの間違いじゃないでしょうか?」
「いいえ? 家庭教師をしているミス・エレノア・ホワイトを訪ねていらしたのよ」
あなたでしょう、と言われればその通りなのだが、同姓同名の別人のことかも知れない。なにせ家庭教師の職に就いている女性はいくらでもいる。
どうしよう、と不安に感じつつも、家政婦に促されては応接間へと行くしかない。直に会ってみて、人違いならそう答えようと思う。
しかし、一介の家庭教師を訪ねて来た客人を、わざわざ応接間に通すとは――些か不可解な思いを抱く。当主の子女に教育を施す家庭教師とはいえ、使用人の内だ。訪ねて来た者があるなら、使用人達の共有スペースである階下の休憩室に通すのが普通ではないだろうか。
いったい誰なのだろう、とますます不思議に思っていると、連れて来られたのは二ヵ所ある応接間の中でも上客に対して使用される部屋だった。当然、半年働いていても一度も近づいたことがない部屋である。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
「あの、ミセス・オブライエン……」
ここに来てはいけない、と自分の中の声が訴えかける。よくないことが待っているのが確信を持って感じられたのだ。
けれど、押し留めようとした家政婦の手は、無情にも扉を打ち鳴らしていた。
すぐに中から「入りなさい」と聞き覚えのある当主の声が応じ、中に控えていたらしい従僕の手によって扉が開かれた。
「ミス・ホワイトをお連れしました」
家政婦は扉のところでそう告げて頭を下げると、後ろで立ち竦んでいた若い家庭教師に入室を促す。
踵を返して走り去りたい気分だった。もちろん全力疾走で。
けれど、使用人として主人の招きに応じないのは失礼であるし、解雇を言い渡されたとはいえ、屋敷を立ち去っていないからにはまだこのホルス家の使用人である。逃げ出したい気持ちを堪えて「失礼致します」と礼をした。
「ああ、ミス・ホワイト。まだいてくれてよかった」
当主であるホルス男爵はそう言うと、口髭の下に微かに笑みを浮かべる。そうして、部屋の奥へと視線を向けた。
「彼女がミス・ホワイトです」
客人は明るい窓際に立っていた。朝陽が照らす庭を眺めている風だった。
「ミス・エレノア・ホワイト?」
客人は確かめるようにその名前を口にした。その声を聞き、エレノアは震え上がる。
窓からの逆光を受けていてその容貌はよく見えないが、声にだけは聞き覚えがあった。思わず「うそ……」と呟きを漏らし、ハッとして口許を覆う。
すいっと振り向いた男性の髪は陽の光で淡い金髪に見えるが、記憶が正しければ亜麻色に近い栗色だ。不躾なくらいにこちらをじっと見つめている瞳の色は緑に違いない。
マシュー・ブライアン・カートランド――親友の兄だ。
近づいて来られたので、エレノアは無意識に一歩後退る。
「捜した」
部屋の中を突っ切りながら呟く声音は、何処か安堵のような響きを含んでいた。
逃げ腰になっていたエレノアとの距離を一気に詰めると、彼はその腕を捕まえ、そのまま引き寄せる。
「まさか、偽名を使っていたとはね」
引き寄せられた勢いで彼の胸の中に倒れ込みそうになるところを、なんとか腕を突っ張って距離を保ち、エレノアは濃紺の瞳を真ん丸に見開いた。彼がこんなことをするとは思わなかった。抱擁されそうになるこの姿勢は、まるで恋人同士のようではないか。
「……あの、人違……」
「そんな言い訳が通るとでも? あまり僕を見縊らないで欲しいな」
マシューは冷たく笑うと、エレノアの頬に触れた。
「――…ああ、やっぱりきみだ」
戸惑うエレノアの顔を正面から覗き込むと、確信を得たように呟く。
「この髪の色は?」
検分するように黒いエレノアの髪を見つめ、次いで不愉快そうに顔を顰めた。
もう言い逃れは無理なのだろう、と仕方なく無駄な抵抗を諦め、目線を伏せて言いにくそうに質問に答える。
「染めました。落ち着いた髪色の方が、家庭教師としての信用を得やすいと聞きましたので」
「この眼鏡も?」
「少し大人っぽく見えるかな、と……」
「大人、ねぇ……?」
エレノアの返事を聞きながら検分を続けるマシューは、伏せられた金色の睫毛を見つめながら鼻で微かに笑った。
「髪を染めて変装して、その上偽名に、年齢も偽っていたんだったね。二十歳だって?」
同じ年に卒業した仲間はみんな今年二十歳になっていることだし、偽るのには最適な年齢だった。実際のエレノアは二年飛び級しているので、今はまだ十八歳だ。
黙って頷くエレノアの様子に、マシューは呆れて溜め息を零す。
「お陰で捜索が難航した。メグに八つ当たりされる身にもなってくれないかな」
「申し訳ありません」
女学校での親友メグとは、卒業してしばらくすると連絡を絶ってしまった。最初の勤め先を解雇されたときからだ。以来一年以上音信不通だったことになるので、心配はかけていることだろうとは思っていた。
メグに対して申し訳ない気持ちになっていると、後ろから咳払いが聞こえた。ホルス男爵だ。
「ミス・ホワイトが、お捜しの方でしたかな? カートランド卿」
「ええ。このような早朝からのご無礼にも拘わらず、ご協力ありがとうございました」
早朝というほどには早い時間ではないが、まだ朝食を摂っているような時間帯であり、人を訪ねるにはあまり常識的な時間ではないことは確かだ。そんな非常識な行いをしてまで、マシューは妹の友人を捜しに来たことになる。
ホルス男爵に迷惑をかけたことを申し訳なく思いながら、エレノアは未だに自分のことを離そうとしないマシューのことを見上げた。
「あの……逃げたりしませんから、そろそろ離して頂けませんか?」
人に見られている場でこのような状態は、あまり歓迎すべきものではない。
腕の中でもぞもぞと身動ぐエレノアを見下ろし、マシューはその腕に拠る戒めを僅かに解いたが、完全には離してくれない。
「きみは解雇されたそうだね。では、このまま僕と一緒に、カートランド邸に来てくれるかい?」
「それは……」
「メグが待っているんだ。ミス――いや、レディ・リュネット・アメリア」
本当の名前を呼ばれ、エレノアはギクリと硬直する。彼女の細い手を取ると、マシューは紳士らしく口づけた。
「こちらのお宅での仕事は終わったと聞いた。僕と来ることになんら不都合はないと思うんだけど、違うかな?」
否定の言葉が思い浮かばない。エレノア――リュネットは黙って俯いた。
抵抗しない様子を了承と取ったのか、マシューはホルス男爵に向き直った。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。こちらのお宅での雇用関係は解消されたということでしたので、連れて行っても?」
「ええ、それは一向に構いませんが……」
「ありがとうございます。ああ、そこのきみ」
言い淀んだ男爵の言葉を謝辞で打ち切り、ドアの近くに控えていた従僕に声をかける。
「彼女の荷物は何処だろうか?」
「い、今お持ちします」
従僕は慌てて礼をして部屋を出ようとするが、マシューが「いいよ」と笑顔で遮った。
「僕が取りに行く。待っている間に彼女に逃げられたら困るから。リュネット、きみの使っていた部屋は何処だい?」
使用人の部屋は男性と女性で別れている。お互いの行き来は原則として禁じられているのがほとんどで、リュネットがいたのはもちろん女性用の棟になる。なので、彼女の荷物を誰かに取って来てもらうとなると、従僕の彼は女性の使用人に頼まなければいけない。その時間が無駄だとマシューは言うのだ。
呆気にとられるホルス男爵と従僕を応接間に残し、マシューはリュネットの手を引いて足早に歩き出す。それに引きずられるリュネットは、まるで悪戯を叱られる子供のような半泣き顔だった。
「ほら、リュネット。どちらへ行けばいいんだい?」
「女性棟に男性は入れません」
「いかがわしいことをしようというんじゃないんだ。荷物を取るだけなら構わないだろう」
聞く耳を持たないマシューは少女の僅かな抵抗など気にせずに進み、廊下の奥に隠されるように設えられた使用人棟へのドアを開ける。
マシューは以前からこうだ。人の話は碌に聞かないで強引だし、生まれ持った身分の高さからなのか、態度はいつも優しいながらも尊大だ。メグより八つ年上ということもあり、だいたいが口で負かされるし、年に数回しか会わないながらも彼との思い出はあまりいい印象がない。
そんなマシューに引きずられて歩くリュネットの姿に、すれ違った使用人達が驚きの声を上げて頭を下げるとともに、好奇の目も向ける。
「なんだ、まだ荷造りは終わっていないのか」
リュネットが答えないので通りがかりのメイドに部屋の場所を訊きながら、マシューはその部屋にあっさり辿り着いてしまった。部屋の中には口を開けた大きめの旅行鞄が、ベッドの上にひとつ。
手伝ってやろう、と上着を脱ぐマシューに、リュネットは慌てて追い縋る。
「や、やめてください!」
「こう見えても旅慣れているからね、荷造りは得意だよ?」
「そうじゃありません!」
詰めかけている着替えの中には、当然下着等がある。運んでいる途中で荷が解けても大丈夫なように袋にまとめて入れてあるが、それでも見られたくはないものだ。
「すぐに終わりますから、外にいてください」
ぐいぐいと部屋の外へとマシューを押し戻すが、彼の視線はちらりと部屋の奥へ向けられる。そこには窓があった。
その視線に気づいたリュネットは、まさか、と呆れたように彼を見上げる。
「窓からなんて逃げたりしませんから。本当に」
「そう?」
「はい。天に誓って」
「じゃあ、十分でいいかな?」
「わかりました」
それでなんとか納得させ、部屋のドアを閉めて荷造りを再開させる。もうほとんど終わっているので、あとは小物を少し詰めるだけなのだ。
僅かばかりの宝飾品と櫛を小箱にしまい、荷物の隙間に埋め込む。最後に小間物机の抽斗から、大切なメグからの手紙と、亡くなった母の形見を入れてある巾着袋を取り出した。手紙は財布と一緒に手提げの中へしまい、母の形見はドレスの襟元を僅かに緩め、いつものように下着の中へと忍ばせた。
「リュネット」
緩めた衣服を整えていると、ノックが響く。もう時間だというのだろう。
「今出ます」
慌てて使い古したお気に入りのケープを羽織り、地味な色合いのボンネットを被って顎下で結んで留めると、気分が滅入りながらもマシューの待つ部屋の外へ向かった。
「お待たせしました」
別に待ってくれていなくてよかったのに、と内心で思いながら頭を下げると、マシューはなにも言わずにリュネットから重そうなトランクを取り上げ、逆の手でまた彼女の腕を掴んで歩き出した。まだ逃げ出すことを警戒しているらしい。
抵抗をほとんど諦めたリュネットは、されるがままに手を引かれ、使用人用の出入口ではなく、正面玄関へと引きずって行かれる。そこには当主夫妻が待ち構えていた。
ほんの一時間と少し前に金切り声で解雇を言い渡した男爵夫人は、マシューに腕を掴まれたリュネットをじろりと睨み、彼女の荷物をマシューが持っていることに気づいて目を丸くした。
「まあ、ミス・ホワイト! 侯爵閣下に荷物持ちをさせるなんて……!」
恐れ多い、なんて無礼な、と声を上げる。それを夫であるホルス男爵が横から小声で諫めるが、彼女には届かないようだ。
「男が女性の荷物をお持ちするのは当然ですよ、ホルス男爵夫人」
マシューは僅かに笑みを浮かべ、弁解する。しかし、それを男爵夫人は鼻で笑うだけだった。
「淑女ではありませんわ、そんな泥棒猫みたいな小娘なんて」
男爵夫人の言葉には明らかな悪意が滲んでいた。
またか、とリュネットは思った。今まで雇ってもらったどの家でも、解雇されるときには同じようなことを言われてきた。
俯き加減になるリュネットの腕をマシューが強く引っ張る。つんのめるように足を踏み出したリュネットをエスコートするように、そのまま彼は歩き出した。
「お騒がせしました、ホルス男爵。また改めてお詫びに伺います」
「そんな、滅相もない!」
年齢はマシューの方がだいぶ下だが、階級は上である。ホルス男爵は恐縮の態で固辞した。
「そうですか。では、近いうちに夕食には是非招待させてください。ご迷惑でなければ」
「喜んで伺わせて頂きます。お気をつけてお帰りを」
乗って来た馬車は正面に待機していた。
「バーネット、レディ・リュネットの荷物を」
控えていた従者に荷物を預けながらわざと大きな声を出すと、後ろで見送るように出て来た男爵夫人が怪訝そうに顔を顰めるのが見えた。彼が呼んだ名前がエレノア・ホワイトではなかったことに違和感を抱いたのだろう。
「お手をどうぞ、レディ・リュネット」
従者は後ろで荷物を括り付けて手が離せないので、代わりにマシュー自らが従者の真似事をして手を差し出した。その手を困惑気に見つめたが、彼が引っ込める気はないのだということを悟り、リュネットは躊躇いがちに掴んだ。
本当は乗り込みたくなどなかったのだが、と考えながら奥へと身を落ち着けると、そのすぐ隣にマシューが乗り込んで来る。慌てて広がっていたスカートを手繰り寄せて場所を空けるが、彼はそんなことなど気にしていないようで、少し怒ったような横顔を向けていた。
荷物を積み終えたバーネットが同じく座席へと腰を下ろして扉を閉めると、御者がすぐに馬に鞭を当てた。
挨拶らしい挨拶などしないまま、ホルス男爵邸が遠ざかって行く。無礼で無教養な家庭教師と思われたかも知れないが、もう仕方がない。
「旦那様、こちらをお預かりしておりました」
男爵邸の表門を抜けて少しした頃、向かい側に座っていたバーネットが懐から封書を取り出した。ホルス家の印章で封蝋がされているそれは、リュネットの紹介状に他ならない。きっとマシューが使用人部屋に乗り込んでいる間に、奥方が持って来たものを男爵が従者へと預けたのだろう。
従者の手から主人へと渡ったそれは、本来の持ち主の手に渡る前に、真っ二つに引き裂かれた。
「な……ッ!」
「もう必要ないだろう」
驚いて言葉を詰まらせたリュネットの目の前で、マシューは冷たく言い放つと、更にもう一度引き裂いた。
無残に破り捨てられた紹介状は再び従者の手へと戻り、また懐の中へとしまわれた。
その一連のやり取りを見送りながら、リュネットは真っ青になる。
「どうして、そんな……ひどい。なんで……」
「必要ないだろう、と言ったよ」
その底冷えするような棘を含んだ声音に、リュネットはびくりと身を竦めた。機嫌が悪い――いや、怒っているようだ。
急にどうしたというのだろう。先程まではそんなことはなかったのに、今はとても怒っているように見える。
「きみの意志など尊重させるべきではなかったな」
窓の外を見つめたまま、マシューはぽつりと零す。その声に滲むのは先ほどまでの怒りではなく、なにか少し違う、寂しさのようなものが含まれる響きだった。
「きみは家を奪われたとはいえ、歴とした令嬢だ。それが、あんな格下の家に、あんな侮辱を受けて……」
ああ、とリュネットは心中で溜め息を零す。彼が不機嫌になっている理由がわかった。
「私が選んだ道です」
「それが間違いだったと言っているんだ」
「いいえ。私の家はもうないのですから、これが最善の道だったのです」
流れゆく窓の外を睨んでいたマシューの視線が、リュネットの方へ向けられる。その視線を正面から受け止めた。
「あなたが後見を申し出てくださったことは、大変感謝しています。けれど、家のない私はそれに縋るわけにはいかないのです」
両親が船の事故で亡くなった後、リュネットは父の従兄弟という男に爵位と財産を奪われた。家督は男系に継がれるもので、父に一番近い血縁の男子がその男だったのだから、ノースフィールド伯爵を男が名乗るのは当然だ。爵位とその所領は法律に基づいて相続されただけのことで、なんら問題はない。
問題なのは、その男がリュネットを屋敷から追い出したことだ。
子女に男子がなく、傍系に家督を相続されることになった場合、残された妻子を保護するのが義務とされている。妻子の後見人となり、その妻が亡くなるまで面倒を見て、娘には年頃になったら良家と縁組出来るよう取り計らうのが決められている筈だ。
それらをすべて放棄して、男は学費と少しの寄付を払い、リュネットをあの寄宿学校に入学させたのだ。十八歳までの在学中の生活は保障されるが、卒業後のリュネットは無一文となるのだから、家屋敷を奪って捨てたのと変わりない。
リュネットとメグのいた寄宿学校は良家の子女が多く在籍していたが、卑しいことに寄付金の額で対応が変わることもあり、最低額の寄付だったリュネットはかなり待遇が悪かった――と、メグが憤慨していたものだ。
そんなこともあってか、リュネットは持ち前の才覚を大いに発揮して入学早々飛び級を重ね、職業婦人として自立した道を生きることを目指した。それが十一歳だった幼いリュネットに思い描けた最善の将来だった。
マシューの提案に乗って、彼の後見で社交界に出て嫁ぎ先を捜す道もあったのだが、そういう迷惑をかけるわけにはいかない、と断り、心優しい教師になる為に邁進していたのだが、上手くいかないものである。苦難続きだった二年のことを思い起こし、思わず溜め息が零れた。
悲しげな表情のリュネットを見つめ、マシューは静かに嘆息した。
「顔色が悪いね」
マシューの手がそっと頬に落ちる後れ毛に伸びると、それを払い除けるようにして頬を撫で、輪郭を確かめるように細い顎へと指先を滑らせる。その仕種にぞわりと肌が粟立ち、リュネットは振り払うようにして身を捩り、背中を強かにぶつけた。
「な、なに、を……っ」
咎めるリュネットの顔は、頬は紅潮して赤いのに、唇は色を失って震えている。怒りと緊張と怯えが混ざったような表情だ。
こういう反応をする女性は久々だ、とマシューは思う。
彼がこうして触れれば、大抵の女性は視線で合図を送って来るし、そっと撓垂れかかって来るものだ。逃げられることは滅多にない。
「なにもしないよ」
毛を逆立てた猫のようになっているリュネットに向かい、マシューは両手を肩の高さに上げて見せる。なにも持っていないし、なにもするつもりはない、という意思表示だ。
リュネットはまだ警戒しているようで、そっとケープの胸許を握り締める。
「顔色がよくないから、少し休むように言いたかっただけだ。いきなり触れたのは謝るよ」
女性に触れるのはいつものことで、ほとんど無意識なのだ、とはさすがに言えないので、代わりに誠意を見せる。
素直に謝罪の言葉を口にすると、リュネットの手が僅かに緩んだ。
「結構です。殿方の前で眠るなんて、はしたない真似は出来ません」
しかし、答える声は強情だ。緊張した表情を和らげないまま、マシューに背を向けて外を向いてしまう。
やれやれ、とマシューは諦めて溜め息を零した。
彼女に嫌われていることは知っている。逃げ出さないで馬車に乗ってくれただけでよしとしなければ。