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侯爵様と家庭教師  作者: 秋月 菊千代


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17 家庭教師の身の上話


「先生、これはもう飾ってもいいですか?」

「どうかしら。ねえ、ミーガン?」

「あ、いいですよ。お好きなところに飾ってください」


 ヴァイオレットがやって来た翌日のことだ。ヒース(ホール)ではクリスマスツリーの飾り付けが行われた。

 主人であるマシュー自らが陣頭に立ち、朝早くから敷地内の森に出向いて手頃な木を刈って来て屋敷の中に運び込み、居間の暖炉の前に配置した。いつもは小さめのものを飾るらしいのだが、今年は子供がいるので、例年よりも少し大きなものを選んで来たらしい。

 飾り付けを手伝うヴァイオレットは楽しそうだ。


「このオーナメントにはひとつずつ意味があるんですよ。知っていますか?」

「はい。これはベツレヘムの星でしょう?」


 リュネットが尋ねると、ヴァイオレットは箱の中から天辺(てっぺん)に飾る星を取り出して微笑んだ。そうですよ、と頷きながら、丸い球を取り上げる。


「これは林檎を模しています」

「林檎……あ、知恵の実ですか?」

「そうです。色にもそれぞれ意味があるのですよ。例えば、この赤はキリストの流した血で、こちらの金色のものはキリストの高潔さを表していると言われています」

「先生、このリースにも意味があるんですか?」

「環状は永遠を意味しています」


 ヴァイオレットに説明していると、横からミーガンも「へぇ!」と声を上げた。


「やっぱりエレノアさんって物知りなのね。さすがは先生……」

「よしてよ」


 先生ぶっている自分がなんだか恥ずかしくなる。頬を染めながら天使の人形を手に取り、ツリーの中段あたりに飾り付けた。

 箱の中に保管されていたオーナメントをすべて飾り付け終えると、最後の取って置き――天辺に飾る星の出番が待っている。

 ツリーの天辺は、背の高めのアニーなら届くだろうが、リュネットやミーガンには微妙に届かない高さだ。梯子を使わなければならない感じなので危ないが、こういうものは是非ヴァイオレットにやらせてあげたい。


「あ、伯父様! ちょっとこっちに来て!」


 梯子を支えた上で、腰のあたりもしっかり支えてやれば問題ないだろう、と話し合っていると、通りがかったマシューをヴァイオレットが呼び止める。

 こっち、こっち、と大きく手を振って呼ばれるので、マシューは苦笑して居間へ入って来た。


「一番上にお星様を飾るのだけど、届かないの」

「ああ、そう。じゃあ、きみを持ち上げればいいのかな? お姫様」

「そうしてくださると嬉しいわ」


 ヴァイオレットは少し大人びた口調で応じ、にっこりと微笑む。それにマシューも笑みで応え、八歳になっている姪を持ち上げた。

 細身に見えてもやはり男の人なんだな、と感心する。子供といってもヴァイオレットはそこまで小柄ではないのに軽々と持ち上げているのだから。


「ありがとう、伯父様。ちゃんとつけられたでしょ?」


 ツリーの天辺にキラリと輝く希望の星を指差し、ヴァイオレットは得意気だ。それに対するマシューはというと、八歳児はさすがに重かったのか、


「今度からは台を使ってくれると嬉しいよ。ヴィオラはもうすっかり大きいから、伯父様は腰が痛くなる」


 と腰を摩りながら答えている。


「まあ! 女性(レディ)に対して重たいと言うなんて、失礼だわ!」


 伯父の言い方に納得のいかないヴァイオレットは膨れるが、それはさすがに酷では、とリュネットもミーガンも苦笑した。肩の高さまで担ぎ上げたのだから、普通に抱き上げるよりも腰に来たことだろう。


「さあ、レディ・ヴァイオレット。飾り付けは終わりましたから、昼食まであと二時間、しっかりお勉強しましょう」

「はい、先生」


 今日はあまり勉強らしい時間は取れないな、と思いながらヴァイオレットと手を繋ぎ、学習室へと上がって行く。

 綺麗に掃除をして使いやすく整えた学習室は、積雪に反射する太陽の光が入り込み、とても明るかった。勉強をするには丁度いい。

 朝のうちに薪ストーブを焚いておいてくれたらしく、部屋の中は暖かい。ヴァイオレットに座るように指示しながら薪の燃え具合を確かめ、傍に積まれている予備の薪を追加する。


「今日は初日なので、あなたがどれくらい習得しているのか知る為に、簡単なテストを用意しました。まずはフランス語です」


 一枚目の紙には簡単な単語をフランス語に変換させる問題を用意した。二枚目は文法の理解をしているか知る為に、簡単な自己紹介と、道を尋ねる為の会話に、知人と天気の話をする想定の会話文を出題した。

 わからないことがあれば質問は自由ということにして解かせてみると、ヴァイオレットは思っていたよりもきちんと文法を理解していたし、単語もよく知っていた。


 しかし、発音となると上手くいかなかった。書いた文章を音読させようとしたが、かなりたどたどしい。母親であるカトレアからの申し送りにもあったが、どうやら文章を読んで理解することは出来ても、喋ることはまだ苦手のようだ。

 実際に会話をすることを中心とした勉強が望ましいな、と判断し、次は算数の問題を解かせる。これは本当に初歩的な足し算と引き算を中心としたもので、年齢的にもこの程度がしっかり理解出来ていればそう詰め込ませることもないだろう、とカトレアからの要望書に書かれていた。


 算数も難なくクリア出来てしまったところで、昼食の時間が来た。

 今日はゴードンが来る予定はないので、午後も授業が出来ることになっているが、初日からあまり飛ばし過ぎるのもどうかと思う。あとで本人の意思確認をし、遊びたいというのなら少し外に連れ出してやろうと思った。


 ヴァイオレットを食堂に送り届けて階下の使用人の休憩室に向かうと、こちらはまだ昼食の用意の途中だった。主人達の食事が終えてから開始となるので、いつもこんな具合だ。

 パンが山となったバスケットを受け取り、スープのカップを運ぶのを手伝っていると、リュネットがここにいることにまだ慣れないのか、タウンハウスに勤めているメイド達が微妙な表情をしている。あちらの屋敷ではお客様扱いを受けていたのに、こちらでは使用人の部屋にいることに戸惑っているのだろう。気持ちはわからなくもないが理解してもらいたい。


 マシュー達の食事が終わり、給仕をしていた従僕達も降りて来て、使用人達の間で最上級の地位にあるハワードが着席すると、ようやく食事が開始となる。昼食のときは朝や夜のように時間がないので、誰もが急ぎめに料理に手を伸ばしていった。

 少し慌ただしい食事が終わると、手が空いている者はほんの少しだけ余裕を持って食後のお茶を楽しみ、仕事が待っている者は時間が惜しいとばかりに席を立った。

 リュネットは前者だ。ジェシカが淹れてくれたお茶を飲みながら、食後のほんのひとときを楽しむ。


「ねえ、リタぁ。ラリーが来てるけど」


 外で煙草を吸っていたアニーが中に戻って来て、部屋の隅で本を読んでいたリタに声をかける。リタは少し眉間に皺を寄せるような表情をしたが、小さく溜め息を零し、面倒臭そうに立ち上がった。


「……誰?」


 外を覗くのも失礼かと思ったので、ミーガンにこっそり訊いてみる。


「ラリーさん? 村の土地持ち農場主だよ。昔は小作人だったらしいんだけど、お祖父さんの代に侯爵様から土地買って独立した家の息子さん」

「ラリーの妹がリタの幼馴染みらしいけどね」


 ミーガンの説明にアニーが捕捉した。ふぅん、と頷きながら、ちょっとだけ伸び上って窓の方を見てみる。少し離れたところにリタの後ろ姿があり、その向かいにがっしりとした体格の男性の姿があった。

 前からよく会いに来ているんだよ、とミーガンが笑う。


「でも、昼間って珍しいね。いつも夕方なのに」

「そういやそうね」

「なんか急ぎの用でもあったのかな?」

「さあねぇ?」


 飲み終わったカップを片付けながら立ち上がり、話はそれまでとなる。もうそろそろ午後の課業に取りかからなければ。

 リュネットも立ち上がり、ヴァイオレットの様子を見に行くことにした。




 子供の寝かしつけは子守り(ナニー)の役目だが、今回の滞在に子守りは同行しなかった為、代わりにリュネットがその役目を担当することになっている。これは前に勤めていた家でもやっていたことなので、そう問題でもない。

 図書室で子供向けの童話を選んで持って行き、適当な話を読み聞かせる。初めは目をぱっちりと開けて話に聞き入っている様子だったが、慣れない家で緊張していたのか、ヴァイオレットはすぐに寝息を立て始めた。布団を直してやり、静かに部屋をあとにした。


 リュネットはその足で、三階の東端の部屋を目指す。あまり気乗りはしないが、約束は約束なので仕方がない。

 部屋についてノックをすると、すぐに返事があった。


「やあ。来たね」


 マシューはすっかり寝支度を整えているのか、部屋着にガウンを羽織るという随分と砕けた服装だった。


「ドアを開けておくと冷えるから、火の前にどうぞ」


 招き示された暖かな火の燃える暖炉の前には、毛皮の敷物が敷いてあった。そこに座ろうということだろう。

 床に直接腰を下ろすなんて女学校時代以来のことだ。メグとお喋りをするとき、大抵はメグがベッドに寝そべり、リュネットが床にクッションを置いてベッドに凭れ掛かる姿勢でいることが多かった。


 指示を受けた通りに腰を下ろし、肩掛けをしっかりと身体に巻きつける。その様子を見ながらマシューもその前に腰を下ろした。


「飲み物を用意してもらったけど、きみはホットミルクでよかったかな?」


 暖炉の傍に置いて冷めないようにしていたカップを持ち上げ、笑みを向けてくる。はい、と頷き、それを受け取った。


「本当なら、酒を酌み交わしたいところだけど、そうするときみは怒るから」

「飲めませんから」

「でも、少しずつでも慣れる努力をした方がいいよ。人付き合いをする上で、酒が必要になることもあるだろう」


 それは尤もな意見だとは思うが、そういう付き合いが必要な人と親しくなるつもりはあまりない。今までもそれでやって来れたのだから、今後もどうにかなる筈だ。

 なにも答えない様子のリュネットに苦笑を向け、マシューは自分の分のグラスにスコッチを注いだ。


「きみのご家族のことを聞かせてくれないか?」


 なにを話すつもりなのだろう、と僅かながら身構えていると、そんなことを切り出される。

 今はもう亡い家族の話などを聞いて、いったいどうするつもりなのだろうか。不思議に思って双眸を瞬かせると、家族のことを聞くことに因って、ドナルド達とのことをどう進めるのが正しいのか、リュネットにとって一番いい方法はなんなのか、という判断に役立てたいということだ。

 なるほど、と頷き、リュネットは記憶を辿った。


「……母はレスターの方に住む男爵の娘で、父とはブライトンの避暑地で出会ったそうです。お互いの友達の友達の紹介で」


 社交界入りしたばかりの十六歳のエレノアと、大学院に進んだところだった二十二歳のフェリクスは、お互いの友人同士の紹介で出会い、すぐに打ち解けたという。

 まだ遊ぶべき年齢だぞ、と友人達に引き留められるのを笑顔で躱し、出会ってひと月後には婚約し、それから程なくして結婚する運びとなった。親族達からは早い結婚に少し心配されたりもしたが、特に反対されるようなこともなく、心から祝福されたという。

 結婚した翌年には待望の第一子であるリュネットも生まれ、若い夫婦は幸せいっぱいだった――とリュネットは記憶している。


 二人目の子供や跡継ぎである男の子の誕生を熱望されたが、残念ながらリュネット以降子供が出来る気配がなく、母は肩身の狭い思いをしていたという話は、随分と大きくなってから親戚の陰口で知った。その人達の言葉はとてもショックで、母を守らなければ、とリュネットは幼い胸に強く誓ったものだ。

 そんなリュネットを、両親はとても可愛がってくれた。宝物のように。


「ご両親は船の事故で亡くなったということだけど」


 つらいことを尋ねるが、と申し訳なさそうに言われ、微笑んで首を振った。


「父方の祖母がフランス人なんです。そちらの親戚がまだフランスにいるので、顔を見せに行った帰りのことでした」


 本当はリュネットも一緒に行く予定だったのだが、出発の少し前から麻疹(はしか)に罹ってしまい、ひとりで留守番することになってしまったのだ。とても残念で寂しいことだったが、二週間ほどで戻る、という両親の言葉を信じ、二人を見送った。


「そうか。きみの名前はお祖母様が名づけたと言っていたっけ」


 以前メグに話したことを聞いたらしい。はい、と頷いた。


「私が生まれたのは深夜だったらしいのですが、とても月が綺麗な夜だったそうです。だから、フランス語の『(リュヌ)』から名づけたそうです」


 祖母とのことはほんの少しだけ記憶にある。リュネットと同じ淡い金髪の女性で、小鳥が(さえず)るような柔らかな声で小さなリュネットを呼んでいた。その優しい手に撫でられるのがリュネットはとても好きだった。


「そういえば、スターウェルの父親が変なことを言っていたね」


 不意に思い出してマシューが呟くが、その声音には僅かに不快そうなものが滲んでいる。

 ええ、とリュネットは頷いた。

 リュネットを阿婆擦(あばず)れと呼んだドナルドは、さすがはあのフランス女の孫だ、と侮辱的に言った。それが誰を指しての言葉かは間違えようもない。


「祖母は十六のときに祖父と結婚したそうなのですが、そのとき、祖父はもう四十歳を超えていて、とても年の差があったのだと聞いています」


 リュネットの記憶の中にある祖父も、祖母に比べると随分老けている印象だ。三歳のときに亡くなったので、もうほとんどおぼろげにしか覚えていないが。


 祖父はまだ若い頃に一度結婚していたらしいのだが、それがとても浪費癖の酷い女性で、最後には若い不倫相手と遊びに出かけ、そのまま事故に遭って亡くなったということだ。これもいろいろ陰口を言っていた親戚の人の話で聞き知った。

 そんなことがあった祖父は結婚には懲り懲りで、周囲がいくら勧めても再婚をする気配がなく、子供がないのでノースフィールド伯爵家の家督はどうなるのか、という話に至っていたという。


 結果的に、一番近い血縁だった甥のドナルドが養子に入る予定で話が進んでいたのだが、外交の仕事で一年ほどフランスに行っていた祖父が帰国すると、彼は新しい花嫁を伴っていたというのだから、周囲の人々の衝撃はかなりのものだったことだろう。しかも、その花嫁がまだ十六歳で、妊娠しているとしか思えない大きなお腹を抱えていたのだから、親戚の中には卒倒する人々もいたという話だ。

 このとき祖母のお腹の中にいたのが、父のフェリクスだ。


 ドナルド一家とリュネットとの確執はこのときに始まったと言っても過言ではない。家を追われ、いろいろと世間の事情を知るような年頃になってきて、リュネットはドナルドの態度をなんとなく理解した。自分が受け継ぐ筈だった家督を、突然異国からやって来た花嫁のお腹の中にいる子供に奪われてしまい、その状況に絶望したのだろう。

 家督を継げない次男以下の子供は、成人すると貴族ではなく一般人となる。階級社会から追い出されないように、爵位持ちの娘の婿に入るか、軍人や医者、弁護士などの名誉ある職を得て身を立てるのが一般的だ。もちろん、ドナルドのように親戚の爵位を継ぐということもある。


 祖父母の結婚により、ドナルド・スターウェルの人生設計は崩れてしまったのだ。

 だからといって、身寄りを亡くしたリュネットの保護と後見を放棄していいことはない。いくらフェリクスを恨んでいても、その娘に酷いことをするなどとは、なんと狭量な男だろうか。

 先日直接会った様子を見ていると、ジョセフと結婚してもいいことがないのも目に見えている。あの親子に苛め抜かれるか、財産だけ奪われて再び追い出されるかだろう。


 話を聞いていて、マシューはようやくスターウェル家の関係に理解が及んだ。雇っている探偵は優秀で、調査も随分捗ってはいるが、やはり関係者の語る事実が(もたら)す情報には敵わない。

 他所の家の深い事情に首を突っ込むのは好ましくないが、それを聞けたからこそ、ドナルドが家督と財産に執着する理由が見えてきた気がする。


「ところで、フランスに親戚があると言ったね。そちらと連絡は取っていないの?」

「ええ。名前も知りませんので」


 もしも連絡を取れていたら、ドナルドに寄宿学校に放り込まれることはなく、フランスに送られていたかも知れない。当時フランス語が碌に喋れなかった幼いリュネットは、それだけで苦労しただろう。


「父達は連絡を取っていたようですが、私はまだ幼かったので、そういうことはよくわかっていませんでした。両親が亡くなって家を出されてしまったので、遺品を調べることも出来ませんでしたし……親戚があるということくらいしか知りません」


 マシューは少し考え込むような仕種をした。

 これ以上話すこともないのでリュネットも黙ると、部屋の中には静寂が降りて来る。暖炉の炎が時折爆ぜる音が小さく響くだけで、あとはなにもなかった。


 しばらくして時計の音が響く。数を聞いていると十一時になったらしいことがわかる。

 この部屋を訪ねたのは九時半を回った頃だった。一時間という約束だったのに、随分と過ぎてしまっている。

 そのことには気づいていないらしいマシューが、黙考から顔を上げて「もしも仮に」と口を開いた。


「この僕の恋人である――ということになっているきみに、スターウェルから根気強く結婚を迫ろうとされた場合、外国に逃げ出すつもりはある?」

「それは……なくもないです。必要ならば」


 ドナルド達に捜されていると知って、田舎で息を潜めるか、外国に逃げるか、という二つの選択肢を自分で最善として導き出していた。先日のことで結果としては居場所を知られているだろうが、田舎暮らしの方を選択しているのが現状だ。

 その田舎暮らしをやめて外国に逃げるということは、もしかすると、疎遠になっている祖母の血縁を頼ろうということなのだろうか。


「お祖母様の名前とか、記憶にある?」

「名前ですか……?」

「うん。名前がわかれば、なんとか辿れるかも知れない」


 マシューの真剣な表情に、これは本気なのだな、となんとなく悟る。

 リュネットは幼い日の記憶を必死に呼び起こす。


「――…えーと……確か、Gだから……ジブリー……違う。確か……えーと……」


 祖母の面影はなんとなく思い出せるのだが、小さかった自分は『おばあちゃま』と呼んでいたし、まわりからも|ノースフィールド伯爵夫人レディ・ノースフィールドと呼ばれることがほとんどで、滅多に呼ばれることのなかった名前はどうしても出て来ない。

 濁音が入っていたのも確かだし、ハンカチにGの字を刺繍していた記憶があるので、名前はGから始まるものだと思う。


 散々悩んだ末に、病床の祖父を見舞ったときの記憶が蘇った。

 皺だらけの祖父の手がベッドの上からそっと持ち上がり、枕元にいた祖母の頬へ力なく伸ばされた。その手に祖母が手を添わせ、微笑みながら何度か頷いた。そのときに掠れた祖父の声が呼んでいたのが、祖母の名前だ。


「ジジ……ジュヌヴィエーヴ……そう。そうだわ。ジュヌヴィエーヴです! たぶん!」


 幼い頃のことなので定かではないが、恐らく合っている筈だ。

 マシューは立ち上がって紙とペンを手にすると、今聞いた名前を忘れないように書きつけた。


「四十年ほど前に、英国(イングランド)の外交官と結婚したジュヌヴィエーヴという女性――うん。いい手掛かりが出来たね」


 祖母がそれなりの家柄の娘だったのならば、名前がわかっていればなんとかなるかも知れない。時間はかかるかも知れないが、渡航記録などを辿れば家系の何処かに行き着く筈だ。


「でも、ずっと連絡も取っていなかったのに、大丈夫でしょうか?」


 仮に見つかって連絡がついたとしても、そんな親戚は知らない、と言われるのがオチではないだろうか。


「そこは連絡を取ってみないとわからないだろう? 七年前まではやり取りがあったのは確実なんだから、もしかすると、向こうでもきみの消息を捜しているかも知れない」

「そうでしょうか」

「そうだと願いたいね。他人の僕よりも、きっと力になってくれるだろうし」


 そう言ってマシューは微笑み、祖母の名前を書き留めたメモをしまった。

 彼がどうしてこんなにも親身になってくれるのか、リュネットはやっぱり理解出来なかった。恩があるからだ、と説明されたが、まだ納得出来ない。


「あの、侯爵……」

「おっと。もうこんな時間だったんだね」


 声をかけようとしたのに遮られ、部屋に戻る時間だよ、と告げられた。


「また明日もある。今日はもう休んだ方がいいよ」


 言われなくともその通りなのだが、なんとなく話をはぐらかされたような気分になり、リュネットはほんの少しだけ不満な気持ちを抱いた。


「飲み物は、明日もホットミルクでいいかい? 紅茶だと眠れなくなるかも知れないから」

「そういう効果があるのですか?」

「あるらしいよ。就寝前に飲んだことがないから知らないけれど」

「では、ミルクをお願いしてもよろしいでしょうか?」

「わかった」


 部屋の外まで見送られ、そこでおやすみのキスをされそうになったので、驚いて思わず身を躱してしまう。すごく自然な仕種だったので流されそうになってしまった。


「――…ああ、いけない。触れない約束だったね」


 思い出したかのように呟いたマシューは苦笑し、その場で手を振った。


「おやすみ。風邪をひかないようにね」

「おやすみなさい、侯爵」


 一礼して身を翻し、自分の部屋までまっすぐ歩いて行く。歩いている間、背中に見守るような視線を感じていて、少し緊張した。

 学習室の隣の部屋に入ってドアを閉めると、ホッとした。これまでにも何度か二人きりで話す機会はあったが、未だに慣れず、やはり緊張するものだ。夜というこの時間帯もよくないのだろう。


 溜め息を零しつつ寝支度を整え、明日の授業の準備をしてからベッドに潜ることにした。





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