9.胡蝶の夢
タイトルの意味:夢と現実がはっきりと区別出来ないこと。
何故、車に乗らなくなったのか。
公一からの質問に、千晶はコーヒーを飲んで喉を湿らせてから答える。
「大学一年生のときに免許を取ったものの、周りの友達が運転好きだったり車を持っていたりで、乗せてもらう機会がとても多かったんです。大学を卒業したら、今度は仕事が忙しくなった上、ドイツへ海外赴任になってますます乗らなくなって」
大学の同級生や、楓の夫である豊や、元彼の直哉など、彼らは遊びに行くときは必ず自分で運転したがった。千晶も楓もそれに甘えていた。
日頃から母や弟に使う言い訳を口にすると、公一が質問を重ねる。
「千晶さんの家には、自家用車がありましたよね?」
「ええ、弟や母がよく乗っています」
「乗ろうと思えば、いつでも乗れる環境にいたわけですよね。友達によく乗せてもらっていても、仕事が忙しくても、自分が乗りたいなら時間を見つけて乗ることはできたと思うのですが」
「それは……」
言いよどむ千晶に、公一が申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、責めているわけではないんです。車の運転を避けている根本的な理由があるのではないかと、思いまして」
「根本的な、理由……」
「ここへヒアリングに来ていただけたのですから、真剣に運転を習い直したいというお気持ちは、よく伝わります。だからこそ、これから乗り続けていただくためにも、お聞きしておきたいんです」
公一の真剣な表情に、十二年前、直哉と別れ話がこじれてコンビニの駐車場に置き去りにされた、あの日のことを思い出した。
体調を崩して動けないでいた千晶は、たまたま通りかかった公一に背負われて家まで送ってもらったのだ。
今思い出しても恥ずかしすぎる。弟の友達におんぶされるって、どういう状況よ……。でも、家族みんな出掛けていたし、携帯電話は充電切れだったし、かなり有り難かったんだよね。家までの道すがら、私の愚痴を聞いてくれたり、慰めてくれたり、本当に優しかったっけ。
仕事ということもあるけれど、そんな彼ならきっと笑わずに聞いてくれるだろう。千晶は、誰にも話したことのなかった、車の運転を避けている一番の理由を話すことに決めた。
「夢を、見るんです」
「夢? 寝ているときの?」
「はい。車に乗っている夢です。しかも、必ず事故を起こすんですよ。崖下に転落したり、道路から飛び出したり、他の車にぶつかったり。冷や汗をかきながら飛び起きるんです……」
「目覚めが悪いですね」
インターネットで調べたら、夢占いで車の事故は、目標としているものに障害があるという意味を持つらしい。
「そして、その夢を見たあとは必ず、子供の頃実際に車にひかれたことを思い出します。私の不注意で交差点に飛び出してしまったのが原因なんですが」
「それは大変でしたね。怪我は?」
「幸いなことに軽傷でした。後遺症もなくて。ただ、事故の後、父と一緒に警察署へ行ったのですが、警察の人から『相手を訴えますか?』と聞かれたのです。私が飛び出したのに、車の運転手が悪いことになってしまったのが衝撃的で、とても怖くなりました」
いくら慎重に運転していても、自分のように人や自転車が飛び出してくる可能性が十分あり、避けられないときがある。子供心に、車に乗るという行為は責任が重いのだと、心から痛感した。
「たしかに、自分が気を付けるだけでは済みませんからね」
「夢に影響されるなんてって、笑われそうで誰にも話せなくて。でも、夢の記憶と実際の記憶が重なって、恐怖感に襲われるんです。本当に、お恥ずかしい話で……」
「そんなことありませんよ。お話してくださってありがとうございます」
「いえ……」
公一が千晶を慰めるかのように柔らかく微笑む。
「車の運転を教える会社に勤める僕が言うのもなんですが、はっきり言って車に乗らなくて済むなら乗らないほうがいいんです。操作を間違えれば物だけではなく、最悪の場合人を傷つけてしまう。千晶さんはその可能性をしっかり考えているからこそ、運転に躊躇しているように思えるんです。それは間違いではありません」
「そう、ですか?」
半信半疑な千晶に、公一が力強く頷く。
様々な理由をつけて運転を避けている自分が嫌だった。基本的に何事にも前向きに関わる性格だと思っていたのに、車の運転だけは消極的になるのがもどかしかった。
しかし、公一はたかが夢だと笑わず、二十年以上前の出来事を引きずっていると馬鹿にせず、理解を寄せてくれた。
心から安心しながら、残りのコーヒーをゆっくりと飲む千晶に、公一が質問を続けた。
「では、今回何故ペーパードライバー教習を受けようと思ったのですか? 再就職のためだと、メールでは書いてありましたが」
「はい。周りのアドバイスで、運転に慣れておいたほうがいいと言われまして。あとは……」
「あとは?」
「父のお墓参りに、行きたくて」
千晶の言葉に、公一がハッと顔色を変えた。