8.机上の空論
タイトルの意味:想像上の役立たずな考えや理論。
千晶とカフェ「アプテノディテス」のマスターが微笑みあっていると、公一が口を挟む。
「正和さん、あちらのお客様が呼んでいますよ」
「ああ、失礼しました、ご注文はお決まりですか?」
その心なしかぶっきらぼうな言い方に、千晶はハッとした。
いけない、今日は真剣に話を聞きにきたのに。気を引き締めなくては。
「すみません、公一さんはお仕事なのに、すっかりカフェの雰囲気を楽しんでしまって」
「え? 全然構いませんよ。千晶さんがリラックスできているようで安心しました」
慌てて謝ると、先程の不機嫌そうな様子はどこへやら、公一が笑みを深める。
「ところで、千晶さんはどうして僕に対して敬語を使うんですか? くだけて話してもらっていいんですよ」
「これからお世話になるわけですから、一生徒として扱ってほしくて。言いづらいこととかも、はっきり伝えてくださいね。遠慮も禁止ですよ」
「ふふっ、わかりました。仕事ですから、元より承知していますよ。でも、そこまで考えてくださってありがたいです」
その後はしばらく弟の百太の結婚の話をしていると、他の客の注文を聞いてカウンターの中へ戻っていたマスターが、コーヒーをトレイに乗せて再びやってきた。
「お待たせしました。本日のコーヒーです。お熱いので気をつけてくださいね」
今度はウインクひとつ残してすぐに立ち去った。
ウインクする素敵なおじさま、最高過ぎない……?! あ、セバスもよくウインクしてたっけ……ううっ、古傷が……。
千晶は友達以上恋人未満だったドイツ人を思い出して落ち込んだ。気持ちの急上昇についていけない。
ひとまず落ち着こうと、カップを持ち上げて口をつける。酸味と甘味と苦味がほどよいバランス。心が軽くなった。美味しいコーヒーを飲むだけで癒される単純な自分に感謝する。
ふと公一を見ると、またも不機嫌そうに眉をしかめていた。今度は何だろう。コーヒーが口に合わなかったのか。
じっと見ていたからか、公一と目が合ってしまった。千晶は思わずへらっと笑いかける。
「美味しいですねえ」
「……そうですね。それでは、そろそろペーパードライバー教習の内容についてご説明しますね。こちらの資料をご覧下さい」
笑顔で数枚の紙を取り出す公一だったが、一瞬間があったことに、千晶は気付いていた。
もしかして、ウインクされていい年してはしゃいじゃってるよ、って呆れられてる? ……ふう。千晶、よーく聞いて。あなたは、仕事もお金も恋人も何も持っていないアラサーなの。転職前にまずはペーパードライバーを卒業しようと、ここに来た。いつまでも浮わついているんじゃないわよ! ……よし、もう大丈夫。心が瀕死状態だけど。
自分の立場を言い聞かせ、今度こそしっかり話を聞こうと、真剣な顔で提示された資料を手に取る。
公一がA4サイズの紙を二枚テーブルに広げる。教習日数ごとの料金の一覧表だ。
「弊社は、一日二時間の教習となっています。免許を取ってからどれくらい乗っていないかで、教習の日数の目安が変わります。事前に頂いていたメールでは、千晶さんは十九歳で免許を取ってから約十五年間、ほとんど乗っていないそうですね。それならば、四日間か五日間のコースが良いのではないかと思います。千晶さんのご都合もありますから、短くしたり長くしたりは可能です」
公一がメールをプリントアウトしたものを確認しながら、千晶の現状を踏まえて提案する。
五日間の金額はなかなかかかるが、それよりも、千晶には信じられないことがあった。
「本当に、一日二時間を五日間習っただけで、まともに運転ができるんですか? 弟から聞いていると思いますが、私の運転は地獄ですよ? 一ヶ月くらい毎日何時間もみっちり乗って、何とかなる程度では……」
必死になって言いつのる千晶を見て、公一はゆっくり頷く。
「心配になりますよね。もし教習終了となっても、ご希望でしたら有料になりますが、追加で日数を増やすこともできます。大丈夫ですよ、そもそも千晶さんは運転免許証を取得しているのですから。ご自分のペースで、ゆっくり思い出していきましょう」
「はい……」
不安げな千晶を励ますように、公一は明るく話を続ける。
「弊社では、だいたい一週間に一度のペースでの教習をおすすめしております。次回までにご家族と一緒におさらいしておくこともできますから。五日間だと、約一ヶ月ちょっとかかる予定ですね」
「そうですか……おさらいかあ、百太も母も助手席に乗りたくないって言われちゃったからな……」
千晶は苦笑いを浮かべて呟く。すると、公一が眉間に皺を寄せながら、両手を何かにかざしているように広げた。
「むむっ……見えます見えます。とある休日、千晶さんの弟の『友人』がたまたま遊びに来て、一緒に美味しいコーヒーを飲みに車で行きましょう、と誘われる未来が見えます……その『友人』は運転のアドバイスをしてくれるでしょう……」
「っふふ! 占い師さん、とってもありがたい結果が出ましたけど、その『友人』さんのお休みに仕事をさせてしまうのは心苦しいですよ」
公一の言葉を冗談だと捉えて、千晶は思わず吹き出してしまった。
かっこよくて優しい上に、気遣って慰めてくれるなんて、天は二物どころか三物も与えるのねえ。モモちゃんには素敵な親友がいて、お姉ちゃん安心だわ。
「……信じるか信じないかは、千晶さん次第です」
「あはっ、占い師モードでヒアリングしたら、お客さんが運転以外のことも相談しそうですね……あれ、どうかしました?」
「いえ、何でもありません。ちょっとふざけすぎましたね。失礼しました。あとは、何か他に質問はありますか?」
苦笑いを浮かべて、公一が広げていた両手を組んだ。占い師モード終了ということで、千晶も真面目な顔で答える。
「まずは乗ってみないと何とも言えないので、とりあえず大丈夫です」
「わかりました。ではこちらから何点かお聞きしたいことがあります。運転しなくなった理由はありますか?」
「理由……」
「特になければ構いませんが、今ある不安要素をお聞かせいただければ、実際の教習のときになくしていけますから」