5.百年の恋も一時に冷める
タイトルの意味:長く続いた恋でも一瞬にしてさめてしまう。相手の嫌な面に思いがけなく接したときのようすにいう。
しばらく黙って聞いていた楓が、口を開く。
「ふうん、なるほどね。でも、もう少し休んでてもいいんじゃない? 千晶は働きすぎだったもの」
「そうはいってもねえ。パートナーはいないし、父親が亡くなって母親は定年間近だし、ここで動かないとずっと実家に寄生しそうで」
「パートナーか……」
楓がぽつりと呟く。千晶は思わず目を輝かせて身を乗り出した。
「ちょ、ちょっと! 何その心当たりがあるような雰囲気は!」
「ごめん、何でもないわ。それはともかく千晶は……」
「教えてよー! どんな人? 年齢は? 性格は?」
「だからそういうんじゃ……」
「どこに住んでるの? どういうつながりの知り合い? 優しくて健康で仕事してる成人だったらどんな人でもいいわ!」
千晶の婚活センサーが過剰に反応する。怒濤の質問返しに、楓は重い口を開く。
「年は豊さんと同じ二歳上、仕事はシステム会社の営業で課長、年収も同年代より上、住まいはうちから車で三十分くらい、つながりは……大学のサークル」
「へ? うちのサークル?」
「はっきり言えば、直哉さんのことよ、あなたの元カレの。十年前に結婚、三年前に離婚。バツイチで子供はいない……」
「訂正します。その人以外ならどんな人でもいい、の間違いでした」
楓の言葉に被せるように、千晶は両手で大きくバツ印を示す。
直哉とは二十歳の頃から二年間付き合った。豊と同学年で、リーダー気質でみんなの兄貴分な彼に千晶は熱を上げていた。
しかし、別れは唐突に訪れる。
千晶が大学四年生の冬、社会人二年目の直哉から、突然切り出された。
* * * * *
「千晶、俺たち別れよう」
車酔いで気持ち悪くなった千晶の要請で、コンビニの駐車場に車を止めた直哉が暗い声で呟いた。
「何……え、今、笑えない……」
「本気だから」
千晶はひきつった笑みを見せるが、直哉の横顔は決して冗談を言っているようには見えない。仕事が忙しいらしく、目の下には隈が目立つ。学生時代、あんなに自信に満ちあふれていた直哉の面影はほとんどなかった。
「ど、して、急に……」
「急じゃない。ずっと思ってた。千晶は一人で何でも完結してるんだよな。俺がいなくたって、一人で生きていけるだろ。ちゃちな会社に勤めてる俺と違って、一部上場の大企業に就職先が決まってるんだし?」
「そんなこと……」
「全然甘えてこないしさ。俺、そんなに頼りにならないか? 可愛いげがないんだよ。どうせ俺のこと、自分が支えなくちゃ生きていけない安月給のショボいおっさんだと思ってんだろ。はっきり言えよ。お前の考えてることは全部わかってんだよ」
一方的過ぎる言い分に、千晶は言い返そうとしても言葉が出ない。それどころか、息が苦しくなってきた。
何で、どうして、いつから、何が、誰が、どうなってるの。ああ、呼吸ができない。心臓の音がうるさい。ここから逃げたい。逃げたい。
「……飲み物買ってくる」
直哉から返事はなかったが、そのまま車の外へ出た。振り返らずにコンビニへ入り、ドリンクコーナーの前で大きく深呼吸をする。すると心の声が雪崩のように押し寄せた。
直哉が自分の負担にならない自立した女の子が好みだって言ったんじゃない。社会人の直哉の迷惑にならないように、寂しくても泣き言言わないでいつも笑顔を心がけていたのに。「甘えてこない」? 「可愛いげがない」? 「お前の考えていることは全部わかってんだよ」? ふざけないでよ!
緑茶のペットボトルを取り出しながら、イライラが止まらない。
ドンッ!
思わず乱暴にレジに置いてしまい、慌てて店員に謝る。
人に八つ当たりなんて最低だと、千晶はひどく気落ちしながら、ノロノロと駐車場に戻る。
そこには信じられない光景が広がっていた。
「嘘……」
数分前まで停めてあった直哉の愛車が、影も形もなかった。辺りを見渡しても、同じ車種は一台も停まっていない。
千晶は思わずその場にへたりこんだ。車酔いと貧血も手伝って、足に力が入らない。
別れたいほど私に不満があったからって、置き去りにするほど? そこまでひどいことを私が直哉にした?
惨めで、辛くて、悲しくて、気持ち悪くて、絶望に押し潰されそうになる。
この世界から今すぐ消えてしまいたい。
* * * * *
あのときの言葉、体調の悪い私を置き去りにしたこと、十年以上経った今でも忘れていないんだから……! 何とか家に帰ったあと、携帯電話に直哉からメールや着信が何件も入っていたけど、見ないで連絡先ごと全部消してやったわ……!
千晶の瞳に暗いものが浮かぶ様子を見て、楓が申し訳なさそうに目を伏せる。親友の彼女にだけは、別れたときの経緯を全て話してあった。
「そりゃそうよね。あんなひどい別れ方したんだから。本当にごめんなさい。つい、条件だけならいいから、思い出しちゃって。直哉さん、離婚して転職してからよく豊さんと遊んでるの。のえるもなついてて」
「知らなかった……」
大学生の頃、楓と直哉はたまたま地元が同じだったらしく、先輩後輩としてとても仲が良かった。千晶と直哉、楓と豊のカップルは付き合った時期もほぼ同じで、グループで遊びに行くことも頻繁にあったほどである。
千晶たちが別れたあと、風の噂で直哉の結婚式に楓たち夫婦が出席したと聞いた。それでも楓から直哉の話を聞くことは、今まで一度もなかった。
「直哉さんはずっと千晶に会いたがっているけど、私も豊さんも断固拒否しているから。もう二度と話題に出さないわ。本当にごめんなさ……あ」
またも何か思い出した様子の楓に、千晶は弱々しく首を振る。
「もうパートナーとかいいよ……ニートな私が婚活センサーを働かせたのが悪かったんだよ……転職活動と、運転の練習をしないと……」
「違う違う。今思い出したのは、運転の方。ペーパードライバー講習を受けてみたら?」
「ペーパードライバー、講習?」
聞き返す千晶に、これこれ、と楓が引き出しから一枚の紙を手渡す。
『出張ペーパードライバー講習専門』、『運転に不慣れな方も安心です!』、『予約のお客様にはペンギンのぬいぐるみプレゼント』の文字、サングラスを付けたペンギンが車を運転しているイラストが書かれたチラシだった。かわいい。
「この近所にある、片近ドライバーズスクールなんだけどね。片近の音読みの『へんきん』が『ペンギン』に似てるから、『ペンギン・スクール』って呼ばれてるの」
「へえ、かわいいねぇ……あれ、片近?」
ペンギン好きの千晶は思わず頬を緩めるも、片近という名字に引っかかった。




