2.重い腰をあげる
タイトルの意味:なかなか行動を起こさなかったが、やっと取り組み始める。
弟の百太の結婚&妊娠報告から一夜明けた土曜日の朝、千晶は真剣な顔で朝食のクロワッサンを頬張っていた。
「んー、なかなか条件に合う職場が見つからないなぁ……」
「食べながらスマホを見るなよ。行儀が悪い」
「はいはい」
「それにしても、ようやく働く決心ができたのか。ニート千晶の名も返上だな」
転職サイトの情報が並んでいるスマホの画面から顔を上げた千晶は、隣で卵焼きを口にする百太を睨んだ。
「ニート千晶って……変なあだ名付けないでよ。来年には叔母ちゃんになるのに、甥っ子もしくは姪っ子にお小遣いもあげられないのは、切ないでしょ!」
「気が早いにもほどがあるだろ」
「それに、嬉しかったんだよね」
「何が」
千晶は急にニヤニヤしながら、怪訝そうな百太を見つめた。
「いつもは憎たらしいことしか言わないモモちゃんが、私のこと心配してくれてたなんて。これからは、義妹ちゃんに色々聞こうっと」
「ごちそうさん!」
千晶の生暖かい視線を避けるように、百太は耳を赤くして慌てて立ち上がる。
昨晩、シャンパンをのどに詰まらせて咳き込んでいた千晶が祝いの言葉を何とか絞り出した後、弟の婚約者が目をキラキラさせて口を開いたのだ。
『お義姉さん、以前海外で働いていたんですよね? すごいです!』
『いやいや全然……今はただの無職だから……』
『頼りにされると頑張りすぎる性格だから、せっかくの機会なんだしゆっくり休んでほしいって、百太さんが話してましたよ』
普段憎まれ口を叩く弟の思いもよらない言葉に、千晶はその場で泣きそうになってしまった。
「ねえ、市役所の社会人採用枠はどうかしら? 千晶ちゃんは公務員に向いてるって、前からお父さんも言ってたもの。そうよねえ、お父さん」
リビングの隣の和室から、母が声を上げた。
千晶は食べ終わった食器を軽く洗ってから、母の隣に座った。
「そんなことないよ。お父さんみたいに誰にでも親切にできないもん。クレーマーにまで親身に対応してたの、よく覚えてる」
「地元愛が強い人だから、クレーマーなんて思ったことないんじゃないかしら。ねえ、お父さん」
そういって母は、目の前の仏壇に飾られた父の遺影に微笑む。千晶は手を合わせて目を閉じる。これは久川家の朝の日課である。
地元の市役所で長年働いていた父は、一年前、突然の病に倒れた。それは千晶が友達以上恋人未満のドイツ人と絶縁して間もない頃のことだった。
千晶はすぐに帰国して病院へ駆けつけ、数日間一緒の時間を過ごすことができたものの、このことがあって海外で働いているのが辛くなった。
家族に何かあっても、時間のロスがありすぎる。恐怖さえ芽生えた。
「お父さんって、最終的に秘書課にいて、市長の補佐をやってたよね。スケジュール管理とか公用車の運転とか、イベントの付き添いとか」
「市役所って市民相手から対外向けの仕事まで幅広くあるから、千晶が旅行会社でやってきたことも、無駄にならないんじゃない?」
「うーん、そうだねぇ。確かに興味出てきた、かも」
「あ、市役所受けるなら、姉ちゃんも車の運転できたほうがいいかも」
いつの間にか母を挟んで百太が座っていた。早速市役所のホームページで調べようとしていた千晶は、唐突な話に眉をひそめる。
「どうして」
「まあ必須じゃないけど。最近の若い子は車の運転ができない奴が多いから、免許あるなら乗れたほうが仕事の幅も増えると思う」
「そうねえ。確かにうちの会社でも、お客さんを案内したり、物件を確認しに行ったり、結構頻繁に使うわ」
「役所に入ったらどこの所属になるかわからないけど、何年か毎に部署移動もあるし、緑化管理の仕事だったら、一日で何件も公園回ることになる」
隣町の町役場で働く弟と、不動産会社の事務のパートをしている母の言葉に、千晶は盛大に顔をひきつらせる。
「免許取って十五年、完全なペーパードライバーの私に、本気で言ってる?!」
数時間後、千晶は蒼白な顔で車の運転席に座っていた。
助手席に座る百太が、スマホの地図アプリをいじりながら呟く。
「楓さんの家なら、ここから車で十五分もかからないくらいか」
「う、うん」
「俺はこの後、公一と会う約束してるから、車はそのまま乗って行くから」
「う、うん」
楓は千晶の大学時代からの親友で、結婚して隣町に住んでいる。ちなみに百太が働いている役場がある町だ 。
今日は元々、楓の家に遊びに行くことになっていた。自転車で向かおうと思っていたのだが、それを知った百太が、それならちょうどいいと無理やり千晶を車に乗せたのだ。
「今度、中学のときのバスケ部の顧問が定年退職することになって、プレゼントを探しにいくんだ。久々に他のメンバーに会えるから楽しみなんだよ」
「う、うん」
百太は中学時代バスケ部に所属し、当時はたくさんの同級生が遊びに来ていたが、今でも付き合いがあるのは公一くらいだという。
しかし、千晶はそれどころではなかった。
スマホを鞄に閉まった百太が促す。
「ほら、まずはエンジン入れて」
「エ、エンジン? あの、これ、鍵が、ないんだけど……ハンドルの回りに、どこにも鍵穴が、ないよ……あと、アクセルとブレーキ、どっちがどっちだっけ……?」
「姉ちゃん、そっからかよ!?」
百太の叫び声に、涙目の千晶は途方に暮れるしかなかった。