1.寝耳に水
「……セバス、今、何て言った?」
ベルリンのフリードリッヒ通り沿いにあるコーヒー専門店。その窓際のカウンターに、一組の男女が並んで腰かけていた。
お気に入りのコーヒーを飲もうとしていた女性だが、男性の発言に思わず手を止めて聞き返す。
「だからね、彼女が妊娠したんだよ! 僕がパパになるんだって! チアキも喜んでくれるだろう?」
自分の恋人だと思っていた目の前の男が、頬を赤らめて興奮している。女性は頭が真っ白になった。
「どういうこと? 一体、何の話? セバスの彼女が、妊娠って……じゃあ私は……?」
「ああ、ごめんよ。君は僕を好きになっていたんだね。残念だけど、僕らは結ばれる運命じゃなかったんだよ」
「運、命……」
絶句する女性に、男性が申し訳なさそうに軽く首を振った。金に近い茶髪の癖っ毛がふわりと揺れ、彫りの深い男前な顔立ちに憂いを滲ませる。
以前だったら、セクシーな仕草やロマンチックな言い回しに胸をときめかせていたが、今は何も反応しない。
「安心して、チアキはとても素敵な女性だ。その美しく伸ばした黒髪と猫のようなかわいい瞳で見つめれば、たちまち新しい恋が見つかるさ。友人の僕が保証する」
男性は女性の手を取り、その灰色がかった青い瞳でウインクを決める。
ようやく全てを理解した女性は、乱暴に手を振り払い、キッと睨み付けた。
「最初に口説いてきたのはそっちでしょうが!! やることやっておいて友達?! ふざけんな、この××××男!!」
自分の叫び声で、千晶は飛び起きた。
一瞬今いる場所がどこかわからなくなり、キョロキョロと辺りを見渡す。見慣れた自分の部屋のベッドの上だと気付き、大きなため息を吐く。
「はあ、またこの夢か……」
再びベッドにバタリと倒れ込む。
今見た夢は、一年前に起こった実際の出来事だった。
千晶は大手旅行会社に勤めていた。五年前、二十九歳のときにドイツのベルリンにある営業所に転勤となった。
現地の日本人たちとの交流の中で、日本語に堪能な六歳年下のゼバスティアンを紹介されたのが二年前。三十路を過ぎて、地元の友達が結婚したり出産したりしているのに、現地で言い寄られるのが日本からの単身赴任の既婚男性ばかりで、げんなりしていたときだった。
「バーテンダーで背が高くてイケメン、モテないはずがないのに……言い寄られて浮かれた自分をビンタしたい……」
枕に顔をうずめながら呻く。
「小柄で猫のように愛らしい。僕の理想だ」と会うたびに誉められ、悪い気がしなかった。そのうち深い仲になり、初めての外国人彼氏に夢中になった。
千晶は、日本女子の平均を越えている165センチの身長とつり上がりぎみの目をずっと気にしていた。だからこそ、190センチ近いゼバスティアンの口説き文句にコロッと引っ掛かってしまった。
盛り上がりすぎて、家族や友人に彼と結婚すると宣言したり、日本とドイツのどちらで子供を産もうかと真剣に考えたり、もはや黒歴史過ぎる。結局付き合ってもいなかったとは、一人相撲もここまでいくと笑うしかない。
同じ時期に起きた別の事情も重なって、頑張っていく気力がポキリと折れ、完全にホームシック。会社に日本への転属願いを出したのだが。
「昇格させるからって、ブラジルはないでしょ……うう……」
千晶の転属願いは保留の上、新規開拓でブラジルの営業所の副所長を打診される。全てが嫌になり退職願いを出して、受理されたのが半年前。
三十四歳になった千晶の現在の肩書きは、実家暮らしの無職だ。
「はあ……とりあえず起きよ……」
すっかり増えた独り言と共に、のろのろとベッドから下りる。帰国を機に、バッサリと切った肩上のボブカットを手ぐしで整えながら、部屋着のジャージに着替えようとしていると、
シュポン。
スマホの連絡アプリの通知音だ。
確認すると六歳下の弟、百太からだった。
『今日の夜、夕飯おごるからココに来て。俺の名前で予約してあるから』
『モモちゃーん! わーい、珍しいこともあるね!』
『モモちゃんって呼ぶな。いつものだらしない服はやめろよ。見苦しくないように化粧もしてこい』
「かわいくない男め……おごりだからと上から目線で……」
憎たらしい言葉に顔をしかめつつ、送られてきた店のURLをタップすると、千晶は思わず歓声を上げる。
「わっ、ここ行ってみたかったフレンチのお店! ランチでも結構いいお値段するのに、モモちゃん太っ腹〜いい男〜」
手のひら返しで弟を誉めつつ、小躍りしながら久しぶりによそ行きのワンピースやアクセサリーを用意しているうちに、気落ちしていたテンションも元に戻ると思った……が。
「俺、この子と結婚するから。来年には子供も生まれる」
「あらまあ、そうなの! おめでとう! 私もおばあちゃんになるのね〜」
「うぐっ?!」
目の前の弟は真剣な顔で、隣に座る若い可憐な女性は頬を染めて、二人して深々とお辞儀をした。
大喜びの母をよそに、彼女がいることすら知らなかった千晶は、優雅に飲んでいたシャンパンをのどに詰まらせかけた。




